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Apollo  作者: ゆいまる
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赦されぬ誓い 4

 外に出ると、雨を誘う風が吹きすぎ彼の頬を撫でた。

「……すまなかったな。つき合わせて」

 独り言のように呟く。

 紅は首を横に振った。そして、自分の肩を抱いたその時からずっと震えていた冷たい指を握る。

「私はここにいるわ」

「あぁ、今は……そうだな」

 低く笑うのは自嘲の笑みのようで、その意味がわからない紅は眉を寄せた。

 神崎川は大きく息を吐き出してから、ようやく彼女の方をみると

「疲れたな。宿は取ってある。少し休もう」

 寂しく笑った。

 予約されていた部屋はこの町で唯一のビジネスホテルで、神崎川は着くなりネクタイと上着を脱ぎ棄て、紅に背を向けベッドに倒れこむ様に横になり動かなくなった。

「あの」

 なんと声をかけていいのか分からず、入口の前で立ち尽くしていると、酷く掠れた声で

「飯食いに行ってこい。レストランは最上階にある」

 とだけ言った。一人にしておいてほしいということだろう。

 紅は頷くと喪服を着替え、廊下に出た。

 扉を閉める前にそっと窺う。投げ出された足先だけが見えた。その影に胸が重くなる。紅自身、まだ状況がよく飲み込めてもいなかったし、自分の気持ちも整理がつかなかった。ただ、この土地につくなり怒涛のように押し寄せた一連の出来事がパズルのピースのように飛び交うだけだ。

 このような現状で何か良い言葉が浮かぶはずもなく、紅は結局黙ってその部屋を後にした。



 食事の味がわからない。

 いつしか降り始めた雨は、レストランの窓を打ちまるで彼の代わりに泣いているように見えた。

 きっと彼は一人になっても泣かないだろう。ただ、唇を噛みしめじっとしているのだろう。 自分と出会う前までのように。

 出会った時のことを思い出す。

 映画部で知り合った彼は、親切で才能にあふれていて、周りにいつも人がたくさんいた。惹かれるのに時間はいらなかった。

 人付き合いが苦手で友達についてきただけの地味な自分に振り向いてくれるとは到底思えなくて、眺めているだけの時期が長くあった。

 でも、彼からショートムービーで自分を撮りたいと声をかけられてから、急に距離が縮まって……。

 あの頃は一緒にいてもよく笑っていた。

 夜を映す窓ガラスに浮かぶ自分の影を見つめた。泣きぼくろが似合う情けない顔だと紅は自嘲した。

「ここ、いいかしら」

「え?」

 顔を上げる。そして小さく紅は息を飲んだ。そこにいたのは、あの着物の女性、翠の母親だったからだ。



「驚いたでしょう。ごめんなさいね。でも、家に帰らないなら、泊まれるのはこの町ではここしかないから」

 先ほど見たよりずっと落着き、また穏やかに見えるその女性に紅はどう答えていいのか分からず、目を伏せた。

 女性は注文したワインを傾けると、雨に煙る街に目をやる。

「小さな町でしょ」

「いえ、そんな」

 優しいのね。と言う目はやはり、疲れていた。

 女性は再び街に目をやり

「お見苦しいところをお見せしたわね。翠から話は聞いてるの?」

 独り言のようだった。紅は「いいえ」と短く答える。聞かされていた話は事実だろうが、きっと話していなかったことの方が多い。そういう意味で否定した。

「そう。じゃ、聞いてくれる?」

「教えてください」

 彼の抱えているものが何なのか、知りたかった。自分に何ができるのか知りたかった。そして、これからどの道を進むべきかも。

 母親はやつれた頬を緩めると、指を組みそこにはめられている薬指の指輪を見つめながら話し始めた。



 母親の声はまるで夜の雨のようだった。

 静かで冷たくそして穏やかだった。

 紅は懺悔のように紡がれた彼女の話を、微動だにせず耳を傾けた。

 母親の話によると、彼女と神崎川の父親は断ることを許されないお見合いでの結婚だったらしい。あの父が一方的に見染めたのだ。

 この町では神崎川の名前に逆らえるものはいない。しかし、彼女には恋人がおり、結婚してからその恋人の子供が腹にいることがわかった。

 恋人との仲を引き裂かれた復讐のつもりだったらしい。

 神崎川の父には知らせず、彼の子として出産。それがあの神経質そうな兄だった。

 しかし、血液型の不一致ですぐに父親が違うことがわかり、神崎川の父は自分を裏切った彼女を許さなかった。

 神崎川の父は離縁には応じず、彼女に見せつけるように他の女性とだけ関係をもつようになった。しかし、子どもには不思議と恵まれず、気まぐれに手を出した使用人の娘が翠の母親に当たるあの遺影の女性だった。

 妊娠が分かったとたんその女性は外出を許されず、出産は自宅で行われた。

 表向き、彼女の子供ということにするためにだ。

 神崎川の父は、自分の血を受け継ぐ者の誕生を狂ったように喜び、一方でそれを産んだ女性の身分の卑しさを疎んじた。

 しかし、秘密を知る以上放置もできず、抱え込む形で使用人としてずっと雇ってきたのだそうだ。

「きっと、桜さん。翠の産みの母親の名です……は、翠を愛していたんだと思います。何も言わず、ただ彼の成長を見守るためだけによく尽くしてくれました。でも、私は……」

 母親は両手で顔を覆い、その痩せた肩を小刻みに震わせた。

 彼女、桜への仕打ちは酷いものだったらしい。

 自分の息子は血を引いていないとはいえ長男なのに、桜が子どもなんか産んだせいで神崎川の愛情は二男の翠に注がれている。

 このままでは、自分は無理やり結婚させられ離縁という逃げ道も選べず、自分の子を守れず、すべてを桜とその子供に持って行かれ、ここで腐り果てるしかないのかと、絶望に近い焦燥感に囚われてしまっていたのだ。

「それで」

 父親は兄に劣らないように翠を徹底して教育し、母親は兄を庇い翠には冷たかったのだ。

 紅は身勝手な欲望に振り回され、復讐の応酬の為に産み落とされた彼の事を思い、唇を噛んで膝の上に置いていた手を握りしめた。

「愚かだったわ、私達は。……翠が自分の生い立ちを知ったのは高校の時なの。どうやって知ったのかはわからない。でも、ある日私にこう言ったのよ


『自分が生まれた理由を知りました。何故、誰も自分を抱きしめてはくれないのかの理由を知りました。でも、このままでは生きていく理由だけがわからなくなる。だから、ここを出て行きます』


と。恐ろしかった。あの子の眼が。昏くて底のない闇がそこにあったの。私はその時、あの子を突き飛ばして背を向けてしまった」

 後悔に滲む声はもはや無意味だ。紅は慰めの言葉を探す気にはなれなかった。代わりに何故、その時に彼を抱きしめてはくれなかったのか。そんな憤りが腹の底からこの目の前の女性に向かって湧き出してきていた。

 それが、最後の、彼から母親へのSOSだったんじゃないか。

 悩んで悩んで、自分の生まれを、自分の存在を悔やんで恨んで、それでもすがるような思いで、それまで母親と思っていたその存在に、一縷の望みを、託したのだ。翠は、きっと。なのに、それをこの人は……。

「あの子の事。頼みますね」

「え?」

 そんな事、言われたくなかった。でも、あまりに切ないその声に、紅は何も言えなくなってしまう。

「結婚するのでしょう? あの子はもう、誰も『家族』と呼ばないのだと思っていたわ。だから、桜さんが亡くなったこの日に、連れて来てくれて……私は嬉しかったの。きっと」

 母親は視線を闇夜に移した。そこに見えるのは何なのだろう?

「桜さんも喜んでいると思う。幸せにしてやってね」

 幸せ。まただ。

 教授との会話を思い出す。

 蒼汰の笑顔を思い出す。

 自分は、一体どこへ行くべきなのだろう?


「幸せってなんですか?」


 紅は半ば責めるように、復讐のために子どもを産み、自分の為に自分を母親だと信じた子どもを突き飛ばした女に問うた。

 母親は、自らを恥じいるような顔をし、目を伏せると

「そうね。少なくとも、自分が愛されることばかり考えていた私達には見えなかったわ」

 そして膝の上で固く握られたままだった紅の手をそっととった。

 後悔と疲れだけが残ったその瞳に母親の温もりがわずかに燈る。

「貴方の幸せはどちらかしら? 愛される方? それとも、愛する方?」

 胸の痛みが心を蝕みそうだった。

 愛される心地よさを知ってしまったから。

 今は何もない耳朶をそっと触ってみた。そう、彼といれば満たされる。自然と笑う事が出来る。

 でも……。

 紅は目を閉じた。



 部屋に戻ると、神崎川は窓辺に佇み煙草を吸っていた。

 その眼には先ほどの母親と同じような疲労と悔恨しかない。

「飯はうまかったか?」

 正直、紅はあまり食事を喉に通すことはできていなかった。

 それでも頷いて見せると、神崎川は窓に背を預けゆっくり紫煙を虚空に吐き出した。

「そこに、明日の新幹線のチケットがある。それで帰れそれから……」

 妙な間だった。

 それまで見たこともないような、優しい顔になる。

 それは、いつもの計算されたものではなくて、弱さも情けなさもすべてを曝け出しその上で、何かを守ろうとしている。そんな顔だった。

「もう、俺の所には来るな」

「え?」

 いきなり屋上から突き落とされたような感覚に、紅は呆然となった。

 神崎川はそんな彼女の表情に苦笑すると、

「結婚なんて嘘だ。俺には家族はいらない。愛情って奴も欲望のカモフラージュでしかないと思っている。話しただろ? 新幹線の中で。今日、あの女の呪縛から解かれたら、俺はもう一人でやっていける。大丈夫だって」

「翠」

 頭が真っ白になった。

 自分を自分としてここに存在させる全ての要素が取り上げられた様な、そんな不安が襲ってきた。

 歩み寄る紅に、それを拒むかの様に神崎川は背を向けた。

「お前が幸せになれるのは俺じゃない」

「そんな」

 胸に大きな穴が穿かれ、呼吸すら意識しないとできないほど苦しくなる。

 紅はその苦しみに顔を歪めると、その冷たく孤独な背中を見つめた。

 長い沈黙が下りた。

 薄暗い部屋を沁み渡るような雨音が支配し、そこに何の誤魔化しも妥協も許そうとはしなかった。

「梅田は……」

 そこに降って湧いた名に痛みが生じ、紅はその顔に赤みを走らせそれを隠すように顔を伏せた。

 神崎川はそんな仕草に心中を察したのか小さく微笑んだ。

「いい男だよ。あんな奴は初めてだ。俺から逃げずに、お前の事をあんなに大切にしてくれる奴はな」

 煙草を灰皿に押し付けると、神崎川はその横顔で

「チケットの下にあるDVD、やるよ。今までろくに何もやれなかったから」

 そう呟いた。

 見ると、チケットの下に包みがある。

 紅はやるせない気持ちのままそれを手に取った。

 それは、自分と彼が初めて一緒に観た映画だった。

 覚えていてくれた事に、なぜか涙がこみ上げ声を詰まらせる。

 あの時、この映画の中で映されていた月を美しいといった自分に、彼は「アンタは俺にとっては月のようだな」と言ったのを思い出した。その時は『太陽』ではなく『月』な事に疑問を感じたが、今ならなぜそう言ったのかわかる。

 彼の心が闇の中で一人彷徨っていたからだ。

 だから、そんな彼を見つめている自分を月に喩えたのだ。

「紅。ありがとう。もう、お前は自由だ」

 寂しげに微笑むその目が伏せられ、再び背が向けられた。


『愛される方?愛する方?』


 先ほどの問いが頭に響く。

 選択肢なんて始めからなかったのだ。

 自分が月というのなら、輝ける場所は日向ではないはずだ。それに、彼を闇夜に放り出すことなんかも出来はしない。

「ねぇ、翠。月は夜じゃないと輝けないの」

 その囁きに、不思議そうに振り返る彼。紅は微笑んだ。

「もし、家族や愛情を信じられないのなら構わないわ」

 そう、彼が信じるものは唯一つ。彼自身の才能だけだ。

「私は貴方にも貴方の才能にも心を奪われているの」

 だからこれは詭弁。

「紅」

 紅は重力を感じさせない軽やかさで駆け寄ると、包み込むように彼を抱きしめた。

「傍にいさせて。傍で貴方の世界を見せて」

 今は信じてくれなくてもいい。

 詭弁に包んだこの気持ちに気がつかなくてもいい。

 でも、いつか自分が想い続け、彼が愛されることを感じることができたなら、生きていく理由を一緒に見つけられる。そんな気がした。

「誓うわ。貴方に私は背を向けないって」

 あの母親の過ちが突き落した哀しみを、二度と彼に味あわせはしない。

「紅」

 神崎川は一瞬戸惑い、その手を宙に泳がせた。

 が、何かを断ち切るように目を閉じると彼女の存在を噛みしめるようにきつく抱きしめた。

 闇は優しく二人を包み込んでいた。

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