疑惑 7
お気楽な学生たちの喧騒はまだ終わる気配を見せない。
今年は2年の後輩の親戚の家を借りての合宿だったから、部屋数はそうとれず、男女二つに分けた大雑把な部屋割だった。
後輩達を中庭に置き去りにした紅は、神崎川と廊下を行き、彼を部屋まで送る。
会話はなかった。
必要ないのだ。
彼は会話を望む時は彼から口を開くし、望まない時は口を噤み何を話しても自分の声をその耳に響かせる事はない。
でも寂しいとは思わない。
紅は言葉が繋ぐ時間よりも、この静寂が繋ぐ時間の方が大切なのだと、思っていたからだ。
そっと自分の肩を抱く神崎川を見上げる。
月光を浴びたその瞳は、深い闇を内包しているがそれ故に強く人を惹き付ける。
自分を捕えて放さないそれは、今、何を見ているのだろうか?
今回の撮影の事?否…きっとさっきの一件だ。
彼はあの後輩を面白いと思っているはずだ。
そして、自分の飢えを満たす……少なくとも一時凌ぎくらいには役に立つ、そんな存在になれるのを知ってしまった。
目を伏せると、あの純粋な眼差しが瞼の裏に蘇った。
胸の痛みがじんわりと広がる。
過去に自分のせいで傷ついた人達の事を思い出し、ため息をつく。
神崎川は、自分の女に近づいた人間に、屈辱的なまでの自分との『差』を見せつけ、彼らが完全に負けを認め諦めるまで、完膚なきまでに叩きのめした。
もちろん身体的にではない。白旗を揚げるまで、心理的に追い詰められるところまで追い詰めるのだ。
あの、虫も殺さないような笑顔で。
そしてその後、紅の心を試すようにあの暴力がやってくる。
これが神崎川の独占欲。すなわち愛の形であり、信頼の証なのだった。
紅は瞑った瞼が痙攣するのを感じ、自分を落ち着かせようと溜息をつく。
彼、梅田蒼汰には、そんな想いをさせたくない。
屈託のない笑顔で映画を撮りたいと言っていた。神崎川の作品が好きだと言っていた。その想いをこんなことで棒に振って欲しくない。
「なぁ……紅」
ふと耳に届いたその声に顔を上げた。
いつの間にか着いていた部屋の前で立ち止まると、神崎川は月を仰いでその青白く照らし出された横顔で呟いた。
「梅田は、面白い男だよな」
戦慄が走る。
紅はそれを悟られないように息を飲むと唇を軽く噛んだ。
いけない。こうなっては……。
「そう、かしら?」
声の震えを隠すように微笑んでみせる。
しかし神崎川は、目を細め月を見つめたまま紅には一瞥もくれない。
「もう休みたい」
表情はよくわからなかった。
しかし自分の居場所はもうここにはないという告知だという事はわかる。
紅は解かれる肩の重みを名残惜しく感じる自分の歪な恋に、小さく息をつくと頷いた。
そして、神崎川が仰ぐ月を倣うように見上げ、あの後輩の事を思う。
今夜のうちに手を打とう。そうしなければ、神崎川はきっと彼を手元に置こうとするだろう。それだけは防がなければ。
覚悟に近い思いを決めると「おやすみなさい」そっと愛しい彼の横顔に声をかけその場を後にした。
遠ざかる彼女の気配が廊下を曲って消えた。
風が吹きすぎ、雲が流れる。
神崎川はようやく視線を落とすと、彼女の余韻を感じさせる空気に密やかな笑みを零した。
手に取るようにわかるよ…と彼女に囁く。
紅を動かすのは容易い。
彼女の事は愛しているが、本当に愚かな女だと思う。あぁ言えば、彼女があの『正義の味方』を庇うために彼の元に向かうのはわかっていた。そして……。
ポケットに手を突っ込む。煙草を探すが箱が空なのに気が付き苦笑いした。
から箱を握りつぶし、掌の中で弄ぶ。
きっと梅田蒼汰という男は逃げないだろう。紅が何かを言えば言うほど、きっと奴は自分達から離れられなくなる。
そう、期待している。
「さて」
いつも『波』が訪れた日は悪夢しか見れない。でも、今夜は夢どころか熟睡できそうだ。
目を伏せると、神崎川は一人、静寂の闇の中へと身を投じたのだった。