視線の先に 7
紅は大学の校門を出ると、その細い腕にとまった腕時計に目を落とした。
ゆっくり歩いても、約束の時間には十分間に合うが…不思議と早くその場所に立っていたい気がした。
いつも、自分より大きなストライクで歩く神崎川に速さを合わせるために履き控えていた、ヒールが少々高く細い靴が視界に入り、くすぐったい気持になった。
本当はすごく気に入っていたのだが、一度履いて彼と出かけた時に置いてけぼりをくらってしまって…以来、靴箱に眠っていたのだ。
待ち合わせの駅ビルに向かい踏み出すと、軽やかな音がアスファルトから跳ね返ってきた。
夕闇に涼しい風が心地よい。
最近、蒼汰と顔を合わせるのが楽しみになってきている自分がいた。
もちろん、微妙な関係だというのは心得てはいるが…蒼汰といると自分を作らないでいられるので、心地よかった。
子供のころから、祖父母の家で世話になり…いつしか周囲に気を使い、自分がいていい場所の形に自分を合わせる事が身に染みついていた。
それを苦痛とも思わなかったし、「自分じゃない気がする」などと悩んだこともなかった。
だから、そういう気負いを自分に持たせない蒼汰は不思議な存在だった。
確かに、普段は明るく一生懸命で、少し大雑把だ。
でも、その中に神崎川とはまた違う『大きさ』を感じていた。
自分はそんな彼に甘えているのかもしれない…。
ふと携帯を開けてみる。
最近、待ち受け画面を蒼次に変えた。
その愛らしい姿に思わず笑みがこぼれる。もし、蒼汰さえよければ、半年振りにこの子にも会ってみたい気はした。
そんな事を考えているうちに、あっという間に待ち合わせの場所につき、時計を確認する。
やはり、約束の時間より30分も早かった。
平日の7時…帰宅の足もやや途絶えてきた駅の改札の前は、それでも誰かの帰りを待つ人の姿や、自分と同じようにこれからどこかへ行くのだろう待ち人を探す人の姿が、人の流れの中で 避難所のようにポツンポツンと見えた。
どんな顔をしてくるのだろうか…想像してみる。
クリスマスの時の蒼汰は、走ってきたのか寒さのせいなのか、少しほほが赤く染まっていた。
そう、あの時も…雪が嫌いだと言った自分に、あの時もらった白いショールのような優しい言葉をくれたのだ。
彼こそ…光の中を歩く人間なのだろうな。
今朝のことを思い出し、紅は視線を落とした。
彼と自分たちとは根本が違うのだ。
なぜ、彼氏がいて靡きもしない自分を彼は大切にしてくれるのだろう…。
その時、影が差した。
目の前に誰かが立っているのに気が付く。
紅は小さくため息のような笑みをついた。
今日は、せっかく彼が誘ってくれたのだ、素直に喜ぼう。
そうゆっくり顔をあげ、息をのんだ。
「え…」
紅は目を疑う。
心臓がぎゅっとキツク握りしめられ、血の気が引くのを感じた。
「よっ」
手をあげて自分の表情を観察するその眼…東京にいるはずの神崎川がそこにいた。
紅は一気に干上がった喉から、なんの言葉も絞り出せなかった。
ただただ、今、目の前にいる彼を凝視するだけだ。
神崎川はそんな紅の表情を面白そうに眺めてから、恐ろしいほど穏やかで優しい笑みを浮かべた。
「今日の誕生日…一緒に祝おうと思って、仕事さっさと済ませて飛んで帰ってきた」
屈託なく放たれた言葉に、紅は戸惑う。
なぜなら、この3年…一度も誕生日を祝おうなどと彼の口から出たことはないからだ。しかも、今朝話したではないか…今日は…。
「どうした? 嬉しくないのか?」
首を傾げる彼に、紅はようやく何とか冷静さをかき集め笑みを作ると、手元の鞄を胸の前で抱きしめながら
「嬉しいわ。本当に…。でも、今日はこれから梅田君と約束していて…」
「あぁ、そうだったな」
神崎川はまるでそのことを失念していたかのように声を上げると、自分の携帯を取り出しボタンを押した。
「ほら、電話しろよ。今日は俺と祝うことになったから、キャンセルって」
「え?」
差し出すというより突きつけるといった感じの携帯を見つめる。
「だって、悪いだろ? 梅田に…黙ってて、ここで待ちぼうけくらわすの」
自分について行くのが前提の物言いに、紅はわざとだ…と感じた。
自分と蒼汰が今夜会う約束をしていたのを忘れていたわけではない、むしろそれを知ったから、らしくもなく東京から日帰りしてきたのだ。それは嫉妬ややきもち、不安なんて生易しいものではなく…。
「ほら、何なら俺が断ってやろうか?」
「いいわ。私が…」
紅はそういうと、自分の携帯を取り出した。
そう、神崎川は試しているのだ。
紅は携帯を握りしめ、一度深い息をつく。
胸の奥がざわついた。心底、残念に思う自分がいた。でも…。
「なんだ、もしかして梅田と二人でいたかったのか?」
神崎川の声がして、慌てて顔をあげた。
そこには試す…そう愛情という名の忠誠心を試す瞳が、逃げられない様にこちらを見据えていた。
身体が覚えている恐怖にわななき、反射的に首を横に振る。
「そんなわけ…」
「それなら、それでいいよ。お前がそんな浮ついた女なら、もう必要ない」
きっと、この言葉は嘘じゃない。
彼は一度見切りをつければ、こちらが泣こうが喚こうが…例え命を断とうが…永遠に振り向きもしないだろう。
恐怖を凌駕する何かが、紅を捕え首を横に振らせた。
「待って!電話する!するから!」
にやりと神崎川の口元に笑みが張り付いた。
そして、紅の肩をひきよせ耳元で囁く
「だよな。わかってるさ。最近、梅田も勘違いしかけてたみたいだしな…いい機会じゃね?ちゃんと冷たくしてやれよ」
「そうね…」
紅は蒼汰の番号を表示させながら呟いた。
そうだ…自分が居心地のいいばっかりに、彼の優しさに甘えていた。彼がどれだけ一生懸命になってくれても、自分がしてやれることはなにもない。
ごめんなさい
心の中で目を固く瞑りコールさせる
呼び出し音が耳の中でぼんやりと響いていた
鼓動は何かを叫んでいるが
塞がれた耳には何も届かない
「もしもし」
蒼汰の声に、心が痛んだ。
携帯を握りしめ、そっと神崎川をうかがうと、彼はまるで違う方を見ている。
言いようのない気持ちに、再び視線を落とし、重い唇を動かした。
「中津ですけど…。梅田君、ごめんなさい。あのね…」
この胸の痛みに震えるこの自分の声は、まるで他人のもののようだと、紅は思った。
「あ〜。今日なんですけど!」
受話器の向こうでいつもの明るい声が、自分の声を遮った。
「すんません。青のやつが風邪でダウンして、にっちもさっちも行かんくて…これから病院連れて行かないといけなくなったんですわ。だから、ほんまにすみません。今夜はキャンセルってことで」
畳みかけるような早口だったが…正直、その内容にほっとした。
紅は胸をなでおろすと
「いいえ。私の方も、ちょっと都合が…」
落着きを取り戻した声で答える。
「ほんまですか? 良かったっちゅうのも変ですけど…じゃ、誕生祝いはまた改めて後日…」
「ええ」
「ほな、すみませんでした〜」
「園田君にお大事にって伝えてね。じゃ…」
まるで卓球のラリーのようにテンポよく交わされる会話が終わり、紅は信じられないような気持ちで携帯を閉じた。
底抜けに明るい声と、奇跡的なタイミングに救われたのだ。
紅は安堵して息をつく。
「終わった?」
神崎川が視線を戻して尋ねてきた。今のは演技ではなく、本当に会話を聞いていなかったらしい。
紅は頷くと、次の彼の言葉を待った。
神崎川はなぜか興味を失ったかのような顔をすると、義務的に
「じゃ、とりあえず飯でもいくか」
肩を抱くでもなく歩き始めた。
一瞬振り返るが、口の端をあげて何かを確認しただけのようで、まるで紅をその視界には入れていなかった。
彼の歩く速さについていけない紅は、慌てて追いかけるが、今日の靴では困難でまるで追いつかない。
人ごみにはぐれそうになる距離に思わず「待って!」とその背中に声をかけた。
神崎川はその足を止めると、さっきの優しい笑みとは全く違う…面倒くさそうな顔で振り返る。
紅は弁解しようと口を開きかけた時、神崎川は迷惑そうに眉を寄せて
「俺、その靴嫌いだから。いつもの店でいいだろ? 先、行ってる」
それだけ言うと、さっさと人の流れの向こうへ消えてしまった。
何にも言えず立ちすくむ。
見ると靴擦れができていた。
その痛みを意識したとたん、涙がこみ上げ…紅はしばらくそれをこらえるように唇を噛んで俯いた。
大きな花束を抱えた蒼汰の視線の先にあったのは、二人の姿だった。
俄かに状況が理解できず、すぐに駆け寄れずにいると、何かを話していた神崎川が紅に携帯を突き出すのが見えた。
きっと、自分に断りの電話を入れるように要求しているのだろう…困り今にも泣き出しそうな紅の表情ですぐに想像できた。
くそったれ…と唇を噛む。
そして二人から姿を隠すように壁の陰に身をよせ、彼女のために用意した花束と小さな包みを見つめた。
彼女の笑顔だけを願い、三か月努力した結晶…この日のことだって、ずっと楽しみにしていた。
それを、あの男は簡単に奪い去ろうとしている。
きっと…わざとだ。
今、わかった。
神崎川は、自分を歯牙にかけていないわけでも、紅を信頼しているのでもない…自分たち二人を試し、弄んでいるのだ。
腹の底から湧きあがってくる怒りに、蒼汰は目を閉じた。
落ち着け…考えるんだ。
どうするべきか…シンプルに…。
携帯の着信が鳴った。
目を開け、慌てて手にする。
興奮にまだやまない鼓動を鎮めるために深呼吸をする。
自分が願うのは、なんだ?
そう…唯一つ…彼女、中津紅の笑顔だ。
自分の努力が報われることじゃない。
だったら…。
蒼汰は怒りを深呼吸に乗せて自分の中から追い出すと、携帯を耳に当てできる限りの明るい声を出したのだった。
彼女が困らないように、罪悪感なんかを持ってしまわないように…。
…
…
会話が終わり、携帯を閉じる。
重苦しい気持ちに、肩が落ちた。
見ると、二人が移動を始めていた。
刹那、神崎川が振り返った。
「!!」
目が合い、一気に燃え上がる怒りに言葉を無くす。
神崎川はその表情に口の端を釣り上げると、再び背を向けた。
悔しさに震えるって、本当にあるのだなと思った。
蒼汰はもう一度壁に自分の身を打ち付けるようにもたれかかると、何度も拳でその壁を叩いた。
見せつけたつもりか…。
悔しさと情けなさに気持のやりどころをなくす。
「くそっ。負けてたまるか」
蒼汰は唸るように呟いた。
惨めでもいい。情けなくてもいい…。
絶対、奴には負けたくない。
蒼汰はそう萎えてしまいそうな自分の心に太い杭を打ち立てると、目を開けた。
正面の店のガラスに、渡す相手を失った花束とプレゼントを抱えた余所行きの格好の自分がいた。
その格好の悪さに、力が抜ける。
「諦められへんのやったら、頑張るだけやんな」
その言葉に、ガラスに映った何をさせても格好のつかない男は、力強く頷いて見せていた。