嫉妬と憧憬 1
翌朝、顔を合わせた神崎川は、昨夜の事などまるで忘れたかのような顔をして蒼汰に普段通りに接して来た。
ただ、一点、変化があったとすれば、それはこれまで蒼汰が外されていた編集の方にも参加を許された点だ。
それまでは助監督という肩書ではあったが、ほぼ雑用だった。
神崎川の指示のまま動き、スタッフに伝達したり照明を動かしたり、カット割りの相談すらなかった。
それが、あの夜以降、撮影中でもまともに口をきいて貰える様になったのだ。
合宿後、撮影につきながら考える。
隣で真剣なまなざしをしている神崎川の手腕を、痛いほど感じながら、たぶん、この扱いの変化は自分が彼らから逃げなかった事への褒美なんだと。
きっと、神崎川はまだライバルにもならない自分を、傍に置き、育て、望めば自分の持ちうる全てを自分に教え込むつもりなんだろう。
そこに何の意図があるかまではよくわからなかったが、それまで『単なる後輩』としか見られていなかった自分が、ようやく一人の人間として認められたのだと、その確信だけはあった。
だったら……
「部長。もうワンテイク行きますか?」
「あぁ」
撮影の時の神崎川の言葉は短い。集中しているせいか、必要以上の言葉を口にしない。
そして、それはこちらが的を得れば得るほど短くなる。
彼の才能を目の当たりにできるのは今だけだ。
相手がその気なら、自分は出来るだけ喰らいついてやる。
今は悔しいくらいに彼の存在は遠く、その背中すら見えない。でも、できうる限りの事彼から吸収し、いつか肩を並べそして彼を超えてやるのだ。
「もうワンテイク行きます!」
蒼汰は声を上げ、演者の紅と藍に声をかけた。
交わる視線は、いつも何かを言いたげだが、蒼汰はそんな紅の視線を敢えて気付かないふりをする。
できることなら彼の補佐でいられるこの間、一矢でもいい、報いてやりたい。
そんな野心に蒼汰は突き動かされるように撮影に没頭していった。
編集作業が学園祭当日までかかるのは恒例らしく、今年もその例には漏れなかった。
編集班と最後の最後までかかった作業に、神崎川がOKをだしたのは学園祭開始のわずか2時間前だ。
部室で彼のOKを聞いた時、最後まで残っていた部員は、皆、3日間徹夜の酷い顔で喜びを噛みしめ合い抱き合った。
で、試写にようやくこぎつけた。
学園祭の始まる前に、部員だけで試写をするのもこの部の恒例らしい。
スクリーンを張った部屋に、次々と部員が入ってくる。
眩しすぎる朝の光を暗幕で遮りながら、蒼汰は入り口近くで話しこむ神崎川と紅の姿を振り返った。
疲れ切った彼に、彼女が何かを声掛けている。
遠くて表情までハッキリわからないが、そこに二人にしかわからない空気や温度が流れているのは確かだった。
神崎川が彼女の頭を撫でているのが見える。
疲れ切っているはずなのに、その二人のやり取りは憎らしいほど胸を押しつぶし、蒼汰は視界から其れを追いやるように、部屋を見回した。
普段は講義ようで使われる広めの部屋。扇状に並んだ机は、後方になるほどにせり上がる形だ。
いつもは普通の教室なのに、今年はこの百人は余裕で入るだろう講義室を借りる事が出来た。
先の神崎川の作品が賞をとったおかげなのは、考える必要もなくわかる事だった。
最後方になるとスクリーンを見下ろす形になってしまうので、後ろから三列は座れないようにしていたが、入場者の数によっては、解放する必要が出てくるかもしれない。他の部員が話していたが、今年は映画関係者も来る予定だそうだ。
後ろの方で、青は席に着く。藍と桃が後からやって来て、藍が桃を青の隣に座らせているのがわかった。
人の心配してる場合ちゃうねんけどなぁ……。
蒼汰は自分のお節介さに苦笑しながら、彼らの下へ駆け寄った。
部員がそろったのを神崎川が確認し、照明が落とされた。
暗闇に銀色の光が走り、目の前の真っ白な画面に世界が生まれる。
鼓動が、激しく内側から自分を揺さぶっているのがわかった。
最後まで編集作業をしていたとはいえ、通して見ているのは神崎川ただ一人だ。編集班はただ言われるがままに、作業を各々こなしていただけで、助監督とはいえ、蒼汰だって例外ではない。
どんな、どんな世界が……。
銀幕にカウントダウンの数字が浮かび上がる。
そして、世界が動き出した。
音楽が流れ、その何もないはずの空間に、作りものであるはずの世界がリアルな温度を持って呼吸をし始める。
その中で、蒼汰はすぐに光の温度、取り巻く匂い、視線の痛み、音のない風を感じた。
技術、ではないのだ。
もちろん、カット割りも、カメラワークも、音響も、照明も、申し分ない。でも、わかる。もし、もし仮に、自分が全く同じものを同じ方法で、同じように撮ったとしても……この世界にはならない。
気がつくと、蒼汰はスクリーンの中の世界にいた。
全部知っている台詞。そしてその先に起こる出来事も、自分は知っている。
当たり前だ。自分がこの世界をつくるのに手を貸してきたのだから。
でも、ドキドキした。切なさに胸が苦しくなり、やるせなさに心をかきむしられた。
音が、途切れる。
蒼汰は目を瞠った。
それは、時間にして、数秒の事だったかもしれない。
でも、終盤、不意に訪れた、その沈黙は、見る者全員に問いかけていた。
『お前の真実はどこにあるのだ』と。
その問いかけは、真正面から、後ろ暗い思いまで全てを見通すような無慈悲で容赦のない強さで、語りかけてきていた。
世界が再び動き出した時、蒼汰は自分が呼吸を忘れていたのに気がつき、大きく息をつく。
なんだ。なんだ、この『世界』は……。
胸を押さえ、画面を見た。
エンドロールが、流れている所だった。
完敗だ……。
自然に、そう、悔しいほど自然にその言葉が胸の奥から浮かんで来て、血の気が引いていくのを感じた。
そして、頭が徐々に映画の世界から現実に戻っていく度に、ある事が鮮明になってくる。
そう、これは、この部の作品なんかじゃないって事が。
部員はただの部品にすぎない。
この、作品は、この世界は……。
気がついたら、部屋を出てどこかへ行こうとしていた。
行き先などない。ただ、本能で動物が敵わぬ相手から逃げるように、蒼汰の身体がこの場所にいるのを拒んでいた。
「おい!」
声がしたのは廊下に出てしばらくした時だ。
ぼんやりしていた心に、平手をくらわされたような感じだった。
我に帰る。とたんに、何も感じまいと停止していた心が動きだし、涙が込み上げてくる。
「青……」
青は追いかけてきたのか、その足取りを緩めながら蒼汰の前に来ると、無言でどうしたのか尋ねてきた。
蒼汰はその視線から逃げるように俯くと、乾ききった喉から声を絞り出す。
「観たやろ……完成品」
「あ、あぁ。すごいじゃないか。頑張ったな。びっくりしたよ」
きっと、青にはどうして自分がこんな風に落ち込んでいるのかわからないのだろう。でも、だから、説明が難しかった。
人があの作品を凄いと思えば思うほど、自分と神崎川の差が歴然としてしまい、自分の立場が見当たらなくなってしまう。
「ちゃうねん。俺は…何にもしてへん。あれは『神崎川の作品』や」
思わず自嘲の笑みを口元に零しながら、拳を握りしめた。
そう、あれは、映画部作品じゃない。神崎川の作品なんだ。
「次元がちゃうねん。説明できひんくらい……あの人は、ほんまの天才肌や。あの人が一本の映画やったら、俺なんて何にも映されへん真っ白なスクリーンや」
「何だよ、それ」
怒りの熱を帯びた青の声が一歩詰め寄ってきた。
でも、言葉にすればするほど、この想いは強固なものとなり、同時に虚しさすら覚える力の差に愕然とする。
「じゃあ、何か?白旗あげるのか?」
「しゃあないやろ!あんな化け物…到底…」
再びの青の言葉に、胸の奥が痛んだ。
紅のあの顔が浮かぶ。傷だらけの腕が浮かぶ。
そして、さっきつきつけられたばかりの、世界が浮かんだ。
悔しい。悔しい。今まで生きて来て、こんな絶望を味わった事はないほど、何にもできる気はしなかった。
あの、何の誤魔化しも許さない世界。
自分には到底、あんなものは……。
「じゃ、紅先輩も見捨てるんだな」
青が言葉を叩きつけるように吐き捨てた。
思わず顔を上げ、初めて青の顔を見る。
青は、不思議なくらい、自分自身が傷ついたような顔をしていた。
少し青ざめ、唇を噛み、こちらを睨みつけている。
が、二人の視線が交わったのはほんの一瞬だった。青は見るに堪えないとでも言うように、視線を外し、外を見る。
「失望したよ。お前の好きっていうのは、映画にしても女にしても、こんなに中途半端だったんだな」
「そんな事……」
「そうだろ。……好きにしろよ。何もしないうちに尻尾巻く負け犬に優しくするほど、俺はお人よしじゃない」
年に一度のお祭り騒ぎにはしゃぐ声が、青の視線の先から聞こえてきていた。
自分達を取り巻く朝の空気にもその熱気が伝わり、冷え切った指先にじんわりと温もりを灯す。
青の言う通りだと思った。
目を瞑る。
考えろ、と自分に言い聞かせる。
悩んだ時は、自分にシンプルになれ。答えは自分の中にあるはずだ。
シンプルに、シンプルに……。
下手やプライドや、失敗を恐れる恐怖心、何もかもをかなぐり捨てて、真っ裸の自分になれ。そうすれば、きっと、自分が本当にしたい事が、わかるはず。
確かに、神崎川は凄い。
あの世界は真似できない。
でも、じゃあ、紅を忘れられるのか?
あの傷を見て見ぬふりできるのか?
そうやって、平気でいられるのか?
答えは全て、否。
「青…俺…」
青がゆっくり振り返った。
情けないし、かっこ悪い。実力もないし、センスもない。でも、でも……。
蒼汰は一度息を飲むと、顔を上げ、無表情のままの親友の顔を見た。そして、言葉にしようと思った。
現実を認め、それでも前に進むために。
「やってみる。ダメかもしれへん。せやけど……諦めたくないねん」
朝日に照らされた青の顔は綺麗だった。綺麗で冷たく、それこそさっきの映画のように、真っ直ぐ無慈悲にすら思える真摯さでこちらを見つめ返していた。
青は、しばらく蒼汰の言葉を噛みしめるようにじっと見ていたが、僅かにその表情を緩めると、黙って顎を引いた。そして、やっと、溜息混じりの笑みをそこで零し、何も言う事なく、背を叩いてくれたのだった。
強く。支え、前に進めるように。
二人で皆の下へ戻りながら、蒼汰はこの言葉少なく、また口を開けば遠慮の欠片もない友人に、心から感謝した。
自分一人じゃ。きっと前を向けなかった。ここで膝を折って、尻尾を巻いて、未練と情けなさの中を彷徨うしかなかっただろう。
でも……。
背中に刻まれた痛みを感じる。
自分は、一人じゃない。まだ行ける。そう思った。






