裏切りの雨
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思い出すのは、不思議と1年の頃の事が多かった。きっと、一番楽しくてひたすらに突っ走っていられたからだ。
学年が変わっても、そう変わり映えのない生活に、2年の間もどこか安心していた。
片想いの痛みにも、嫉妬や憧れの苦しさにも慣れてきてしまっていたのかもしれない。
その時は一生懸命のつもりだったから気がつかなかったが、まるで神崎川の飼い犬のようだったな…蒼汰はまた溜息とも自嘲とも取れない息をつき、もう不毛なそれを止める為に煙草を口に突っ込んだ。
そして、その煙草すら彼の影響で始めたのに気がついて苦々しく唇を歪める。
暇さえあれば、就職…というかいくつかの映画会社との契約を結び、軽い仕事を始めていた彼に、付きまとう様にその作業を手伝いに行った。
そうすれば彼の技術も盗めるし、紅にも会えた。
ごくたまに、彼女と二人になる時間だってあった。
でも…きっとそれすら、あの男の思惑だったんだ。
「なんでですか?」
もうここにはいない、遠い空の下のその男に問いかけてみる。
答えはもちろん帰ってくるはずはないが、それはたぶん、本人に聞いても同じだろう。
あんなに長い時間一緒にいた彼。殺意すら覚えるほど憎んだ相手。そして、教授の話が本当なら、あの小さな命を奪い彼女を捨てた男。
でも……。
「なんでやろ?」
今度は自分に問いかける。やはり答えはない。
確かに言えるのは、もう、憎しみはここにはないという事だ。
首輪をつけ、リードが許す範囲で走り回り、大きなその影に吠えついていたその頃の自分とは、また違った感情だった。
ふと、教授が以前に口にした言葉を思い出した。
『才能のあるって言うのを、お前は幸せだと思うか?』
たしかその時、自分は首肯した。ちょうど、自分と神崎川との埋めようもない『差』に悲嘆していた時だった。
でも、教授は笑って答えた。
『俺はそういう奴を何人か見て来たが…全員が全員幸せな顔をしているわけじゃなかった…。高みが見える人間は、それを宿命のように感じるらしい…そして、それに人生を狂わされる奴の方が多い。だから…俺は、自分が凡人で良かったと思うよ』
理解が難しかった。才能があるって言うのは、わかりやすく言えば他人より多くの手段や道具があるってことだ。あって困るものでもないんじゃないかと思った。
でも、もしかしたら、ここに憎しみがない理由はそこにあるのかもしれない。
彼が自分に残したものは少なくない。
彼がいないと見る事の出来なかった世界、知り得なかった技術や知識。そしてこの苦々しさ。
蒼汰は煙草の端を噛みつぶすと、ゆっくりと雨に煙る首都高に滑り込んでいった。