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Apollo  作者: ゆいまる
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嫉妬と憧憬 3


 外に出ると北風が目の前の砂塵を巻き上げ、思わず目をそばめた。

 寒さに震え、コートのポケットに両手を突っ込む。

 蒼汰ははやる気持ちに背中を押されながら待ち合わせへと急いだ。

 あの告白の夜から、もう季節は3つ目になるというのに何にも前進できていない。

 大口叩いた割に、どうすればいいのか分からなかったのが正直なところだ。

 いざ、サークルという顔を合わせる大義名分がなくなってしまうと、学年も学部も違う彼女に用事もなく声をかけるのは気が引けた。

 唯一の共通項である神崎川が留守なのも痛いし…彼の居ぬ間に…と思われるのも癪だった。

 メールくらいは…とも思ったが、妙な誤解でまた彼女が神崎川に暴力でも受けたら…そう思うとメールの文を打ち終わった指は、送信ではなく消去を押してしまうのだ。

 でも、今回は特別だ。

 彼女からのお呼びなんだ。堂々と会いに行ける。

「〜〜♪」

 自然と鼻歌が口を衝いて出て来くる。

 待ち合わせの場所には、まだ彼女の姿はなかった。

 冬の昼下がり、昨日まで寒いだけの忌々しい凍った空気ですら愛おしく感じるから不思議だ。

 空中に白い吐息が生まれてはかき消える。

 会ったらなんて声をかけよう。

『久しぶりです』?普通すぎるか…関西人としては笑いの一つも欲しいもんだ。

『待っていたよハニー』…アホすぎる。やっぱり、青みたいに何にも言わないでイケメン風に『よ』っとシンプルに行くか?

「よっ」

 蒼汰が練習で手を上げてみた時だった。

「ごめんなさい。待たせたかしら?」

「ほぇ?」

 突然の声に、間抜けな声。

 久しぶりの邂逅はあっけなく済んでしまった。

「あ、あぁ。今来たばかりです」

 想像していたより近くにあるその顔に、心拍数が一気に跳ね上がる。

 細い首筋にかかる髪が艶やかで…自分の様子に困ったように微笑むその切れ長の瞳には長い睫毛が揺れていた。

「急にごめんなさいね」

「どうしたんですか?」

「うん……」

 自分を見上げる目が遠慮している。

 すぐに神崎川の事だと察した。自分の気持ちを知っている彼女は自分の彼氏の名をここで出すのに気が引けているのだろう。

 そんな気遣いに蒼汰は苦笑すると

「神崎川先輩の事ですか?」

 紅は申し訳なさそうに頷いた。

「あの人、今月誕生日で……以前から欲しがってた本を探してたんだけど、なかなかどこにも売ってないのよ。翠は梅田君と行った書店で見たって言っていたんだけど、どこかわからなくて……」

 それなら、思い当たる節があった。

 駅前のメインの商店街から少し外れた裏路地の今にも潰れそうな古本屋の事だろう。

 撮影場所の下見を二人で回っている時に見つけた、古い海外の映画雑誌を神崎川は心底欲しがっていた。もう廃刊になったもので、ネットオークションでもお目にかかれない。あの時は、二人とも手持ちがなくて、諦めたのだが……。

「場所を聞くだけでも良かったんだけど」

 紅はそう言葉をきると、バツが悪そうに顔を伏せた。

 そして、か細い声で

「私、方向音痴で……」

 そう零すと、一気に耳まで顔を赤らめた。

 可愛い。素直にそう思った。

 いつも物静かに微笑んでいるだけの彼女のこんな表情に、ぐっと心臓が鷲掴みにされる。

 反則やで。と蒼汰は心の中で呟いた。

 それで「助けて」なのか。納得し、思わず笑みを浮かべる。

 紅はまだ申し訳なさそうに眉を寄せていた。きっと、彼女なりに自分を呼び出すのに迷ったのだろう。

 蒼汰は、理由はどうであれ、彼女が自分を頼ってくれた。今はそれで十分だ、そう思った。

 正直、苦々しくも感じないではなかったが、この可愛らしく恥じらう横顔を見ているとそんな事はもうどうでも良い気がしてくる。

「わかりました。案内しますよ。行きましょう」

 蒼汰は彼女を安心させたくて微笑む。

 紅は僅かに安心に頬を緩め、顔を上げた。


 二人はクリスマスの飾りが煌めく街へと歩きだした。

 古本屋から出て来た紅の顔は喜びで輝いていた。

 本当に嬉しそうに茶色の紙袋を抱きしめ、目を細めている。

 その様子が美しければ美しいほど、彼女の神崎川への想いの深さを感じ、蒼汰は愛おしいと感じると同時に同じだけ苦しさを感じた。

 今更、どうしようもないのだけれど、この気持ちに用意されているゴールはどんなものなのだろう?

 そう何度も考えた。でも、いつも答えが出そうになる前で思考が止まる。

 それは先のないものに突っ込んで行く勇気なのか、見え透いた勝ち目のない勝負を直視できない臆病さなのか。きっと後者だ。

「ありがとう、梅田君」

 顔を上げた紅は、まるで初めて自転車を買ってもらった少女のようだった。

 蒼汰は頷くと、ある種の痛みを胸の奥に追いやって微笑んで見せた。

 喜ぶ顔が見たい。

『守る』のではなく、『支える』と決めた自分がやるべきことは、彼女のやりたい事にケチをつける事ではなく、こうやって笑顔を増やしてやる事だ。

「行きましょうか」

 空を見上げる。雪雲が街を覆い始めていた。

 道理で寒いはずだ…。

「ええ」

 ようやく興奮が冷めたのか、紅は頷くと肩を並べて一緒に歩きだした。

 商店街に出ると、クリスマスの華やかで鮮やかな飾り達が幸せそうな人々の顔を染めていた。

 蒼汰は自分に空いた醜い虚しさにその優しい光を埋めると、ようやく自分の顔から力が抜けるのを感じた。

「そういえば、それクリスマスプレゼントじゃないんですか?」

 さっき、誕生日に、と言っていたのを思い出す。

 紅は苦笑して

「翠の誕生日、24日なのよ。だから、子どもの頃から、自分の誕生日を祝ってもらった思い出はないし、祝う必要もないって言っていたわ。私はそれが理由とは思わないけど……」

 問題児の事を話すような慈愛に満ちた声に、彼女の愛情が滲み出る。

 蒼汰はいかにも神崎川が難しい顔をして言いそうだと紅と同じように苦笑した。

「あ」

 紅の足が止まる。

 見ると、ペットショップの前だった。

 可愛らしいクリスマスのデコレーションの向こうで、『大特価』の文字の下に小さな生き物が蹲っている。

 あまりに紅が熱心に見入っているので、蒼汰は目を細めると彼女の手を引いた。

「入りましょう」

「でも」

「見るだけやったら、ただですやん」

 そう悪戯っぽく笑うと、強引に店内に足を踏み入れた。

 かじかんでいた手が、店内の温かさに回答され俄かにかゆくなる。

 蒼汰は思わず繋いだ手に今更ながら気が付き、テレに口元が緩む。

 それを隠すように唇を噛むと、さっき紅が見ていた籠…ハムスターのゲージの前に立つ。

 紅は初め照れ臭そうに蒼汰の顔を見ていたが、蒼汰がウインクして促すと嬉しそうに顔を近づけた。

 しばらく何にも云わずにその小さく、毛玉の様なか弱い命に見入る。

 蒼汰はその横顔に、思わず町のどこかで見た聖母のあの控え目で愛に満ちた微笑みを思いだした。

 どうして、神崎川は、あの男は、こんな彼女をあんな目にあわせる事が出来るのだろう?

 守りたい、抱きしめたい。切ないくらいそんな想いで張り裂けそうな胸に蒼汰は小さくため息をついた。

「先輩。好きなんですか?ハムスター」

「昔、母と飼っていたの」

 慈しみに揺れていた瞳に哀しみが宿る。

「母と父が生きていた頃ね」

「え?」

 どういう事だ?

「もう、昔の話よ」

 紅は蒼汰の追及をけん制するように顔を上げると、振り返った。

 その雰囲気に、蒼汰は開いた口から言葉を奪われ、勢いで間抜けな事を口にしてしまう。

「もう、飼わないんですか?」

 紅の目が軽く見開かれ、すぐに諦めに細められた。

「翠は嫌いなの。動物を飼うっていうのが」

 そう言うと、もう一度ハムスターに目をやる。

 どうしたら、彼女の笑顔が見れるのだろう?

 自分に何ができるのだろう?

 ゲージの中で確かに息づく鼓動に蒼汰は目をやった。

 そして

「すみません!ハムスターください!」

 気がつくと、声を上げていた。


「もう。こんな……勢いで生き物を飼っちゃ駄目なのよ」

 紅はハムスターとその飼育道具一式を抱えた蒼汰を諫めるように眉をひそめた。

 今にも「しょうのない子」とでも言わんばかりの表情に苦笑する。

「飼うからには責任持ちますって。俺ん家やったら、いつでも会いに来て良いですよ」

「もう」

 紅は能天気にそう言う蒼汰に吹き出すと、彼の腕の中の小さな命を覗き込んだ。

 ほんのり桜色に染まる嬉しそうな顔でハムスターを見つめる。

「ありがと」

 北風が彼女の髪を撫で行き、蒼汰の耳に小さな小さな呟きが聞こえた。

 その微かな声が蒼汰の胸の中に一気に温かなものが広げていく。

 良かった。心からそう思った。

 ついでに自分にも会いに来てほしい、そうい下心も正直あるが、それより彼女が喜んでいる。それが何より嬉しい。

「あ」

 一片の天使の羽が舞い降りた。

 見上げると無数の白い冬の贈り物だ。

 小さなくしゃみが聞こえて、蒼汰は籠を置くと自分のコートを脱いで彼女の肩にかけた。

「あ」

 もう一度ゲージを抱えると戸惑う紅に微笑む。

「もう両手塞がってますから、返さんといてください」

「でも、梅田君が風邪てしまうわ」

「俺は平気です。今日から同居人もできたし」

 全く理由になってないな。と心の中で自分で突っ込む。

 それでもいい。彼女を温める事が出来るのなら、彼女の笑顔が見れるのなら、なんだってできる。

 それに、自分のコートが彼女を包んでいるなんて、すごく幸せなことじゃないか。それだけでもう、体の真ん中が暖かくなってきて、コートなんていらなかった。

「さ、行きましょう。本降りになりそうや」

 もう一度見上げる。

 好きな人と見る雪は温かいのだと、蒼汰はこの時生まれて初めて知った。

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