視線の先に 1
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季節は巡り、また春がやって来た。
でも、この春のうららかさは藍にとっては身を切る冬の寒さよりも残酷に感じていた。
何故なら、この光溢れ、その訪れに草花が一斉に萌え出でる美しい世界に、醜い自分が異物のように感じられるからだ。
―― 姉が死んだ
泣いた。哀しかった。でも、それ以上に解放された。
姉は長い間難病を患っており、近年は寝たきり状態だった。
自分は彼女の今わの際に、彼女の骨に皮だけがはりついた様な手を取りながら、どこかで安堵していたのではないか。
それどころか、長い間、それこそ物心の付いた頃からかもしれない、自分は常にどこかであの、自分では何にも……呼吸一つも出来ない姉を疎んじていたように思う。
彼女に優しく接し、両親に心配をかけずに『良い子』でいることにだけ自己価値があって…それはつまり姉なしでは認められる術がなくて…。
『藍ちゃん…藍ちゃんが妹で良かった』
そう零した姉の涙に、こんな醜い心はなんと答えるべきだったのだろう?
こんな歪んだ心だから、恋もまた醜いのだと思う。
入学式の今日、サークルでは新人獲得に奔走する。
相変わらず、蒼汰が自分の方を見る気配は全くなかった。きけば、春休み中も神崎川先輩にくっついて回っていたらしい。つまりは…あの女に会っていたという事になる。
嘆息は嫉妬よりも醜い羨望と妬みの熱を帯びていた。
蒼汰が強引に決めてしまった割り振りに、青と講堂前でサークル勧誘をすく事になった藍は、すでにお祭り騒ぎになっているその人混みに思わず足を止めた。
満開の桜が眩しい空の下、無邪気にはしゃぐその人混みに、自分はあまりに不釣り合いだ。
「……」
その向こうに影がよぎる。
心臓が軋んだ。大きな背中に寄り添う細い肩。彼女だ。
重苦しく胸を圧迫するその気持ちに、何故だか涙がこみ上げて来そうになった。
大好きな両親を奪った姉
好きな人の気持ちをさらった彼女
二つの影が重なる
どうして彼女達はあんなに頼りなげなのに、人の気持ちをそうも容易く掴み、笑顔で涙を隠す自分から大切なものを取り上げるのか。
卑屈だ。すぐに藍はそう思いなおし瞳を伏せた。
彼女達には彼女達の想いがあり…自分が彼女たちより頑張ってるなんて証拠もなければ、報われるべきだなんて傲慢極まりないのだ。
やはり、私の心は醜い。
その時、何かが藍の手を掴んだ。
その力強さに、思わず目を見開き顔を上げる。
「藍、行こう」
青だった。青は怒っているような顔で彼女を見つめていた。
「青くん?」
驚きに固まる藍に青はすぐに背を向けると、足早に彼女を引っ張るように一歩先を進み人ごみに突っ込んだ。
喧噪が瞬く間に二人を包む。
彼の斜め後ろからでは表情まではよくわからない。
本当に、ぼんやりしていた自分に怒っているのかと不安になりかけた時だった。
「俺はちゃんと藍の手握ってるから」
空耳のように届いた声。
心臓が、さっきとはまるで違う痛みを産んだ。
そして繋いだ手に目を落とす。
彼の温もりに包まれ、自分の手が、今、初めて冷たかったのだと知った。
「……うん」
何とも言えない心地良さに、何かを許されたような気がした。
そう、この醜い心のままでも、包んでくれる。そんな彼の世界。
藍は僅かに手を握り返すと、薄紅色に染まる空を仰いだ。
自分を除け者にしていた春の中へと、彼が連れて来てくれたのだ。そう思った。