月と海 4
やけに眩しい朝日で目が覚めた。
寝るのが惜しくてつい明け方まで話し込んでしまい、いつ自分が寝たのかもよくわからなかった。
蒼汰はまだアルコールに重い体を床から引きはがして、背を伸ばす。いつも自分より早くに起きる青が珍しくまだ寝ていた。
首を何度か回し、時計を見て目を疑う。
「え……あ……」
卒業式は10時開始。ただいま9時40分。この家から大学まで自転車で15分として……。
「青ーっ!」
蒼汰の悲鳴が部屋に響いた。
酒臭い体をスーツに突っ込むと、青の自転車で大学に急ぐ。
「青急げ! しゃれにならへんで!」
蒼汰は器用にネクタイを締めながら漕ぎ手の青を急かした。
「わかってる! ってか、何で俺がこぐんだよ! 降りろ! 走れ! 最後に野郎と二ケツなんてしょっぱすぎるわ!」
「ええやん〜。俺の脚、まだガラスの足で……」
「ばーか。大道具組んでる奴の言うことか」
「いやん。乙女心わかってや」
「……ここで吐いたらお前のせいな」
あんなに語り明かしたのに、まだ軽口は尽きない。
蒼汰は心地良さに笑みを零すと足を投げ出した。
こんなバカな事も、こんな軽口も、こんな一体感も、今日で最後なんだ。だからせめて……。
蒼汰は後ろに飛んでいく景色を眺めた。
「俺、一生、忘れへんから」
ポツリと言葉がついいて出た。青は一瞬息を飲むと、漂う寂しさを柔らかい笑みに変えて頷いた。
「俺もだ」
卒業式にはギリギリセーフ。講堂前の後輩たちの苦笑交じりの視線は少々気恥ずかしかったが、とにかく間に合ったのだ。蒼汰的には結果オーライだった。
講堂に入って蒼汰はすぐに文学部の方の席に視線を巡らせた。テンカウントしないうちに藍の姿を見つけ、思わず心臓が跳ね上がる。
藍もまた自分達を探していたらしい。不安げな顔で見回していた視線がこちらと合うと、満面の笑顔を浮かべてくれた。
辛うじて名前を呼びたいのを抑え、大きく手を振る。あんなに会いたかった彼女が同じ空間にいる。それだけでテンションは急上昇した。
藍は苦笑すると、可愛らしく小さく手を振り返し前に向きなおった。
予告されていた袴姿は想像していたよりもずっと綺麗で、ぐっときた。文学部は女子が多いせいか、自分達のいる経済学部より華やかだ。その中でも蒼汰には藍は一際特別に綺麗に見えた。隣に桃がいないのが少し寂しい。
「桃ちゃんも来れたらよかったのにな」
思わず呟いた。どんな時もいつも一緒だった四人だ。やはり一人でも欠けると調子が狂う。青は乱れた呼吸をようやく沈めたのか、黙って頷いた。
「藍との約束は?」
式の諸注意のアナウンスの中、青がやや早口で尋ねてきた。蒼汰ははにかみながら昨日やり取りしたメールの内容を思い出す。
「式が終わって、彼女、着物返しに行くらしいから、昼過ぎ……三時にあの桜並木で待ち合わせやねん」
桜並木は特別な場所だ。あの場所は、自分達の映画がクランクインしてクランクアップした場所で、藍から告白を受け、自分が告白した場所。新しい一歩を踏み出すのに、一番ふさわしいと思った。
「今度は遅刻するなよ」
青は片眉を上げて胸を小突いてきた。
「あぁ」
昨夜の誓いを思い出す。
蒼汰は気を引き締めると、しっかりと頷いた。
式が終わってすぐに、蝶の様に可憐な藍が駆け寄って来た。
目の前まで来ると、少し照れくさそうにこちらを見つめる。
「もう、心配しちゃった」
「すまんすまん」
何てことないやり取りだけど、緊張してしまう。彼女はもう友達じゃない。恋人で、明日から一緒に暮らしていく大切な女性だ。
他の友達にもまれながら講堂を出る。繋いだ手が、まだしっくりこないけど、人ごみに押されても離れない温もりにあの恋にはなかった安心感があった。
同じタイムミングで目が合うとこそばくて、違うタイミングで手を引くと存在を感じた。
講堂の外に出ると、外は薄曇り。遠くに雨雲が見え、旅立ちには少し残念な空だったが、何もかもうまくいかないか、と蒼汰は小さくため息をついた。
青に藍との写真を撮ってもらったり、サークルの後輩に囲まれたり、三宮教授に茶化されたり、夢のように幸せな時間があれよあれよという間に流れて行く。
行かないでほしい、まだここにいたい。そう願うほどに、さっき青の自転車の後ろで見た風景のように世界は進んでいく。
気がつくと、青はいなくなっていた。
藍が
「じゃ、私、袴返してくるから」
他の文学部の友達を振り返りながらそう言った。
「わかった。ほな、三時にな」
「うん」
一つの時代が終わって、一つの時代が始まる。自分は彼女と歩いていく。これで……いいのだ。
蒼汰は駆けていく藍の姿が遠くなるまで見送った。藍はそんな彼をもう一度振り、返り手を振った。彼女はそんな人だ。どんな時も、自分を見てくれていた。どんな時も……。
人影がまばらになった周りを見回す。自分がどんな時も見つめていた影は、ここにはもうない。
「青のやつ、みずくさいな」
何かの感情に囚われそうになるのを振り払うように、思考を無理やりに戻し、蒼汰は呟いた。
さっき、見失う直前に三宮と何か話していたから、彼の研究室かもしれない。藍との約束まではまだあるし、遠回りしながら研究室を覗いてみよう。このまま離れるのは寂しい。永遠の別れでもないが、青は藍と同じくらい自分にとって特別な存在だ。言葉の一つくらいは交わして離れたかった。
見上げた空は、さっきよりもさらに低く、前髪を揺らす風には雨の匂いがした。
何かがもうここに留まるな、そう言っている気がして、蒼汰は前髪をくしゃっとかき上げると、ゆっくりとその場を後にした。
雨の匂いが一秒ごとに濃厚になってくる。立ち込める空気は先ほどの、寂しいけれども華やかな雰囲気とは異質のものとなり、どことなく人に不安を覚えさせるような物に変化していく。
空を見上げると、灰色の空の下を黒い雲が急速に流れていた。その下を、まだ蕾の固い桜の木立がざわざわと揺れている。
蒼汰の勘が何となく嫌な予感を告げていた。
一瞬、藍が心配になり、彼女の消えた方向に視線を巡らせるが
「考えすぎやろ」
言い聞かせるように呟くと、蒼汰はサークル棟の方に足を向けた。
この四年間、教室よりも通い詰めた場所は、今日が卒業式という事もあって閑散としていた。人影のほとんどないその空間のそこかしこに、過去の自分達がいて、その時間に浸っている時には感じなかった、もう二度とは戻らない季節のかけがえのなさに溜息がでる。
どれだけ大切な時間でも、もうできる事といったら、忘れない、それだけだ。
青と良く行った食堂を抜ける。
ふと、あの夏の日を思い出した。紅と一度だけ二人でここで食事した遠い夏の日。足を止めその方向へ目を向けると、そのテーブルには知らない生徒が座っていた。
「きりないやん」
苦笑交じりに呟いた。彼女の事を思い出そうと思えば、本当にきりがない。もう一年以上前に終わった恋は、こんなにもまだここにある。それを未練にしてここで立ち止まるのか、よい思い出として先に進むのか。自分は後者を選んだはずだ。
さっき藍と繋いだ手を握りしめる。今、ここにあるものを大切にしないと、きっとあの想いまで台無しにしてしまうのだろう。
蒼汰はまた溜息をつくと、中庭を目指しその先の教授の研究室のある建物へと向かった。
階段を上り廊下を進む。
雨の音が静かに聞こえてきた。とうとう降り出したのだ。囁き声の様なそれは、静かに世界に広がっていく。
薄暗い廊下に落とされた不定期感覚の部屋の明かりの傍を通り抜け、ようやく数歩先に目的地を定めた時に、話し声が聞こえてきた。
少し開いたドアの隙間からこぼれ出てくるのは三宮の声と青の声だ。
「やっぱりここやん」
蒼汰はホッとしてドアに手をかけよう。そう手を伸ばした時に、信じられない言葉が耳に飛び込んできた。
「神崎川達、離婚したそうだ」




