片想い 12
立ち直りが早いのは、健康の次に人に自慢できる点だ。
昨日、あんなにイライラしていたくせに、部屋についてから適当に足で散らばったものを除け寝るスペースを確保し、横になるとすぐに眠りが訪れた。もしかしたら、寝つきの良さも自慢できるかも知れない。
まぁ…どれも自慢の種に本当になるのならば…の話だが。
起きて、まだミーティングの時間には早いのを確認すると、軽くシャワーを浴びてから気合を入れた。
わかりきってた事に、昨夜はなぜあぁも自分がくよくよしていたのかわからなくなる位、気力が充実しているのを感じる。
「さて、行きますか!」
どうせ、この部屋にはろくな食べ物は何もない。
コンビニで朝飯を調達して、どうせなら部室に一番乗りしてやろう。
「よし!」
なんとかという人気力士を思い出しながら、自分の両頬に気合いを入れると、台本とノートパソコンをバックパックに詰め込み、まだ蝉が騒がしく大合唱する外へと飛び出した。
男の基本は米だ。
別に理由はないし、パンもパスタも好きなのだが…今朝はそう決めておにぎり4つとお茶を手に入れ部室に向かった。
構内を滑るように自転車で走りながら、入学の時に自分で自分に買ったお気に入りの腕時計を見てみる。
まだ1時間もある。これならゆっくりと台本を2回は頭から最後まで読み込むことができるだろう。
今日は監督・演出班の3人と、各班…役者班・カメラ班・雑用班のリーダーの5人と副部長の紅が来る予定だ。
今日は映画に集中しよう。その為に自分は地元からわざわざこんな、なんの縁もない大学に来たのだから。
蒼汰は自分に言い聞かせると、唇を結びサークル棟へとハンドルを巡らせた。
「あれ?」
気配を感じたのは部室のドアを開ける前だった。
てっきり一番乗りだと思っていたので、少し残念だったが…それ以上に誰が中にいるのだろうと首を傾げた。
今までのサークルのノリだと、集合の1時間前に来るような熱心な部員はいない。
蒼汰は小さく息をつくと「ちわっス」と口の中で呟くように声にしながらドアを開けた。
「あら…」
「あ…」
身体がドアノブを握りドアを開けた姿勢のまま固まる。
目があったその人物が自分に向けるその柔らかい微笑みに、先ほどの決意はどこへやら…心臓だけが激しく動き始めた。
「梅田君。お久しぶり。…早いわね」
紅は机を拭いていた手を止めると、ゆるりと時計を見上げた。
蒼汰はまるですがるかのようにドアノブを強く握りしめると、彼女に分からないように胸に詰まった切ない吐息を静かに吐き出し、何度か落ち着かない様子で瞬きする。
「あの…俺、朝飯まだで…冷蔵庫空っぽやし、昨日帰って来たばっかやから…その…先輩よりは早よ来とこうかと思いました」
意味不明な言葉を並べると、困ったように微笑する紅は小さく頷いた。
「そう。じゃ、皆が来る前に食べておくといいわ。ちょうど掃除も終わった所だし。こっちにいらっしゃい」
優しい声は固まった蒼汰を解かすと、その細い華奢な手で引いた椅子へと手招きした。
「あ…ハイ」
頷き、一瞬二人だけの部屋の扉を閉めていいものかどうか迷う。
紅はそんな様子に気が付いたのか「ドアは閉めてね。エアコンの冷気が逃げてしまうから」と一言添えて、椅子の傍から離れた。
蒼汰はもう一度首肯すると、自分の為に引かれた椅子に座り、鞄を机の上に置く。
いつもの部室なのに、心の準備もままならない突然の二人きりの場面のせいか、初めての場所の様な感覚になる。
「飲み物はあるの?」
「あ、はい」
奥の方からの声に応え、慌ててコンビニの袋からさっき買ったものを並べた。
麦茶を手に戻って来た紅は、その並んだおにぎりと、汗をかいたペットボトルを見ながら向かいに腰かける。
「ゆっくり食べてね。どうせ、みんな時間ギリギリにしか来ないんだから」
そう肘をついた手の上に細い顎を乗せるとあの泣きボクロの目を時計にやった。
「ハイ…」
自分はまだ『ハイ』しか言っていないのに気が付き、前髪をかき回しながら武骨に目の前のおにぎりを一つとった。
せっかくの時間なのに…何とかしないと。そう思えば思うほど気ばかり焦って…何にも声に出来ない役立たずの口に握り飯を突っ込んだ。
紅はそんな蒼汰の様子を気にする様子もなく、彼女の鞄から台本を取り出すと捲り始める。
幾つもの付箋が飛び出していて、見ると細かい字でびっしりと書き込みがされていた。
「…凄いですね」
その言葉は無意識だった。
紅はそんな蒼汰の声に顔を上げ、やや気恥ずかしげに微笑む。
「一応、主役貰ったからね。頑張らないと」
意外なほどそう言う彼女の表情は可愛らしかった。
いつも神崎川の傍に佇む彼女は、どこか大人びていて静謐としている。でも、今自分に微笑んだその顔は、主役を演じるという気恥ずかしさを隠しきれない年相応のものだった。
そんな彼女がたまらなく愛おしく思えて「かなわないなぁ」と心の中で呟くと、蒼汰は一つ目のおにぎりをお茶で流し込み、そんな自分の気持ちを悟られないように綺麗に片付いている部室を見渡した。
「紅先輩はここで掃除を?」
「ええ。皆に気持ち良くミーティング初めてもらいたかったし、あの人…翠は暑いの苦手だから」
そう苦笑する笑顔に、あの焼けつくような感情が再び頭をもたげる。
翠…部長の下の名を呼び捨てにできるのは彼女だけだ。彼女の事を呼び捨てにできるのもまた、神崎川だけ…。
たったそれだけの事なのだが、それが実行される度に『二人が特別な関係』なのだと見せつけられている様に感じ、苦しくなった。
紅はふと笑みを途切れさせると、手元の台本に目を落とした。
それは時間にすれば瞬きをするほどの僅かなものだったが…紅の瞳には覚悟に近い恐怖と歓びが同時に宿り、憂いとなってそれを潤ませた。
撮影が始まれば、神崎川のストレスはさらに増して行くのは考えなくても肌が知っている。自分は彼の期待に応えられるのだろうか…その不安が気を重くさせた。
「俺、この大学に入ったの、部長と映画を撮りたかったからなんです」
「え?」
顔を上げると、そこには蒼汰のはにかんだ笑顔があった。
彼は胸の苦しさを奥へと追いやるように台本の文字を視線でなぞると言葉を続ける。
「俺…ほんまに先輩の作品に惚れてて…。せやから、念願叶って一緒にこうやって映画撮れるっていうのがめっちゃ嬉しくて!」
そうだ。ここには映画を撮りに来たのだ。
もう一度自分に確認し、その幸せを噛みしめるように素直な気持ちを口にすると、蒼汰はまたおにぎりを頬張り胃の方へと切なさと一緒に流し込む。
紅は無邪気にそう言う蒼汰が高校でも映画を撮っていたと入部の時に話していたのを思い出した。
一筋の光が射したような気がした。
彼の鞄から覗く台本に目をやると、かなり読み込み書きもみもしているらしく、すでにボロボロになっている。
彼なら…。
紅は口元を綻ばせた。
もしかしたら、彼なら神崎川の力になるかもしれない。
「…っ」
昨夜、花火大会から帰ってからついた刻まれた傷の痛みに僅かに眉を寄せる。
自分には、彼の才能を満足させてやる事は難しい。でも…こんなに熱心なスタッフがいるなら、少しは彼も救われるかもしれない。
「梅田君」
紅は台本の上にその細く長い指を添えるように置くと、顔を上げた蒼汰を目を合わせた。
「翠を…神崎川を助けてやってね」
それは頼みではなく、限りなく祈りに近かったのだが…蒼汰は自分が彼女に頼りにされた事に頬を上気させ、おにぎりを頬にいっぱいためた間抜けな顔で必死に頷いたのだった。