拒否する背中 2
その年の合宿は、去年とは違った盛り上がりがあった。
海の近くということもあって、時間ができればみんなで海へ飛び込んでいたというのもあるが、一番は顧問の三宮教授が参加したのが原因だろう。
事もあろうに、部内一冷たい男…なんて本人に言えばきっと北極並の視線を送られるだろうが…青をことごとくターゲットにした悪戯が合宿を盛り上げていた。
初めは撮影の邪魔になると蒼汰も迷惑に思っていたが、よくよく見ると、その悪戯のタイミングが絶妙だ。
誰かのNGが重なって撮影現場の空気が悪くなりかけた時や、ちょっと皆の集中力が途切れてきた時…つまり、かなりの知能犯なのである。
それに付き合わされる青も、それを見て笑う部員も気がついてはいないようだったが、教授は顧問なりの合の手を入れてくれているようだった。
まぁ、今、打ち上げのバーベキューの席で仕掛けられたドッキリは…違うと思うが…。
一役買った蒼汰はずぶ濡れになった体から衣裳を脱いで上半身裸の状態で服を絞っていた。
背中で皆が春日の作った映像に声を上げているのが聞こえる。
最後に仕掛けられたのは、藍が移る場面にだけ海に人を引き込むという子どもの霊が映っていて、彼女のカーディガンが海に浮いている、本当に引き込まれたのかもしれない…と言うものだった。
予想以上の反応で、青は必至な顔をしてメガネまですっ飛ばし海に飛びこんで、おぼれ役の蒼汰を藍と間違え飛び込んだのだが…ドッキリと分かったとたんに本人は怒りもせずに無表情でホテルに戻ってしまった。
「やりすぎやな」
ちょっと気の毒に思わないでもなかったが、ふと…なぜこんなことを教授が仕掛けたのかを考える。
ただの悪ふざけ…とも考えられるが…。
ふと視線を移すと、桃が見えた。
何かを拾っている。
そしてそれを両手で包むと胸の前で抱きしめていた。
悲痛な顔だった…。
「…」
その横顔に自分の恋が重なる。
青を応援している手前もあったし、彼女のいつもの明るさに気がつかないでいたが、彼女もまた片思いなのだ。しかも、相手には他に好きな人がいるという…。
青はスミレに気があるわけでもない、かといって藍には一歩も踏み出せないでいる。なのに、桃には振り向かない…。
彼女の様子が変なのはよくよく考えれば、不自然なことではないのかもしれなかった。
教授がたったこの数日でどこまでそれぞれの関係や想いを見抜いたのかはわからないが、一石投じたかったのかもしれない。
「梅田くん。ちょっといいかな?」
声がして振り返ると、ちょうど三宮教授がそこに立っていた。
「あ、はい」
蒼汰は慌ててタオルを肩から羽織ると駆け寄る。
教授は煙草をふかしながら、桃の方を見ていた。
「ちょっと話したいことがあるんだが、余所で飲み直さないか?」
「?」
直々のご指名の理由に心当たりはなかった。
しかし、せっかくだ。蒼汰は快く頷くと、シャワーを浴びて30分後にロビーでの待ち合わせを約束したのだった。
ロビーで待ちながら、三宮は今日最後の煙草をふかせた。
離婚してからというもの、注意する人間がいなくなり、途端に本数が増えたので一日一箱と決めているのだ。
ただ、一箱も吸っていてこの節煙がどれほどの効果をもたらすのかは甚だ疑問ではあったが…。
それにしても…と空中に害気を撒き散らしてみる。
人間の計算式では想定できない煙の掴みどころのない造形に目を細める。
元来、はっきりしないことが苦手だった。だから理学という答えのはっきりした世界に身を置いた。
しかし、世界はなんとこの煙のように予測不可能で、とらえどころがなく、曖昧なことか…。
アメリカからの帰国を連絡したのは彼女だけではなかった。
大学の関係者やもちろん、元妻や娘にも連絡を入れた。
しかし、返事が一番気になっていたのは彼女かもしれない。
「まったく…」
呆れる…と続けかけて、落ちそうになった灰を叩いた。
中津紅と神崎川翠…教師生活を続けてきた中であんなに変わった生徒は他にはいない。
大学という場なので、生徒の方も大人だ。
あまり深く関わることをよしとしない教諭がいるのも事実だし、その意見はもっともだ。
しかし…
三宮は眉を寄せ、その深くなった皺に人生の苦みを滲ませた。
神崎川という男の危うさには一目あたっ時から感じるものがあった。
確かに、彼は強烈な光を持っている。それに皆魅力を感じ、引き寄せられ…たいがいの人間はその光の中で心地よく過ごすことができる。
しかしだ、その光が強いほど、三宮はその影の深さも感じていた。
何が…というものはない。勘というより経験だろう。
三宮はこれまでも、こういう二面性に本人自身苦しんでいる人間を見てきたことがある。そういう種の人間は大抵、心優しく…人を傷つけないようにと自分を抑え込み悩むのだが…神崎川はそれとも少し違った。
だから、部内で全く目立たなかった紅と付き合い始めた時は驚き、同時に彼を受け止められる人物が現れたのだと安心したのだ。
「どうしたものか」
中津紅はよく見ると美人の部類だろうが、不思議と華やかさがなかった。
本人が目立つことを嫌うのもあるのだろうが、常に自分の身の置き所を4番手あたりにわざと据えているような節がある。
だから、神崎川が彼女を選んだ時、むしろ彼の着眼点の良さに感心したほどだ。
そんな彼女と彼の問題を知ったのは、彼らが付き合いだしたと聞いて間もない頃だった。
彼女が、一人で部室の掃除をしているのを見かけた時だった。
めくられた袖の下に、酷い痣と火傷の跡がいくつも見えたのだ。
ドアを開けきる前にそれを見つけた三宮は、すぐに事情を察しその場で彼女を問いただした。
その時のことは、今でも鮮明に覚えている。
夕暮れの陽が斜めに差し込み真っ赤に染まった部室で、その細い腕は悲鳴をあげていた。
三宮が優しくその腕を掴み、その夕陽のような穏やかな声で
― 君は、これでいいのか?
と一言だけ尋ねたのだ。
三宮に顔を上げた時の紅は、秘密に気付かれたことに顔を青ざめひきつらせていたが、その声が耳に届いたとたん、緊張の糸が切れたのだろう…大きな滴をその瞳から零したのだった。
それ以来、彼女から時々話を聞くようになった。
一度、病院に担ぎ込まなけれないけないほどの骨折をした時は、さすがに警察に通報しようと言ったが、彼女は「そうするなら自分はここで自殺します」と突っぱねたのだ。
その20そこそこの生徒の迫力に負けてしまい、これまで捨て置きそのままアメリカに行くことになってしまったのだった。
神崎川という男が悪いやつではないのはわかっている。
彼なりに深い闇を抱える理由があろうことも想像できた。
そんな難しい彼には彼女のようなその闇以上の深い愛情で包む存在が必要なのかとも思う。叶うことなら、そんな彼女の想いに気がついて、彼自身救われていたら…なんて甘い期待で帰国した。
そして、先日、紅からの返事があり、一度会ったのだ。
「そう、うまくは行かんよな」
彼女の傷はなくなってはいなかった。それどころか、結婚の約束はないが卒業後も彼についていくという。
その後武庫教授から「中津さんは逸材だったに」と愚痴を聞かされたから、本気なのだろう。まぁ、あの女教授の場合、結婚話を振って大学に残った経緯があるから余計に癇に障ったのだろうが。
三宮は悪戯っぽく苦笑いすると、短くなった煙草を灰皿に押し当てた。
「さて…」
換気のように肺に新鮮な空気を吸い込む。
紅の話に聞いていた梅田とはどういう男なのだろう?
純粋に興味があった。
あんな難攻不落の守護神に守られた姫を果敢に奪おうとするのは、勇気と信念のある英雄なのか、はたまた無謀なだけの大馬鹿者か…。
この合宿で見る限りでは、ただのお調子者ではなさそうだが…彼以外にも面白そうな新入生ばかりで、なかなか気を回せなかった。
塚口も大変だなぁ…などと三宮は自分を棚に上げ、苦労人の彼を思い苦笑した。
「すみません〜」
フロントの向こうから声がして視線を巡らせる。
時間きっちりだ。
三宮は立ち上ると、軽く手を挙げた。
「お待たせしました」
「いや。まぁ、近くにいい店聞いといたから、行こうか」
「はい!」
疲れを感じさせない体育会系な返事に、その元気は評価しようと珍しく教諭らしい感想を持って歩き始めた。
背中に、他の人間の気配がして、小さく振り返る。
見ると青だった。
相変わらずの仏頂面だ。
お前も、しっかりしろよ。三宮は肩をすくめると、蒼汰を連れ出した。