疑惑 8
青と中庭で別れてからも、酔いはすっかり醒めていたというのに興奮はなかなか冷めてはくれなかった。
あてもなくマラソンを走り終わった陸上競技の選手のようにフラフラと歩きまわり、大気にやるせない思いを吐き出した。
雲が流れ去った後の夜空には、皮肉なほどの美しい星空…蒼汰は足を止めると目を凝らす。
そんな星々の煌めきですら、たった今自分の目に焼きつけられたあの光景をかき消す事は出来ない。
尊敬してやまなかった男の本性と、胸を焦がすほど恋している女性に刻み込まれていた生々しい傷痕。悪夢で済まされるならそうしたかった。
「嘘やろ?」
呟いてみる。
底のない虚しさが広がり、言い逃れのできない現実が思惑とは逆にその存在を決定的なものにした。
何故?
あんな理不尽な暴力が映画に必要なのか?
自分の理解の範疇を超えていた。
尊敬できる男だからこそ、自分の進路をここに定め彼に会いに来た。
信頼が置けると思ったからこそ、自分の惚れた女性が彼の傍にいても納得できた。
でも、女性に八つ当たりをするような卑怯な奴だったって事か?
そして、そのストレスの捌け口になる事を彼女が望んでいる?
そんな関係、普通な訳がない。
玄関先に座り込み、頭を抱え蹲る。自分の心臓の音だけがリアルに聞こえていた。言いかえれば、その他の全てがフェイクのように見えるという事だ。
神崎川は自分の中で絶対の存在だった。目標であり憧れであり、いわばヒーローだったのだ。それが……。
「嘘や。なんでや?」
ショックというより、悔しさに近かった。唇を噛みしめ目を閉じると、涙が込み上げて来た。
紅は神崎川の彼女なんじゃないのか?
彼女って事は、この世の女性の中で一番好きで、大切にしたくて、守りたい存在…そう言うことじゃないのか?
自分にとって、人を好きになるって事はそう言う事だった。
今までそれは、夜になれば空が暗くなるのと同じくらい当たり前の事だと思っていた。
なのに……何故?
「?」
月明かりに影がさす。
何かの気配に顔を上げる。
そして、息を飲んだ。
「梅田君。少しいいかしら」
そこにはまるで、瞬きすれば消えてしまいそうな紅が寂しげな笑みを浮かべ立っていた。
二人は、他の部員の目を避け屋敷の敷地から出て歩きはじめた。
目的地があるわけじゃない。でも、二人には静かな場所と向き合うための時間が必要だった。
舗装されていない道の両脇には、風が吹く度に囁き合いその身を揺らす稲の、暗い海だけが広がっていた。
耳には何かの虫の音が聞こえ、蒼汰はまるでコントロールが効かない鼓動の代わりにその涼やかな声に集中する事にした。
そうでもしないと、鼓動どころか、このやるせない感情すら暴走してしまいそうだったからだ。
蒼汰は俯きがちに歩く紅の横顔をそっと窺う。
憂いを帯びたその頬に滑る月光が艶やかで、思わずため息を漏らした。
「梅田君」
不意にその唇が動いたので、自分の視線に気がつかれたのかと慌てて目をそらす。
紅はゆっくりと足を止めると、遠くに見えるなだらかな山陰の稜線に視線を置いた。
風が紅の髪をさらい、その香りが切なさを煽り蒼汰の胸を締め付けた。
「翠の事、怒ってる?それとも……失望した?」
独り言のような呟きに、蒼汰は拳を握り自分の足元を、まるでそこにあの凶暴な影を見るかのように睨んだ。
「どちらでもあるし、どちらでもありません。でも、理解もできません」
正直な感想だ。
紅はその答えに困ったように眉をよせ、ため息にその細い肩を揺らした。
「じゃ、軽蔑する?」
「いいえ」
それだけはない。
「暴力は認めません。でも……」
唇を噛みしめる。
この合宿での神崎川を思い出す。そして、自分の無力さも。
「部長は凄いです。だから、軽蔑はできません。でも、理解できません。なんで、あんな……」
紅は痛みに目を細め、自分の体を自分で抱きしめるように腕を回す。
「あれが、彼の愛情なのよ」
「?!」
それを聞いた途端、何かのたがが外れた。
あんなのが、愛情だと?
あんな……
「暴力がですか?」
思わず声を上げていた。顔を上げ、まるで紅を責めるように力の入った目で見つめると、強引に紅の腕をとる。
紅は驚きに目を見開き、なんとか『それ』を隠そうと抵抗した。
「梅田くっ」
しかしそれは驚くほどか弱く、蒼汰にはほぼ無抵抗に近い。瞬く間にその細い腕は半ば無理やりに肘の辺りまでめくり上げられた。
「あぁ」
思わず声が出る。そこには無数の打撲痕と擦過傷、火傷の跡すらあり、あの行為が昨日今日に始まったものではない事を物語っていた。
蒼汰は再び頭に血が上るのを感じ、紅本人にそれを突き付ける。
「こんなになってまで、なんでですか? おかしいでしょ? ほんまの愛情なら、守って当たり前やないんですか?せやのに、こんな……」
「放して」
紅は顔をしかめる。しかし、蒼汰は腕を放さなかった。
やっぱり、こんなのは間違っている。どうして紅が傷つかないといけない? 痛々しい傷に耐えなければならない? 理不尽だ!
「間違ってます。俺はアンタをあんな暴力から救いたいんです!映画のためって……確かに部長は凄い。俺らみたいな集団とやったらストレスが溜まってもしゃあない。でも、紅先輩、アンタに八つ当たりなんて」
「八つ当たりなんかじゃない! 違うの! これは、彼の痛みを引き受けてるにすぎないの」
紅は掴まれた腕の向こうで涙を浮かべ、頭を横に激しく振った。
「なっ」
「梅田君ならわかるでしょ? あの人の才能は、普通じゃない。だから、一人じゃ抱えきれなくなく事だってあるのよ。あの人はこれまで、その孤独にずっと耐えて来た。だから、私は嬉しいの!」
紅の涙に滲んだ声が蒼汰の胸を蹴破る。
「そう、嬉しいのよ! その孤独を何百分の一でも請け負える。そして、その役目をあの人に選んでもらえたのが。さっきも言ったでしょ? 『これ』は私が望んでいる事なの!」
「紅、せ……」
呆然とする。八つ当たりじゃない? 痛みを分け合う? 何なんだ? どういう事だ? 自分が胸を焦がすほど憧れてやまなかった二人は、まるで違う世界にいるって事か?
蒼汰は脱力を感じるとともに、紅の腕を放した。
解放された腕を引きよせ、袖をすぐに直し紅はその醜い傷を隠す。
蒼汰の両腕がだらりと垂れた。愕然とする。こんなに、何もかも手の届かないものがこの世にあるなんて、今まで知らなかった。
救う……そう、自分は彼女をあの理不尽な暴力から救いたかったんだ。
だけど、そんな二元論な単純で浅はかなものとはまるで次元が違っていた。
あの時、彼女が口にした事、彼が付きつけた言葉…みんな本当だったのだ。
蒼汰は目の前が真っ暗になるのを感じていた。
一方、紅の横顔はまだ戸惑いに伏せられていた。
正直、彼女自身、このいつも明るいだけの後輩にこんな荒々しさがあったなんて予想していなかったからだ。
二人の間に沈黙が降りた。
蒼汰は静かに目を閉じる。
迷った時は、自分の勘と心の示す場所を探る。
現実を見ろ。
自分を見ろ。
自分はどうすべきなんだ?
シンプルに。そう、シンプルになればいい。
風がまた吹いた。
彼女の髪の香りがした。
刹那、この絶望に近い感情の奥に何か、温かなものを感じた。
そうだ……自分は……。
「紅先輩」
蒼汰は心を定め、想いを込めて彼女の名を呼んだ。
「紅先輩は本当に、心から部長の才能も、部長自身にも惚れてるんですね。だから彼の傍にいたい。そうですね?」
それは自分でも驚くほど、穏やかな声。
紅は泣きボクロの目を細め、まるでそれが自分の運命だとでも言うように頷いた。
腹の底に重苦しく熱い感情が湧きあがる。蒼汰はそれを飲み込むと、自分にその現実を言い聞かせるように何度か小さく頷いた。
そして、自問し自分に確認する。自分の進むべき道はどれだと。
「俺は」
自然に笑みが零れた。
何をどう考えても、どんな現実がここにあっても、選べる道は一つしかない。
「紅先輩を見てました」
「梅田君」
彼女が、自分の中にあるたった一つの確かな気持に哀しげな顔をするのが苦しい。
それでも、今、決めた道に一歩を踏み出す為に、蒼汰は言葉を続けた。
「今の答えが本当なら、紅先輩にもわかるはずです。自分の見ているその相手の支えになりたいっていう気持ち」
「それは……」
「俺、今は全然部長に叶いません」
さっき、中庭で青に口走った自分の言葉を思い出す。あの時は勢いだけだったが、今は違う覚悟でそれを口にできる。
「でも、いつか部長を超えて、貴方の支えになります」
「梅田く……」
身勝手なのかもしれない。彼女にとっては迷惑なだけかもしれない。あんな、自分には理解できないほどの深い関係に辿りつけないかもしれない。
それでももう、この踏み出した気持ちはきっと、彼女が本当の笑顔を見せる日まで消せる事は出来ないだろう。
彼女が苦痛に顔を歪めるのも、哀しみに顔を伏せるのも、見たくはない。例え、それが彼らの望む『愛情』なのだとしても。
「戻りましょう。心配されてるといけませんから」
蒼汰は今度は、優しく包みこむように紅の手を握った。
逡巡する紅の瞳に微笑む。
「私は、貴方の気持ちに応えられないわ。きっと、貴方は傷つくだけよ」
「それでもいいです」
蒼汰はそう言いきって、半歩先を行き手を引く。
「先輩の痛みを少しでも和らげられるんやったら構いません。せやから、もう、一人で耐えんといて下さい。部長から受けた痛み。これからは俺に分けてください」
戸惑いの視線に少し振り返った。そして、できる限りの笑顔を作ってみせる。
「俺は傷つきませんから」
貴方の為に、強くなりますから。と心の中で付け足して蒼汰は繋いだ手に少し力を込める。
「梅田君」
紅は今まで冷たくひび割れ醜く歪んでいた心に、なにか温かいものが流れ込むのを感じ、それを否定するように目を伏せた。
ここで、この手を振りきらなければ。その為に自分は彼に会いに来たのだ。
そう、思いっきり拒んで、突き放さなければ。
頭ではそれがわかっているのに、なのに……。
「帰りましょう」
そういう蒼汰の背中を見上げる。
そして、紅はその蒼汰の強引なまでの優しさに、手を振り払えない自分がいる事に戸惑うのだった。