片想い 8
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彼の安らかな寝息が聞こえる。
立ち上がろうとしてそれを阻むように走った痛みに顔をしかめた。
この痛みは、つい先刻までの嵐が刻みつけた傷のせいなのか、それとも彼の心を救えないこのやるせなさのせいなのか……。
きっと両方だ。
中津紅は小さくため息をつくと、散らかった部屋を片付ける為にゆっくりと痛みを飲み込むように唇を結び立ち上がった。
先ほどの喧騒からは嘘の様に静寂に包まれた暗い部屋に散乱する、割れたグラス、引き裂かれた服、飛び散った自分の血液。それらを見回す。
もう珍しくもない光景だ。
最近、彼、神崎川の暴力は日に日にその激しさを増している。
それは、いずれ本当に殺されてしまうんじゃないかという恐怖すら抱かせたが、同時に、彼のそんな心の叫びに狂おしいまでに救ってやりたいという自分の欲望を感じていた。
しかし、救うと言っても、自分の心のバランスを保てない彼の、時折訪れる荒れ狂う暴力に変換された葛藤を、こうやって受け止める方法しか知らない。
だから、仕方ないのだ。
あらかた片付け終わった部屋を後に、疲れ切った彼の肩にタオルケットをかけてから洗面所へと向かう。
鏡に映った自分の顔は怪我ひとつなかった。
彼は顔は殴らない。
それを彼の卑怯な所というより、映画の為なんだと理解している。
今回の作品で自分が主役を演じる為に、顔は殴れないのだ。それだけのこと。
手を洗うと、いつの間に切れていたのか指先から赤い糸が伸び、水道水に交じって薄く広がり排水溝へと渦を巻いて消えていく。
涙は出ない。もし出るとしても、それは彼を救えない自分の不甲斐なさへの悔し涙だ。
こんな大学のお遊びの延長のような環境で彼の求めるものが作れないのは、日を見るより明らかだ。
それでも、彼がすぐに映画業界へ飛び込めなかったり映像の専門の環境を選べなかった事を思えば、こんなお粗末な場所でも精一杯の事をしてやりたいと思う。
神崎川の実家はその地元では名の知れた医者の家系だった。
父親は大病院の医院長で、上にいる兄も医者だ。
彼は、何人も愛人を抱えていた父親に対して、いい記憶は一つもないという。
父親は彼に、何においても最高の結果を求め、出来ない時は酷い暴力をふるった。何をさせても優秀な彼に、次男であるというにも関わらず、後継ぎにと願っていたらしい。
それを知った兄は彼を妬み母親はそんな兄に味方した。
もとより医者になるつもりはなく、絵を描く事や作曲する事、カメラ、ひいてはビデオカメラで映像を撮る事に強い興味があった彼は、それに反抗し医学部を受験せず、芸大を受験し合格した。しかし、父親はそれに激怒し入学を勝手に辞退させる。そして、医学部にいかないのならせめて普通の国立大の経営を学べるところにしろ。そこを卒業すればそれ以上口出しはしないし、それ以外は辞退させる。そんな父親からの条件で次の年にここを受験して受かったのだ。
でも、入学する頃には父親も自分の意に反した彼に失望しており、紅が出会った時には、彼は家族からは完全に孤立状態だった。
他人に理解されないその孤独と虚無は、その芸術的センスにだけではなく、人間関係全般に置いて彼が持っている、彼にとっては常識にも近い感覚だった。
だからこそ、それを打ち明け、初めて自分の前で泣いた彼を見た時、紅は自分だけは彼を裏切ってはいけないと強く自分に誓ったのだ。
そう。何があっても。
「紅」
不意に肩に重みを感じて、さらに目を伏せた。
神崎川は後ろから自分よりも一回りも小さいその肩を抱き締めると、まだ流血するその指を掴んだ。
「すまない」
喉の奥から絞り出された声は本心なのだ。
紅は黙って首を横に振る。
まるで母親に見捨てられるのに怯える子どもの様な声で、神崎川はもう一度同じ事を繰り返すと紅のその指を自分の口にくわえた。
「…」
甘い痛みに、自分の身体が火照り始めるのを感じる。
きっと女の顔になってるだろう鏡に映る自分を直視できず、紅はさらに目を伏せた。
流れる水音だけが静かに空間を満たす。
「愛してるよ」
指を解放した口から零れる甘美な響きに抗う術など知らない。
不意に顔をあげると、そこにある瞳に映る自分。酷く怯えているのに、それでいて怖いくらいに幸せそうな……と目が合った。
そして微笑んでしまうのだ。
「私もよ。翠」
自分だけに許されたその呼び名に僅かな優越感を感じ、重なる唇に瞳を閉じた。