月と海 5
まるでそこだけを世界中の音という音から切り取ったかのような、やけに鮮明な言葉は蒼汰の動きを完全に凍りつかせた。
耳を疑う。室内に目を向けると、携帯を手にした椅子に座った三宮しか見えなかった。
身動きができないのに、心臓の鼓動だけが嫌なくらいに強く早く自分のど真ん中を震えさせ始めていた。会話は続いている。
「神崎川が難しいのはわかっていたが、神崎川には彼女しかいないと思ってたのになぁ」
「教授は……」
「神崎川は、不思議な男だったよ。ここに入って来た時から、人を惹きつけるものがあったし、お前も知っているように映像のセンスは抜群だった。でも、彼なりに苦しんでいた。天才ゆえの苦悩ってやつか、あいつの感覚について行ける奴なんてそういなかった。アイツにはとっくに見えている世界も、凡人の俺達にはさっぱりだ。アイツはそのフラストレーションを外に出すような男じゃなかったから、一時は見ていてこっちが痛くなるほど落差のある二つの顔で、なんとかそのジレンマを一人で凌いでいた」
三宮がとうとうと彼らの歴史を語っていた。
良く知る人の知らない時間。それは皮肉なほどに思い出になるはずの想いを、過去から引きずりだし痛みを蘇らせる。
「そこに現れたのが彼女だ。彼女はアイツを理解し、アイツの痛みや苦しみを一身に受け負った。正直、始め理解できなかった。俺は彼女にアイツから離れるのを勧めたこともある。でも、彼女は逃げなかった。自分がいなくなれば、アイツは独りになってしまう。誰にも心を許せないアイツが信用してくれた、それに応えて傍にいる事が自分の幸せなんだと」
「それが……どうして?」
「アメリカで、神崎川に女ができたそうだ」
それは、まるで犯罪の暗躍をしているかのような口調。二人の会話に、頬が引きつる。
「それくらいじゃ、たぶん中津も我慢できただろう。……これまでにもなかった話じゃない」
そうだ、なかった話じゃない。神崎川はいつだって、一途に尽くす彼女の想いを嬲り試すかのように、自分の思い通りに何もかもを、隠しもせずにしてきていた。それでも、彼女は決して奴を見捨てる事はなかった。その情の深さは、自分が苦しいほど知っている。
なのに、なぜ?
「子どもが…亡くなったそうだ」
足もとに深く底のない穴が、ポッカリと口を開けたかのような感覚がした。
彩、が? あの小さな小さな、懸命に生きようとするあの小さな手の温もりが指先に戻ってくる。あの命がもう、この世にない?
「事故って事らしいが。ほら、あいつらの子ども、少し問題があって、医療器具なしでは生きていくのが難しい状態だっただろ。それが中津が席を外した時、誤作動したと……」
嘘だ。
彼女が自分の子どもを、彩を不用意に一人にするはずない。
じゃそれは……。
「誰の仕業か、本当に事故なのかわからない。でも、その事件は中津には耐えられない出来事だったらしい」
彩を失った。彼女が命をかけて産んで、全てを投げ出して守ろうとした命。それを……。
彼女の哀しみ、苦悩、どんな言葉もその想いには陳腐だ。何があっても見捨てなかった奴との離別を決意させるほどのモノなのだから。
「彼女からの電話だったんだ。今日羽田から夜の便で実家の小樽に帰るらしい」
一人ぼっちになった彼女の細い背中が脳裏に浮かんだ。
固く目を閉じると、現実に押しつぶされそうな胸の悲鳴が聞こえる。
彼女が行ってしまう。たった独り、尽くしてボロボロになって全てを取り上げられた彼女が。
「そんなん……」
呟いた瞬間、部屋の中の視線が注がれた。
「そ、う……」
立ち上がりかけていた青と目があった。蒼汰はどんな顔をして、何を言えばいいかわからず、抜け殻のように立ち尽くした。
雨の音が世界を支配し始めていた。
「何や、今の話」
立ち上がった青に助けを求めるように問う。青の手の中から何かが零れ落ち、耳に不快な不協和音がした。
「蒼汰! 今の話は……」
動揺する青から視線を引き剥がすと、蒼汰は三宮にそれを投げた。
「教授! 今の話なんですか!!」
ドアを叩きつけるように開けると、彼に詰め寄る。蒼汰の剣幕に、三宮は苦々しそうに目をそらせたが、突き放すような口調で
「梅田。これは彼らの問題だ。お前はもう……」
説明を拒んだ。もどかしさがこみ上げ、頭が真っ白になる。相手が世話になった教授だという事も忘れ、蒼汰は掴みかかると彼の体を思いっきり揺すった。
「ええから! 今の話、ほんまですか? 紅さんは」
紅は、本当に彩を失ったのか? 紅は、独りになってしまったのか? 奴はあの紅をそんな形で捨てたのか?
「だったら、何なんだ?」
乱暴な力が不意に肩を掴んで教授から強引に引き離した。そこには怒りに震える青の顔があった。
「何やって……紅さんが……」
彼女が、彼女が……。酷い仕打ちを受けて、捨てられ、きっと独りきりでその苦しみに泣いている。そう、独りで。
「落ち着け。今更どしようもないだろ。梅田、お前明日には京都だろ? 車もない。どのみち駆けつけるとしても、フライトまでには間に合わないさ」
教授の低く落ち着いた声が、現実を喚起させた。反論できないそれに蒼汰は顔をしかめる。
唇を噛んだ。
目を堅く閉じる。
自分には叶い始めた夢がある。自分には一緒に歩いていこうと約束した女性がいる。自分にはかけがえのない親友と交わした誓いがある。でも、でも……。
鼓動が何かを振り切ろうとする。それは抗えない何かに引かれ従おうと叫んでいる。
シンプルに
シンプルに
自分はどこにいる?
自分の取るべき行動は何だ?
自分は…
藍の、自分との未来を信じるあの笑顔が浮かんだ。
青の、自分に彼の大切な想いを託した時の顔が浮かんだ。
紅の、細い背中が最後に浮かんだ。
「蒼汰。今の話は忘れ……」
「すまん」
蒼汰は声を絞り出し、項垂れる。
心はもう、固まってしまっている。きっともう、この気持ちを否定なんかできないし、ましてや抗う事なんて不可能だ。
拳を固く握る。
「やっぱ、アカン。無理や」
何をどう考えても、将来をくれた恋人を、想いを託した親友を裏切る事になったとしても、自分の気持ちはもう、彼女に向ってしまっているのだ。
彼女をこのままにしておくなど無理、できない!
「青! 頼む! 車貸してくれ!」
「は?」
蒼汰はそういうと思いっきり頭を下げた。声が震えた。でも気持ちはもう微塵もそこから揺るがない。
「やっぱり、紅さんは、俺にとって特別やねん」
ようやく認めた。認めざるをえなかった。彼女への想いは消えなんかしない。過去にもできない。今をもってしても、彼女を失う事がこんなに怖い。
やっぱり、自分には彼女しかいないのだ。
「なんだよ。仕事は、約束は、藍はどうなるんだよ!」
青の怒声が胸に突き刺さる。それでも……それでも……。
「スマン」
もうこの言葉しか残されてはいなかった。
「スマン」
許されなくてもいい。
全てを失ってもいい。
それでも、彼女の元へ走れと体も心も自分の全てが叫んでいる。
青の怒りは沈黙に痛々しいまでに滲んでいた。そしてその沈黙は彼が吐き捨てた言葉によって破られた。
「行けよ!」
次いで何かの金属音がし、頬に思いっきり当たった。
生まれた痛みは、青の絶望と哀しみを刻みつける。
「スマン」
蒼汰は胸を締め付ける苦しみに呻くと、顔を伏せたまま床に転がった鍵を握りしめた。
理屈も理由もなかった。ただ、彼女の元へ。
何もかもを投げ捨てて走り出した足に、もう迷う余地もなかった。