赦されぬ誓い 3
部屋に戻ってきた神崎川は、紅が用意した喪服に何も言わず袖を通した。
すでに喪服に着替えていた紅は、どういう理由にしろ初めて彼の親に会うのに葬式の場はどうかと躊躇っていた。
「新幹線のチケットは取ってある。今夜は一泊して明日俺は東京に戻るから」
「お葬式には?」
「必要ない」
短く言い切るその言葉にいつもの強い意志とは異質のものを感じ、紅は黙った。
彼なりの悲哀の表現なのだろうか? そのわりに淡々として見えるのは何故だろう?
紅は玄関にしゃがむその大きな背中を見つめた。
「行こうか」
「ええ」
自分の身の置き所を測りかね、紅は結局いつものように彼の陰に寄り添った。
新幹線に乗ってからも、神崎川の口数は少なかった。窓の外の流れる景色をじっと睨みつけるように見ている。いつもは覇気溢れんばかりの瞳も今は曇っているようだった。
「翠……」
紅はまだ両親を失った日のことを鮮明に覚えている。
小学2年の頃だった。
英語教師だった母親の勧めで通っていた英会話教室に、両親の事故を知らせる電話が鳴ったのだ。
何が何だかわからなかった。最後まで遺体は見せてもらえなかった。
反対車線から侵入してきた大型トラックとの正面衝突。きっと、見られたものではなかったのだろう。
だから、忽然と自分を残して二人がいなくなったようで。しばらく、いや今でも実感がない。それでも、言いようのない虚しさと哀しみは大きな波になって襲い掛かってきて一度飲みこまれるとそこから浮上するのは困難だった。
彼もまた、今同じような気持なのだろうかと思うと、心が痛んだ。
そっと肩に手を添えると、神崎川は酷く穏やかな顔で一瞥し、再び外に目をやった。
「紅」
「なに?」
顔をあげて表情を窺う。瞬間、対向車線に新幹線が突っ込んできすれ違いに耳が潰れそうな酷い音をたてた。神崎川が何か言っている。懸命に耳をすませるが、それは騒音にかき消され一向に聞こえない。
「……だから、もう俺は大丈夫だ」
騒音がやんだ時のその一言だけが耳に届いた。
紅はすぐに何を言ったのか尋ねようと口を開いたが、見ると神崎川は固く目を瞑り俯いてしまっていた。
東京には決して遊びで行っているわけではない。
彼だって大学の卒論制作をしながら、プロと対等かそれ以上の仕事をこなしているのだ。疲れているに違いない。
「紅、肩」
「どうぞ」
短い言葉に小さく微笑むと紅はその細い肩を貸した。
すぐに安らかな寝息が聞こえてきて、複雑な気持ちになたった。こんな時間もまた、自分にとってかけがえのないモノなのだと痛感したからだ。
紅はそっともう暗くなった空の向こう側に目を細めた。
夏の夕暮れは母が好きだった夕顔を思い出させる。愛されていた記憶が、自分には確かにあった。でも、この頼りのない肩にしか寄りかかれないこの大きな子どもは、どうなのだろう?
蒼汰が無邪気で好奇心の多いライオンの子供なら、彼は孤独な獅子だな。と紅は小さく微笑んだ。
時間の都合上、実家には向かわずに直接式場にタクシーで向かった。
景色が変わるにつれ、神崎川の表情は刻々と失われていくのを感じた。タクシーが止まった頃には、もう無表情というより人工的に作られた仮面のようで、そこには何の感情もなかった。
タクシーを降りると、すっかり日は落ちていた。
ぼんやりと夜の闇に明かりが灯り、喪服にうごめく人の影が見えた。
神崎川の後ろの隠れるようにしてついて歩いていた紅は、式場の入口に掲げられている名前を見て足を止めた。
『神崎川』ではなかったのだ。
一瞬、式場を間違えたのか彼の方を見たが、彼は前を見据えたまま微塵も表情を崩してはいなかった。
離婚したんなんて話も聞いていない。紅はそっと周囲を窺ってみた。
大病院の院長の妻の通夜にしては質素だ。どういうことなのだろう?
「久しぶりだな」
神崎川が急に立ち止まり、誰かに声をかけた。
紅は慌ててそれに倣い、半歩後ろから相手を窺う。
そこにはキチンと髪を結い上げた妙齢の女性と、神崎川よりは背が低くやや神経質そうな細面の男がこちらを見ていた。
「お前に義理人情が在ったとはな」
言い放たれた男の言葉には親しみは全くない。
「翠。そちらの方は?」
女性の方が彼を呼び捨てにした。
紅はその女性と目が合い、頭を下げる。
神崎川は紅の背に手を置くと
「俺達、結婚するんだ。ついでに紹介しておこうと思ってな」
「!」
紅はその言葉に驚愕した。
その言葉を聞いた二人も同じらしく、鼻白んだ男の方は眉を吊り上げ詰め寄る。
「お前、何考えてるんだ? 非常識だろ。こんな時に!」
確かにそうだ。紅は困り、顔を伏せた。
しかし、神崎川は紅の肩を抱き寄せると
「こんな時? そうさ、こんなにめでたい時だから連れてきたんじゃないか」
その場に響き渡るような声を張り上げた。
「翠! やめてちょうだい!」
女性が周囲の視線を気にしながら、鋭く低い声を飛ばした。神崎川はそんな二人の動揺を鼻で笑うと
「なんだよ。母さんも兄さんも喜んでるんだろ? この目の上のたんこぶの様な女が死んでくれてさ」
紅は理解に苦しみ奇妙に歪んだ彼の顔を見上げた。
怒りでも悲しみでもないその表情は、よく知った顔。彼が自分に手を上げるときの表情だ。
でも、今、彼らを母と兄と呼んだ。これは彼の母親の葬儀ではなかったのか?
「やめろ!」
兄と呼ばれた男が掴みかかり、紅は弾き飛ばされた。
床に手をつき見上げると、一触即発の二人が睨み合っていた。その周りをあの女性がただただオロオロと小走りで走り回っている。
俄かに周囲がざわつき始めた時だった
「どきなさい」
低く地鳴りのような威圧感のある声が後ろからした。
「大丈夫ですか」
大きな手が紅の手をとり立ち上がらせた。まるでその職人のような手の男性と目が合い、紅は息をのむ。
そっくりだったのだ。神崎川に…。
「父さん」
「あなた」
兄と母親はホッとした表情でその男性を振り返る。一方、神崎川は不機嫌そうに相手を掴んでいた手を放し、その男から紅を奪い返すように彼女を引き寄せた。
沈黙に緊迫感が漂う。そして、その沈黙を破ったのは
「誰がこいつを呼んだ」
おそらくは神崎川は父親であろうその人の、突き放すような言葉だった。
その圧倒的なまでの存在感は、神崎川の比ではなかった。
その場にいるだけでその男に周囲が委縮する。空気すらも息を潜めているような感じだった。
「あの、私が」
着物の女性が怯えているのかオズオズと小さな声を出した。
「馬鹿者が」
「すみません」
恫喝ではないが、その声には相手を叱責するには十二分なほどの力があった。
「でも、やはり、報告しないわけには」
「そうだよな」
意味ありげな冷たい声は兄のものだった。
神崎川を見上げるその表情は、どこか小ずるく紅は不快感を覚えた。しかし、そんな声には神崎川は一瞥もくれず、無言で目の前の扉を睨みつけると大股で歩きはじめた。そして勢いよくその会場へ続く扉へと手をかける。
「やめなさい」
「黙れ」
紅の肩を抱いたまま、扉を開けた。
まるで、そうしていないと崩れてしまうのではないか。そんな危うさを感じたのはその場で傍にいた紅だけだった。
奇異の視線を突っ切るように霊前に立つと、神崎川はキッとそこにある遺影を睨みあげた。
線の細い、たおやかで優しげな女性だった。
「せいせいしたよ。お前が死んでな」
唸るようにそう呟くと、神崎川は霊前に供えられていた花を思いっきり蹴り倒した。
何もかもが崩壊するような、壊滅的な音がし、美しい花々はその花弁を散り散りにさせる。
誰かの悲鳴と一緒に神崎川の笑い声が重なった。
「馬鹿者! 何をする!」
父親の怒鳴る声がする。
「とんだ茶番だ。偽善者め」
神崎川は笑うのを止め振り返ると、口の端を吊り上げて睨みかえした。
「こんな葬儀をして、償いのつもりか?」
父親は大きな拳を握り締めるとにじり寄る。
それを、皮肉るように神崎川は笑い飛ばした。
「殴りたければ殴れよ。お前の本性を曝せよ」
「翠、お前。育てて貰った恩はな……」
「あぁ、ないね」
声を上げた父親の言葉を奪い、上から見下ろす。
「どうして俺がお前に感謝しなきゃいけない? お前の都合で、勝手にあの女に俺を産ませて、女から俺を取り上げて捨て、挙句に自分の願望のためだけに俺を生かしたくせに」
「なんて事を」
唇を噛み、拳を握る父親は怒りにその顔をひきつらせていた。
俄かに会場が騒がしくなり、弔問客が騒ぎ出す。
おもしろげににやつきながら見ていた兄が、さすがに捨て置けないと察して警備員を呼んだ。
「そうだ、父さんにも紹介しておくよ。この佳き日にね。彼女と俺は結婚する。俺の家族は彼女だけだ」
紅は冷ややかな非難の視線を感じ、神崎川をそれから守るように身を寄せた。
「そんなこと言っていいのか? 誰の金で……」
「金なら、もういりません。これまでのを返せというのならそうしますよ」
挑戦的にそう言い捨てると、もう一度父親を試すように見つめた。
そしてゆっくりと口を開く。
「俺は一人で生きていきます。今後干渉しないでください」
父親は唇を噛み、そんな息子の言葉を飲み下そうとしているかのように微動だにしなかった。
紅にはわずかに疲弊と寂寞とした色が父親の瞳に見えた気がした。
「唯一の息子に裏切られるとはな」
呟きは何人に聞こえただろう。
それだけ言うと、大きくため息をつき
「好きにしろ」
今聞いたどの声より弱弱しい声で言い捨てた。
その姿は一気に老けたように見え、何とも心が痛んだ。
しかし状況が理解できない以上、紅はどうしたら良いのか分からず、戸惑い神崎川を見上げた。
「す……い?」
言葉を失った。
その横顔に、自分には何にもいう資格がないのだとわかった。
彼もまた、目の前の父親と同じような顔をしていたからだ。
「行くぞ」
神崎川は低く呻くと警備員に捕まる前に、ためらいのない歩調で兄の前を母の前を、そして父親の前を横切り、自分をこの世に産み落とした女性には背を向けたまま振り返ることなくその場を後にした。