月と海 6
空港というのはどこの空港でも、独特の雰囲気を持っている。
落ち着きのない空気、どこか浮ついた人々の声、飛び交うアナウンス。
紅は長いフライトで凝り固まった体を伸ばすと、乗継まで数時間あるのに溜息をついた。
空港のどこかで時間を潰さねばならない。人混みは好きな方ではないので、自然にそれから逃げるように静かな場所を探して歩いた。
行き交う人々、交り合う時間。すれ違いはどれも一瞬で、自分と共に歩く人はもういない。紅は一瞬、翠の事を想い、足を止めかけた。
別れは、自分でも驚くほど自然に受け入れられた。嫌いになったわけでも、離れたくなったわけでもない。ただ、この別れに敢えて理由を明言化するのなら、自分の役目を終えた。そんなところが一番近いかもしれない。
彼を想うと、今でも愛おしさはこみ上げるけど、もう、彼の傍にいるべきでない事も同時に感じた。
自分達が共に歩む道は分かれ、お互い違う道を行く時が来た。そんな別れだったようにも思う。
紅は自分の横をすり抜けて行く人々の顔を眺めながら、改めて自分は今、独りなのだと思った。
大きな電光掲示板の前に立ち止まる。見上げると、いくつもの旅立ちを告げる数字と文字が連なっている。
もし、運命というものがあって、この掲示板のように次の行く先を教えてくれるのなら、どんなに楽だろうと思った。
そう、きっと物凄く楽で
「きっと、つまらないわね」
そう呟き苦笑した。
そして、自分がまた耳のピアスに手をあてているのに気が付く。
この癖は、本当にいつからなのだろう? このピアスを自分にくれた彼は、今どうしているのだろうか?
紅は胸にまだある火傷の跡に目を細めた。
そう言えば、彼も今年で卒業のはずだ。最後の彼の声、自分を呼ぶその声を、忘れられるはずはなかったが、それも過去にしてしまわないといけない。
いつも太陽のように明るく前向きで迷いのない彼は、きっととっくに新しい道を探し歩き始めているはずなのだから。
紅は痛みを逃がすように小さく溜息をつくと、自然と公衆電話に足が向いていた。
大学が思い出され、次いで父親のような恩師を思い出したのだ。日本に戻って来たのだから報告ぐらいはしてもいいかもしれない。それより何より……。
紅は受話器を手に周囲を見回した。
寂しい。
そんな自分にまた苦笑する。翠を出会うまではそんな事は滅多になかった。
両親を亡くした後から、孤独には慣れていた。友人も多い方ではない。どちらかといえば一人でも平気な方だった。
今、一人が寂しいと感じるのは、それだけ翠の存在がずっと自分の傍にあった。そういう事なのだろう。一度離した手が再び繋がる気はしないし、後悔もないが。
紅は受話器を握り直すと、教授の携帯に電話をかけた。
いつも不思議だった。三宮は自分にとって特別だ。彼の前だと弱気な自分をさらけ出してしまう。まるで強がることができないのだ。
電話の向こうの三宮の声を聞いた時、紅は今の今まで自分の心が何かにガチガチに固まっていたのを痛感した。
『久しぶりだな』
そんな三宮の一言で、それまで平気だと踏んでいた寂しさも、後悔がないと思っていた別れの痛みも、皆一気に溢れ、紅は自分でも何を話しているのかわからないくらい、独りよがりで感情的な事を口走っていた。
それは、父親に娘が八当たりをしている、まるでそんな感じだった。話しながら紅はようやく、自分の中にも嫉妬や憎悪といった感情があったのだと知った。
「すみません。ご無沙汰していて、こんな電話」
一通りいきさつを話し終え、ようやく心が穏やかになってから紅は自分の幼稚さに恥じ入りながら謝罪した。
電話の向こうの恩師は
『いや、連絡をくれて嬉しかったよ』
そう返す。そんな優しさに、紅は幾分、寂しさを救われた気がした。
「これから夜の便で小樽に戻ろうと思っています。これからの事は、戻ってからゆっくり考えようかと……」
『そうか、元気でな。落ち着いたらまた連絡くれ』
「はい。ありがとうございます。先生もお元気で」
『あぁ、じゃ』
「失礼します」
電話は先に切った。切れた後の電子音を今はまだ聞きたくなかった。
顔を上げると、傘を持った人の姿が目につき、床が濡れているのに気がついた。雨が降っているのかもしれない。
時計を見ると、まだフライトの時間まで三時間もあった。
紅は溜息をつくと、ごくごく近い未来の予定さえ変更の可能性を示唆する電光掲示板をもう一度見上げた。
雨は、簡単に先には進めさせてはくれそうになかった。