赦されぬ誓い 1
梅雨が明けた頃には、バイトも止めてサークルづくしの毎日になっていた。
結局、プレゼントは後日間の抜けた形で渡し、花束はその日の帰りにこのアパートの大家さんにあげてしまった。
神崎川は何事もなかった様に何も言わないし、紅の手前、蒼汰自身も何も言わなかった。
神崎川と自分の間に共通の認識『梅田蒼汰はまだ諦めていない』というのさえあればいいと思った。
とはいえ、
「どうすりゃええんやろうなぁ」
行き詰っているのには変わりない。
次の一手がなかなか浮かばないで足踏みしているのが現状だ。
蒼汰は一人きりの部室で、これまで撮り進めた映像をチェックしながらため息をついた。
なかなか集中できず、時計を見るともう七時。今日は、自分の班の活動はないし、もう一方の方は撮影に出ている。青は相変わらずそっけないし、なんだか調子が出ない。
「誰かいるんですかぁ?」
間延びした声がして扉が開いた。
「ん? おるで」
こちらものんびりした声で返答すると、衣装を着たままのスミレがドアの隙間から顔を覗かせていた。
「おぅ。どうした?」
「あ、梅田先輩。あの新品のフィルムどこですか?」
「あぁ」
撮影してて足りなくなったのだな。蒼汰はひょいっと椅子から立ち上がると、戸棚の方に進んだ。
そうだ、ちょうどいい。青のことを聞いてみてもいいかもしれない。
フィルムを探し、背を見せたまま何気ない様子を装い尋ねてみる。
「なぁ、スミレちゃん」
「はい?」
扉の前に立ったままこちらを見ているようだ。
蒼汰はフィルムをもったいぶった手つきで取り出すと
「青とは付き合ってるん?」
単刀直入にそう言って、振り返った。
こういうことは遠まわしに聞いて回答を誤魔化されるより、ズバリ聞いた方がわかりやすい。
スミレの表情を窺う。彼女は綺麗なその造形とは裏腹に、苦しそうに表情を歪めていた。
それが答えだと蒼汰の勘は呟いた。
時に人は言葉なんかよりもその表情や、間、視線の方が雄弁な時がある。
スミレは足早に歩み寄ると、手の中のフィルムをやや乱暴に奪い取った。
「まだです。でも、一番傍にいるのはスミレなのは確かですよね」
それは、彼女の今置かれている状況が周りが思っているようなものではなく、片思いより辛い、宙ぶらりんなものなのだと想像させるに足りる言葉だった。
蒼汰は親友の彼女に対するあまりに無慈悲な行動に、思わずため息をもらす。
「せやな」
蒼汰は、きっと皆のイメージほどは馬鹿でも鈍感でもないはずの彼女の心を、これ以上責めないように頷くと、微笑んで見せた。
「失礼します」
何かを頑なに守るようなその姿は、まるで割れやすい高級なワイングラスのような危うさで、痛々しかった。
蒼汰は閉まったドアを見つめながら、前髪をかき回す。
「しっかりせぇや」
親友に呟くが、届くはずもない。
「こっちも手詰まりやな。どないしよ」
蒼汰は額を自分の拳で二度叩くと、力なく椅子に引っ張られるように座り込んだ。
紅は武庫教授の研究室でパソコン画面に向かい、キーボードにその細い指を躍らせていた。
卒論の最終チェックを彼女がしている間、手持無沙汰なので教授の資料を打ち込んでいるのだ。
武庫教授は彼女が所属する英文学部の教授で、おもにシェイクスピアを研究している。女性ながら未婚で、紅はこの物静かだが芯の通った話し方の教授が好きだった。
「いいわ。単位が足りているなら、卒業ね」
教授の声がして、紅は微笑み立ち上がる。
「お疲れ様」
差し出された手に、気恥ずかしく恐る恐る握り返した。
「ありがとうございました。教授のご指導のおかげです」
「いえ、これはあなたの実力よ。この論文の解釈はすごく斬新だし、学会誌に投稿してみない?」
半ば本気のような口調に、紅は首を横に振った。
「いえ、そんな……」
目立つことは苦手だ。
それに、投稿するとなれば、今度はこの論文を英訳しないといけなくなる。自分にはその時間がない。
「就職は?」
紅はそれも曖昧に首を横に振った。
教授は困ったように眉を寄せると
「座りなさい。お茶でも淹れるから」
「なら、私が」
「いいから。就職活動してないのなら、ちょどいいわ。話したいことがあったの」
穏やかだが、強い力のある声に紅は戸惑いながらソファに腰かけた。
間をおかずに教授の趣味の紅茶の香りがしてきて、紅は初夏の夕暮れに漂う心地よさに溜息をを漏らした。
「どうぞ」
「すみません」
紅はその香りに目を細めた。今日はきっとアールグレーだ。
教授は腰を落ち着け、カップを手に取り香りを楽しんでからゆっくりとその亜麻色に煌めく液体を流し込んだ。
悠然とした仕草に漂う品の良さが、しわの一つも見受けられない美しさを際立たせている。容姿だけではとても来年50の齢を迎える女性には見えなかった。
「さて。話は他でもないの」
教授はカップを置くと、その凪いだ大海を思わせる瞳で紅のそれを覗きこんだ。
「あなた、ここに残る気はない?」
「え?」
思ってもない言葉に顔を上げる。
教授は優しく微笑み
「あなたのセンスの良さは初めてゼミに来たころから感じていたわ。あなた、TOEICのスコアも良かったわよね。もし、就職の予定がないのなら院に進まない?」
「あの……」
紅は困って俯いた。尊敬する人物からそんな風に評価されるのは光栄だった。しかし……。
「もし、経済的なことがあるなら、援助するし、奨学金の推薦だってするわ」
「いえ、そうじゃなくて。私は」
紅はそこまで口にしてから言葉を飲み込んだ。断る理由に彼、神崎川の名を出すのを憚られたからだ。
しかし、教授は事情を察したらしく。
「商学部の彼?」
仕方なく頷く。
「結婚の予定かしら?」
「いえ」
それだと、まだ堂々と言い訳できる。しかし、彼との間に未来の話といえば彼の仕事の契約のこと以外にはなかった。
「彼、もう、仕事を始めていて。手伝っていきたいと思ってます。契約や交渉など、今、彼が一人でしていて……」
「支えたいのね」
言葉以上の理解を示す、柔らかで深みのある声に、紅は頷いた。
教授はしばらくカップに目を落とし、寂しげな笑みをその口元に浮かべた。
「……自分の人生を、その彼に委ねていいの?」
ポツリ呟かれた言葉に、僅かに心が軋む。
その音に紅は動揺した。今まで、彼についていくのに何の疑問も躊躇いもなかったのに……。
動揺をごまかすように紅茶に口をつけるが、いつもは美味しいと感じるその温かな水に何の味も感じられなかった。
「中津さんは、それで幸せ?」
再び軋む音がした。
教授のその声はあくまで穏やかで、優しいのに、この不可解なほどに揺れる心には酷く強烈に響いてくる。
紅は戸惑いを飲み込むと、カップを置いて教授を見つめ返した。
「幸せって、何なんでしょうか?」
彼に殴られた後の優しさの中にそれはあるのか?
彼が仕事に充実するその背中にそれはあるのか?
彼が自分を呼ぶその声の中にそれはあるのか?
それとも…。
教授は困ったような苦笑いをすると「そうね」ふと様々な色が混在する、うす衣をまとった夕暮の空に目をやった。
「中津さん。自然に笑顔が生まれる。そんな時ってない?」
笑顔。
それは無意識だった。
指先がなぜか耳朶を触り、そこにある物に触れていた。
「あ」
刹那、何とも言えない暖かいものが胸の奥から湧きあがってくる。自分で自分の事がわからなくなり、紅は怯えるようにその手をひっこめた。
教授はそんな紅を振り返り、目を細める。
「そのピアスをあなたにつけさせた人が、貴女の幸せなのね」
たぶん、教授はそれを神崎川だと思い違いをしたのだろう。紅はどう答えていいか分からず、唇をいくつかの形に変化させた後で
「そう、でしょうか」
とあやふやに答え、誕生祝いにとこれを自分のくれたあの大きな笑顔を思い出しながら、もう一度そっとピアスに触れてみたのだった。