一目惚れ 1
恋というのはいつも突然に始まる。それも、本人が求めておらずまた予想もしていないタイミングで。
蒼汰は常々そう心得ていた。いや、心得ているつもりだった。
とはいえ、これから始まる大学生活に恋愛の要素をそれほどは期待していなかった。そりゃ、全くないものだとは思っていない。社会人、という、おそらくは自分が中高年と呼ばれるまで続く服役まで与えられた猶予期間に、そういった要素を全く排除するって言う方がおかしい。
それでも、やはりそれはメインにはならないだろうと思っていた。突然に訪れた恋とは違い、十分に予想が出来た手痛い失恋の後遺症がそう思わせるわけじゃない。この大学生活には目的があったからだ。
蒼汰は入学式へ向かう途中に押し付けられた多数のサークルのチラシの中から、目当てのやや地味な一枚を取り出すと顔を上げた。
映画。この大学に決めた最大の理由がそこにあった。
高校の時も映画部で、メガホンを取っていた彼は、大学ではもっと本腰を入れようと思っていた。映像系の専門学校も視野に入れながら、高校2年の秋、志望校を絞るのに映像コンテストに参加していた大学や専門学校の作品を片っ端から見ていた時だ、その作品に出会ったのは。
その作品は、たった五分のショートムービーしかも出演者はたった一人だった。
にも、関わらず、深く引きこみ、しばらくその時間以上の何かを胸の中に刻み込んだ。それは後頭部を強く殴られたような感覚でもあったし、幼心に憧れた特撮のヒーローに実際に出会ったかのような感動があった。モノクロームで進むその短編映画は、その映像コンテストで審査員特別賞に輝いていたものだったが、彼にとっては最優勝の作品よりも印象に残った。
そして、その製作者に愕然としたのだ。
製作者は映像専門の学生ではなく、普通の国立大のしかも一年生だったのだ。
以来、蒼汰はその学生の作品をチェックするようになり、この大学を選ぶ動機にもなった。ついでに、彼女にふられる理由にも。
神崎川翠。蒼汰は名前しか知らない憧れのその人にようやく会える。その高揚感でいつもよりもテンションが高かった。
部室棟へ続く途中の食堂の前を通りかかる。人でごった返していて、昼時の高校の購買部を思わせた。
通り抜けるには少し骨だな、そう苦笑しかけた時、見知った背中を見つけた。
あれは確か、入学式の時に隣に座っていた、ちょっと変わった感じの眼鏡男子なイケメンだ。こいつを映画で撮れたら絶対いい作品が撮れると直感して声をかけたのだが、ガードが固く、自分の直感を信じる彼は諦めるつもりはなかったが、今日の所はその鉄壁の態度に口説くのを控えた相手だった。
園田青って言ったっけ。名前を思い出しながら近づくと、隣にもう女性を従えていた。しかもなかなかの美人だ。親しそうに話す二人の横顔を見ながら、やっぱりオーラのある奴は違うなぁと、自分の見立ての正しさにほくそ笑んだ。
もしかしたら、その彼女が一緒ならどさくさに映画部に引きこめるかもしれない。そう思った蒼汰は喧騒にかき消されないように、そして無視できないようにわざと大きな声で手を挙げた。
「なんや、青。もう彼女ゲットしたんか?」
振り返る顔があからさまにしかめられている。
それでも、直観は囁く。
こいつとはうまくやって行ける、と。
蒼汰は目を細めると、その二人に駆け寄った。
映画部の部室は食堂を抜けた先の別棟、通称サークル棟の一階にある。
と、チラシには書かれてあった。
蒼汰は思惑どおりにどさくさに巻き込む形で連れて来た二人を従えて、引っ張られてきた勧誘の新入生と、離すまいと頑張る先輩たちで賑わっている廊下を『映画部』の表札を探して歩いた。
いよいよ会える。どんな人物だろうか。名前からは男とも女ともつかないその憧れに一歩一歩近付いているかと思うと、滅多に緊張しない彼もさすがに鼓動の高鳴りを覚えた。
向こうは知らなくても、こちらは作られた作品をよく知っている。
映画部の表札を見つけ足を止めた時、緊張は最高潮だった。しかし、それを凌駕する…夢の実現への感慨に気合いが後押しされる。
「すみませ〜ん。入部希望者で〜す」
大きな声で蒼汰が部屋のドアを思いっ切って開けた。
真っ先に目に飛び込んできたのは大きな背中だった。
周りにいるどの人間より存在感のあるその背中は、向き合うように立っていた大きな映画のポスターに背を向けるようにこちらを振り向いた。
「ようこそ。映画部へ!」
人の良さそうなその髭面は、満面の笑みを浮かべる。
直感が彼だと教えた。
そして、その勘が外れていない事がすぐに証明される。
その男は彼より一回りも大きく思えるその手を蒼汰に差し出すと、遠慮もせずに呆けてだらりと垂れたままの蒼汰の手を握った。
「俺は部長の神崎川翠」
やっぱり…。
自分の勘の正しさに、そしてなによりも憧れてやまなかった人物との邂逅に胸がいっぱいになる。
いつもは饒舌な舌もまるで回らないし、実際のところ、引き連れて来た二人の事をこの時ばかりはすっかり忘れていた。
神崎川は一度力強く握り、蒼汰が握り返す間もなく放すとその手を後方に指した。
「で、こっちが……」
何気にその先へと視線を巡らせる。
−刹那
世界が色を変えた
「え……」
自分の唇から声が洩れた
心臓が鷲掴みにされたような衝撃
時が止まったような錯覚
全ての常識が逆転したような感覚
視線の先に止まったその女性に、蒼汰は息を飲んだ。
自分でも何が起こったのか俄かに理解できずに、金縛りにでもあったように身動きが出来ない。
「中津紅です」
視線の先の線の細い女性が透き通るような声を、その艶やかな唇から零した。
笑みに細められた瞳の長い睫毛がやけに気になり、ついでその左目にある泣き黒子が目についた。