雨上がりの夜に
あの日の別れの意味なんかどれだけ考えてもわからない。
今わかるのは、とうていできやしないのに、自分は彼女への想いを断ち切ったつもりになっていた。それだけだ。
ぶつかりそうになる人の間を縫い、自動ドアを抜け、ロビーに駆け込む。
焦りと不安だけが自分を突き動かしているようだ。
探さないと、見つけないと、とにかく走らないと! 体を急かす鼓動は収まる事を知らない。
視界がいきなり遮られた。
「なっ」
蒼汰は目の前に広がったその空間の大きさと絶望的なまでの人ごみに、思わず立ちすくんだ。
雑多な空気に蠢く数え切れないほどの人の数。果たして、この中から彼女を見つけ出せるのだろうか?
フライトの正確な時間もわからない。どこの航空会社の便とも知らない。目星はつけても、数便あるそれらの搭乗口は恐ろしく離れていて、そのどれか一か所に絞るのは、賭けに近い気がした。
アナウンスも一瞬考えるが、同伴者も待ち合わせの約束もない人間が、ひっきりなしに流れるそんなものに耳をいちいち傾けるだろうか?
「くそ」
ここまで来て、迷っていても仕方ない。
蒼汰はとりあえずフライト時刻を表示する電光掲示板に走って行った。
人々の熱気や匂いに交じった雨の湿気が不快だ。それは今ある焦燥感をさらに焚きつけ、苛立ちは固い床を強く蹴った。
見上げた無機質な文字と数字の羅列。天候不良で遅延の便は幾つかあるようだったが、飛ばないという事はないらしい。
いっそ、ここに彼女がどの便に乗るのか表示してくれれば、なんてあり合えない事を考えながら目を凝らす。
北海道方面の便はどれも遅延すらしないようだった。
あたりを見回し、公衆電話が目についた。教授に連絡してみようか、そう思うが、携帯を持っている事に気が付き自分の混乱ぶりに向きかけた足を止めた。
「あかん。落ち着け」
自分に言い聞かせるように呟くと、一つ深呼吸をした。
彼女はこの空港内のどこかにいる。広い世界の中で、ここだと限定できているのだ。
まずは落ち着こう。必ず会える。必ず見つけ出す。
蒼汰は目を閉じると、もう一度深呼吸する。
耳に届く幾つもの足音。その数だけ人生があり、その数以上の物語がきっとある。何度も諦めかけ、最後にはその背中を追いかけるのをやめてしまった恋。そんなもの、実は自分だけの特別な経験ではないのかもしれない。皆、秘めた想いや記憶を胸に、現実とうまく折り合いをつけながら、それでも毎日を歩いている。自分も、この足音の一つになるはずだった。
でも今、こうやってもう一度あの恋を追いかけ走っている。勘違いでもいい。あのタイミングで彼女の帰国を知り、自分はそのために全てをかなぐり捨て、ここまで走ってこれた、その奇跡を今は信じよう。
ゆっくりと瞼を上げた。その眼に映ったのは……。
「……え」
白い横顔
柔らかな髪
細い肩
左目の泣きぼくろ
心臓が鷲掴みにされたような衝撃
時が止まったような錯覚
全ての常識が逆転したような感覚
電光掲示板を見上げるその幻の様な女の姿に、蒼汰は息を飲んだ。
彼女を初めて見た時の感覚そのままが蘇る。心臓が今まで動くのを忘れていたかのように、強く高鳴りだす。
彼女の視線が動いた。一度床にまで舞い降りたそれがゆっくりと上がり、自分のそれを重なる。
彼女の目が見開かれた。
蒼汰は何かに背中を押されたように、彼女に向って駆け出す。
人の波を超え、時の壁を打ち壊し、想いの流れのままに。
そして、手を思い切り伸ばした。
彼女の目が優しく微笑んで、それを蒼汰は力の限りに抱き寄せた。
「紅さん」
今、ここに確かに彼女がいるのだとこうしていないと実感できなくなりそうで怖かった。
本当は自分が見ている幻で、抱きしめているのは彼女の影なんじゃないだろうか、そんな気さえする。
しかし、それを否定する幸せは、確かなぬくもりでそれを証明する様に彼の胸に手を添えて応えた。
「梅田くん」
腕の中の彼女の瞳を見つめる。
彼女の瞳に浮かぶ色は戸惑いに似た、しかしそれとは異質のものだった。
まるで、叶わないと思いながらもどこかで抱き続けた願いが叶った、そんな時の様な色だ。
「紅さん」
説明は今は必要ないと感じた。必要なのはもうすでに、この腕の中に全てある。
蒼汰は不思議と穏やかになっていく自分の鼓動を感じながら、彼女の瞳を覗き込み、静かに自分の偽りのない想いを口にした。
「俺、今でも、やっぱりあなたの事が好きです。きっとこの先も、ずっとこの気持ちは変えられません」
「梅田くん」
彼女の顔に、哀しみと躊躇いが浮かびかける。
その理由がわかるから、蒼汰はそれをかき消すように大きく微笑んで見せた。
「俺にとって紅さんは、何があってどんな想いを抱えていても、紅さんに変わりなくて、やっぱり好きなんです。この気持ちは変えられないんです。絶対に幸せにします。せやから……」
蒼汰は彼女を抱く腕に、もう一度力を込めた。
「一生傍におってください。そして、俺の家族になってください」
「梅田くん」
紅の瞳に、胸の奥にしまっていた想いの何もかもを包む涙が溢れだした。
蒼汰の胸をぎゅっと、何度も苦しみに耐えてきた手が握りしめられる。
「本当に、私でいいの?」
紅はそれでも戸惑っていた。彼にしてきた事、自分の身に起こったこと、それらを差し置いて、今更このぬくもりに自分が飛びこむ資格なんかあるようには思えなかったからだ。
もし、彼の気持ちが本当だとしても、それが彼にとって良いのか自信がなかった。
しかし、蒼汰はそんな彼女の不安を打ち崩すように、真っ直ぐに目をそらさずに言い放つ。
「紅さんやないとアカンのです」
力強く、そしてハッキリと。
「梅田くん」
紅は目を伏せた。
一年以上も前にあんな酷い別れをつきつけた自分に、彼がまだこんな温かで大きな手を広げ包んでくれる事も、広いこの世界でまた再会できたことも、何もかもが奇跡のように感じた。
蒼汰はそんな紅に優しくそして強く言葉を重ねる。
「紅さん。何度でも言います。俺にはあなたじゃないとアカンのです」
どれだけ誤魔化しても引かれ合う想いは、どんな障害も距離も、時間すらも最後には結局超えて重なってしまう。それは、不確かで不安定なものばかりのこの世界の中で、唯一、どうしようもないくらい不変なもののように思えた。
紅は苦しいほどに満ちて行く温かさに息をつくと、顔を上げた。
「じゃ、お願い。これだけは約束して」
声にこもるのは悲痛なまでの願い。
「私より先には絶対に逝かないで。もう、独りにしないで」
次々と自分の元を去っていく大切な家族。もし、こんなに心が求める彼まで失ってしまったら、きっと自分はもう……。
蒼汰はそんな不安に青褪める紅の頬を優しく撫でた。その、深い深い痛みと哀しみを全部受け止めるように、頷いて見せる。
「約束します」
将来を約束した女性を置き去りにし、心から信頼しあった親友を裏切ってまでここに来た。だから、だからこそ、この約束は違えてはならないと蒼汰は思った。
紅の体から力が抜ける。全てを預けるように投げ出された体を、蒼汰はもう離してしまわないようにしっかりと抱きしめた。
いつしか雨はあがっていた。
雲間から見える月を二人で見上げた。
なけなしの力で飛んだ人間は
月の引力に導かれ
ようやく傍にいる事を許された
闇を照らす事しかできなかった月は
漆黒の闇を抜けた人間に
ようやく己を委ねる安心感を与えられた
生まれてきた事
出会えた事
引かれ合った事
想いを重ねられた事
そして
こうやって同じ月を見上げられる事
すべての奇跡を抱きしめた
二つの影が
一つに重なる
そしてその瞬間
新たな奇跡への道が
また
静かに繋がれたのだった
〜FIN〜
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
次の話は後日談的なものですので、もしよろしかったらそちらもお目を通していただけると幸いです。
このApolloはタイムカプセルという物語の姉妹作品になっています。そちらでは園田青視点の話になっておりますので、こちらもよろしくお願いします。
本当に、長い物語にお付き合いくださり、ありがとうございました。
ゆいまる




