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Apollo  作者: ゆいまる
38/121

視線の先に 4

 蒼汰と藍が先に帰ることになり、青と残ることになった桃は二人の時間に弾みかけた心をすぐに萎めた。

 青の瞳に浮かぶ、複雑な心境に気がついたからだ。

 辛うじて溜息をこぼすのだけは堪え、黙って作業を始めた彼に習うように自分も製本作業に戻った。

 彼の視線の先にあるのが誰かに気がついたのは、いつからだっただろうか。

 ずっとずっと彼を見てきたのだ。出会ったあの日から。だから気がつかないはずはなかった。

 でも、どうして彼女なんだ?

 桃は自分に生まれた予感から気をそらすように、手元を忙しく動かした。確かに、藍は美人で優しい、桃も彼女が大好きだった。だから、寮を出てからも彼女と暮らすことに躊躇いはなかったし、彼女の恋を応援したかった。

 そう、彼女が好きなのは青じゃないのだ。

 彼女が好きなのは……

「藍ちゃんね」

「聞きたくない」

 思わず口をついて出た自分の声は、彼に何を言おうとしたのだろう。

 すぐに遮った鋭く切ない響きに桃は我に返り、次いですぐに自分の予感は正しかったのだという事実に目を見開く。

 やっぱり『そう』なんだ。

 まだはっきりしなかった『予感』は『事実』という闇になって、まるで白い布にしみ込んでいく墨のように心の中へと広がっていった。

「うん」

 言葉がでない。桃は項垂れると、再び作業を続けた。


 作業が終わったのは8時前で、とっくに日は落ちていた。

「何か食っていくか?」

 青が思いついたように口にした。あの会話以来言葉のなかったことに気まずさを感じていた桃は、正直ほっとして顔を綻ばせ、素直に頷いた。

 青が選んだのは大学の近くのオムライスの店だった。この大学の生徒なら一度は訪れる、学生にとっては定番の店で桃も何度か来たことはあった。

 店内は夕飯時に賑わっていたが、ちょうど二人分の席は空いていた。席に案内されながら、何人か知った顔を見る。

 桃はそんな彼女たちからの視線が送ってくる、エールであったり嫉妬であったり羨望であったりする様々なメッセージを肌で受け止めながら、僅かな優越感を感じていた。

 少なくとも、自分はみているだけの彼女たちとは違う。この片思いに努力している自負だけはあった。そう、青を好きな気持はきっとだれにも負けない。藍にだって。

 さっきの気まずさに、桃は食事を彩る会話に結局サークルの話題を選んだ。

「青くん、知ってる? ここのサークル。顧問の先生居るんだって」

 部長からこの間聞いた話しだ。

 桃はスプーンを口に運びながらそう言うと、案の定、青は知らなかったらしく首を傾げた。

 舌の上でとろけるオムライスを楽しみながら、そんな彼の表情を見つめる。

 無意識に眼鏡に手が伸びる彼のそんな仕草が好きだった。

 それだけじゃない。困ったように眉を寄せる顔も、言葉に詰まった時に肩をすくめるところも、ごくたまにはにかむその笑顔もみんなみんな大好きだ。

 今でも、こうやって想うだけで胸がいっぱいになって、息苦しくなって、なぜか泣きたくなる。

 こんなに、こんなに私は好きなんだよ。この声にできない言葉を何度今までも心の中で呟いてきただろう。

 桃は目を細めてオムライスを水で流しこんでから、話を続けた。

「去年はアメリカに出向してたんだって。理学部の教授。面白いよね。理学部で映画部の顧問なんて。どんな先生なんだろ」

「想像つかないな」

 また考え込んで、青はその長くい指でグラスを弾いた。

 恋ってもっと簡単だと思っていた。

 桃は自分の過去の恋愛を思い出してみる。とはいっても、両想いになったことはない。たいてい自分が好きになっても『妹』あつかいで、告白されてもそれは好きな人ではなかった。好きでなくてもつきあってもよかったのかもしれないが、この間蒼汰と話たように、それはできなくて。

 雑誌やテレビで見る恋愛は華やかで、楽しそうで、そしてすぐに手に入りそうなのに。

 今朝見た占いでは、恋愛運は最高だった

 そういえば、蒼汰を先に出た藍もそうだったっけ、と桃は思い出し、はっと顔を上げる。

「あ、そうだ。夕飯いらないって、藍ちゃんに連絡するの忘れてた!」

 彼女と共同生活をはじめてそうトラブルはない。ルールも特になく、気持ちよく過ごせてきたのはお互いの常識が近かったのと、お互いの気遣いがあったからだろう。でも、さすがに夕食がいらないという連絡をしないでおくほどの気心が知れているわけじゃなかったし、迷惑もかけたくなかった。

 桃はひとり言のように言うと、慌てて携帯を取り出してメールを打ち始める。

 青は急に携帯を取り出した桃に、気を悪くした様子もなく黙って食事をすすめると桃が送信を終えてから声をかけた。

「藍は料理したりするのか?」

 桃は携帯を畳みながら

「うん。上手だよ。青くんといい勝負かな」

 平静を装い答える。

 正直、青の口から彼女の名前を聞きたくなかった。

 今は、自分といるのだ。せめてこの時くらいは自分を見てほしい。

「そうなんだ。藍は普段家で何してんの?」

 しかし、次いで出たのも彼女の話題だった。軋む胸の痛みを押し殺して桃は答える。

「う〜ん。結構音楽聴いたり、本を読んだり。最近は一緒に映画のDVD観たりするかな」

 お願い、もうやめて。心はそう叫んでいる。桃は耳を塞ぎたくすらなった。少なくとも青は自分の気持ちを知ってるじゃないか。なのに何故、こんな、彼女への気持ちを見せつけるようなことをするのだろう?

 桃は卑屈になりかける思考に小さく唇を噛む。

「へぇ。藍ってどんな音楽聴くの? クラシックとか?」

 また、だ。

 青が彼女の名前を口にするたびに、心の真ん中の一番弱いところを思いっきり蹴りあげられているように痛んだ。

 声がつまり、なんとかそれが震えないようにするのが精いっぱいだ。

「……普通に流行りのも聞くよ。ピアノしてたから、クラシックの時もあるけど」

 もしかして、自分を諦めさせるつもりでこんなことしているのか? それとも、本当にその眼は藍しか見えていなくて、その狭い視界にはこの目の前にいようと自分が映りこむ隙がないということか?

 それほどまでに……。

「藍はさ」

「もういい!」

 桃は思わず声をあげていた。

 それは悲鳴に近かった。

 もう無理だったのだ。これ以上、彼の思いを目の当たりにするのは。もし、あともう一度でも、彼の口から彼女の名を聞けば、心が捩じ切れてしまうだろう。

 桃は涙をこぼさないように青を睨みつけた。

「藍ちゃん、藍ちゃんって。そんなに藍ちゃんの事が知りたいなら、自分で聞けばいいでしょ?」

「あのさ、桃。そんなつもりじゃ」

 青がどんな顔をしているのかもよくわからなかった。

 苦しくて、悔しくて、とにかく、もうここから、彼の気持ちから、そして自分の気持ちから逃げ出したかった。

「今日は一人で帰るから、もういい」

 最後の理性を振り絞り、なんとか声を殺してそう呟くと、桃は千円札を置き振り返りもせず店を出て行った。


 店を出てから、涙が溢れてきた。

 もう、何にも考えられない。考えたくない。

 桃はまるで自身の心の中のように光の見えない夜道を走った。

 もし、叶うことなら涙ごと彼への気持ちが消えてしまえばいいのに。そんなこと無理なのをどこかで分かっていながら、桃はそのやるせない気持ちをぶつける様に地面を蹴りあげたのだった。

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