月と海 1
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「ほんじゃ、卒業式でな」
蒼汰は電話を切ると、ふぅと溜息を洩らした。
昨夜の藍からの電話。改めて今、彼女と話した将来の事。それらを思い返すと胸がいっぱいになって、苦しくなる。
「なんやの? ニヤニヤして……気持ち悪いな」
母親が通り過ぎ、蒼汰は慌てて握りしめていた携帯を背中にまわした。
「久しぶりに帰って来た息子に気持ち悪いはないやろ?」
文句の一つも返してみるが、やはり口元は緩んでしまい格好がつかなかった。母親の方も、そんな息子に呆れて何かを言いかけた口をつぐんで夕飯を作るためだろうか、台所へと消えてしまった。
蒼汰はそそくさと、荷物でいっぱいの自分の部屋に逃げると、閉めたドアにもたれもう一度携帯を見つめた。
春からは藍と一緒に暮らす。希望の仕事につき、好きな人との生活が始まる。これ以上に素晴らしい未来はあるだろうか?
蒼汰は興奮を鎮めるように深呼吸すると、辛うじて部屋の主人が寝転がるスペースのあるベッドに倒れこんだ。
何度も何度もさっきの藍の声を再生する。
好きだと自覚してから、彼女を見る目が変わった。告白してから、前にもまして彼女の存在が大きくなった。そして今、かけがえのない人になろうとしている。
「あ〜! もう、また声聞きたくなった〜!」
蒼汰はゴロゴロひとしきり転がると、バタンと大の字になって天井を仰いだ。
不意に訪れる静寂。聞こえるのは自分の鼓動だけ。こんなに騒ぐのは嬉しいって言う理由だけ?
ドウシテ街ニ残ルノダロウ?
ドウシテスグニ新生活ノ準備ヲシナイノダロウ?
その答えを導こうとする自分の邪推に嫌気がさして、顔をしかめた。
好きな気持ちが大きくなると、どうして一緒に不安も大きくなるのだろう? きっとそれは失いたくない。そういう理由なのだろうが、それだけでもない気がする。
きっと、四年も住んだ町が名残惜しいのだ。そう、半ば無理やりに結論付けると、蒼汰は不安を拭い去るために携帯を再び開いた。うじうじ悩んで、疑うなんて、それこそ気持ちが悪い。きっと声を聞けば安心する。自分の親友の声を。
蒼汰はその名前を画面に呼び出すと、さっそく通信のボタンを押した。
白い月を見上げ、藍は変わりゆく季節にそっと溜息をついた。
春からの新しい生活への期待感と同時に押し寄せる、寂寞な感情が息苦しさを覚えさせる。
薄氷が解けるように、その流れを誰も止められないし、止めようもないのに、そしてそれはまた、自分が選んだもので、幸せな選択のはずなのに……。
藍はすぐには踏み出せずにいた。
どうして? 思考はいつもそこで止まる。まるでそれ以上考えるのを恐れているかのようだ。
「先輩!」
呼ばれて振り返ると、髪を短くし黒に戻したスミレだった。
あまりのイメージの変化に、すぐには誰かわからず、藍は苦笑した。
「芦屋さん。随分イメージ変えたね」
いつの間にか止まっていた周囲の空気が流れ出す。二月末のキャンバス内は、どこかふわふわした雰囲気だ。それは進級への準備のせいであったり、卒業生がおらずに人影が少なく感じたりするせいかもしれないが、少しさみしく感じた。
スミレは照れ笑いを浮かべながら
「髪を切るのはちょっと勇気いったんですけどね。就職活動には、この方がイメージいいかなって」
そう言って、自分の髪を撫でた。
背中まであった緩やかなウェーブが愛らしかった茶髪は、今や肩までのストレートな黒髪だ。
藍は「芦屋さん美人だから、何でも似合うよ」というと、本人は否定もせずに嬉しそうに目を細めた。
「それより! この町に先輩方、藍先輩以外に誰か残ってます? 桃先輩は確か、留学しちゃったんですよね?」
「ええ」
藍は先に飛び立った友人を想い、なぜか痛む胸を誤魔化すように笑顔を作った。
「蒼汰くんはこの間から京都で研修が始まっていて、ここにいるのは……」
さらに胸の苦しみを覚え、藍は一瞬言葉を詰まらせる。
「あ、先輩と青だけですか」
代わりに答えたスミレは何食わぬ様子で藍を見ると、次いで自分のカバンからDVDを取り出した。
「これ、私達がいた三年間の作品だけですけど、この中に全部収めたんです」
差し出されたDVDを藍はそっと受け取った。
「本当はもっと早くに渡せばよかったんですが、後期試験までに間に合わなくて」
「いいのよ。それより、すごく嬉しいわ。ありがとう」
藍は言葉を返す。
スミレとは毎年恒例の卒業式後の飲み会は残念だけど今年はできそうにない事を話しあうと、その場で別れた。
元気に駆けて行くスミレを見送ってから、藍は手の中のDVDを見つめた。
一見チープなその透明のケースに収まった一枚の丸いディスクには、自分達四人がいた時間が刻まれている。
この町に残された人間
この町に残った人間
春からはもう会えない人
青に会いに行こう
藍は心に決めると、自転車置き場に向かった。
別に何かを求めるつもりはない。決まった未来を手放すつもりも全くない。それでも、近いその未来に遠くなるその影に、今は会いたいと思った。
貰ったDVDと鞄を前籠に入れてペダルを踏む。
良く知る彼の家へはここから十分ほど。ルートは幾つかあるが、今日は川沿いの道を行こうと思った。
名前のつけられない季節の風は、少し優しかった。
川沿いの道に吹く向かい風は髪を後ろになびかせ、まだ冷たいながらも頬に心地よかった。川を眺めると、水面がきらきらと光を反射させている。この煌めきがもう少し眩くなった時、自分はこの町を出て行くのだ。
十分に満ちてるその豊かな流れを目に映してから、藍は空に浮かぶ月に今度は目をやった。
一見なんの関係のない二つの存在は、見えない力で引き合っている。静かに音もなく、しかし生まれた時から引きあうその様子は、まるで人そのものだ。
空は、あの日のように茜色ではないけれど、自分が選んだのは蒼い大きな空だけど、少し涙に滲んでいたあの日の空が懐かしくなった。
ふと、何かに呼ばれるように河原に視線を展開させると、良く知った背中があった。
心臓がぎゅっと掴まれ、藍は思わず自転車を止めると、カメラを何にもない空間に向かって構えるその人物の名を口にした。
「青くん?」
シャッターにかけられていた指を下ろし振り向くのは、やはり彼だった。いつもと同じ、初対面には無表情か怒っているようにしか見えない顔で振り返る。
「よぉ」
彼の短い挨拶も、もう聞きなれた心地よい響きだ。藍は自転車を押し、土手を降りながら彼に声をかけた。
「青くん、ここで何してるの?」
青は黙ってカメラを掲げて見せる。藍は「あぁ」と分かっていた事に声を漏らし頷くと、微笑んで
「まるで、初めて会った時みたいね」
思わずそう零した。
あの日の茜空。もし、今も同じ空の色なら、気持ちはあの時にまで戻った? そんな事すら考えてしまうほど、目の前の青はあの日のままだった。
「藍こそ、何してるんだ?」
訊かれて藍は自転車の前かごに視線を移して見せる。
「青くんの家に行こうと思ってた所。芦屋さんから映画部DVDをもらったからね、一緒に観ようかなって」
こんなのは、もしかしたら単なるきっかけ、口実に過ぎないのかも知れなかった。それでも、蒼汰に対して後ろめたくならない自分に少しほっとする。なぜならそれは、自分の青に対する気持ちが彼に後ろめたさを感じなければならないような種類のものではないという事の証明だからだ。
青は友達。青に会いたいのは特別じゃない。
半分は言い聞かせるように、半分は確認するように心の中で呟くと、顔をあげた。
「青くん、卒業までどうするの?」
「これで、街を撮って回ろうかと思ってる。暇だし、旅行って気分でもないしな」
「実家には?」
まだ折り合いが悪いのだろうか? 心配になって眉を無意識に寄せてしまったが、青はそんな藍の気持ちを見抜いたようで苦笑した。
「いや、もう、そんなに嫌いでもないんだけど。今は居場所がある意味無いって言うか……」
眼鏡を触る。照れ隠しのサインだ。
「甥か姪がもうすぐ生まれるんだ」
僅かに柔らかな表情になる青に、藍の表情も和らいだ。家族と向き合う事を自分はできなかった。でも、青はそれができ始めているのだ。
「そうなんだ。おめでとう」
目を細める。青は肩をすくめ
「そっちこそ」
とすかさず返してきた。
「?」
藍は一瞬目を見開いたが、蒼汰との事だと思い当たると、すぐにはにかんで目を逸らした。
「あ、蒼汰くんから聞いたんだ」
「まぁな」
青は眉一つ動かさず頷く。青が、春から自分と蒼汰が一緒に暮らすことを知っている。もしかしたら、卒業式の日に二人でホテルに泊まる事も知っているのかもしれない。
そう思うと、藍は一気に耳まで熱いものが昇ってくるのを感じた。途端に鼓動が落ち着きを無くす。それを悟られないように、目を緩やかな流れに移した。
知っていて当然なのに、それが現実なのに、なぜか青に知られるのはものすごく恥ずかしい気がした。
そう、自分は春から蒼汰と一緒に暮らし始める。蒼汰と笑って幸せになるのだ。ようやく通じた想い。叶った願い。だから、この街の思い出をちゃんとしまっていかないと。
ようやく跳ね上がった鼓動は、目に映る水面のように波がないものになってゆく。
藍は青に視線を戻すと、口を開いた。
「ね、卒業までは私も時間あるし、カメラ、付き合っても良い? 私、青くんの写真、本当に好きだから」
そう、本当に本当に大好きだったあの世界。
サヨナラをする前に、その世界に寄り添える時間があるのなら、そうしたい。
すぐには返事をしない、青を祈るような気持ちで見つめた。
川からの風が草の匂いを運び、藍の髪を揺らした。青はふっと小さく息をつくと
「いいよ。とりあえず、今日はそのDVD観ながら、飯でも食うか?」
笑顔になった。そして藍の手から自転車を奪いとる。
「後ろ乗れよ」
「え?」
急な言葉に藍は瞬きを数度する。
「二人で回るなら、このスタイルがいいだろ。今日は予行練習にこのままスーパーまで行こう」
青の背中に掴まる。さっき感じなかった一瞬蒼汰に対しての後ろめたさを、今はハッキリ感じた。でも、予定された未来はきっとこんなことでは揺るがない。蒼汰に隠すつもりもないし、彼は知ったところで何にも言わないだろう。
青は友達
大切な
かけがえのない
でも
友達
藍はその頬を緩めると、ゆっくり頷いた。荷台に乗り、恐る恐るその腕を青の体に回す。
青の匂い、大きな背中、体温。途端に切なさの様な痛みがが体の芯からこみ上げて来た。
「行くぞ」
青はやはり短く言うと、ペダルをこぎ出した。
その横顔はやっぱり綺麗で前をしっかりと見据えていた。自分を振り返らないでいてくれて良かったと思った。静かに訪れる別れまでの時間を大切にしたい。そう思って、藍は青の背中越しにもう一度月を見上げた。