途切れる 6
季節が春に向かっている。それを示すように、刺すような厳しさはもう自分たちを覆う空気にはなく…角の取れたそれに降り注ぐ日差しも僅かに柔らかい。
神崎川はそっと肩越しに彼女を振り返った。
色のないその顔に自分のできる事をずっと考えてきた。きっと、それくらいじゃ彼女が自分にしてきてくれたことの数パーセントも返せないけど。
昨日まで降っていた雨は上がり、濡れたアスファルトが乾く匂いがした。
神崎川はあるゲートのその向こうへと真っ直ぐ進む。紅はそのゲートの中へ足を踏み入れる瞬間、躊躇った。神崎川は振り返ると、優しく微笑み握った手に少し力を込める。
「大丈夫」
その言葉はまるで的を得てはいなかったが、そういうより他になかった。
いくつもの人が生きた証の中を進んでいく。
いつしかアスファルトの匂いは湿った芝生のそれに代わり、靴底に感じるふかふかした感触は、まるで雨雲の上を歩いているかのようだった。
神崎川はある、小さな墓石の前まで来るとようやく立ち止まった。
新鮮な花が添えられたそこは……。
「彩がここにいるのね」
紅は目を細める。
神崎川は吹けばその風にさらわれてしまいそうな紅の肩を抱いた。
遠くで葬式が行われているのか、人々のすすり泣きと神父の声がかすかに聞こえる。
「紅。ここには彩はいない」
「え?」
神崎川はもう一度彼女の肩を引き寄せる。息を一度飲む。そして一枚の紙を紅の前に差し出した。
「これは?」
紅はそれを両手で受け取ると、目を走らせる。
日本語で綴られたそれは
「プロットだよ。映画の」
神崎川はじっと墓石に刻まれた息子の名を見つめた。
「紅。俺は、この子に何にもしてこなかった。そしてこれからも何にもしてやれない。でも、せめて、この子が生きた証を残したいと思う。彩は今もここにいるんだ」
そう言って自分の胸に手をあてる。
「翠」
神崎川は紅の瞳と自分のそれを合わせると、静かに微笑んだ。
自分が彼女にできる事。それは、もう彼女を頼らずに生きていける事を示し、彼女をこの鎖から解放する事なのだ。そうしなければ、彼女はきっと傍にいる限り自分の支え続けようとするのだろう。そして自分はまた、知らず知らずのうちにこんなに傷つきすり減った彼女に、また寄りかかってしまう。
自分は、彼女に『生きて』欲しかった。
神崎川は戸惑いを浮かべる紅に小さく頷いて見せた。
「あの子の命に俺はたくさん気付かされた。こういうのは、自分勝手な理屈だろうが、生きて、あの子の命の意味を刻んでいこうと思う。それが残った人間のやるべき事だと、俺は思った」
「……ええ」
紅は震える唇を堪え噛みしめている。
自分は、結局彼女を泣かせることしかできないのだな。
掌の中の細い彼女の手の温もりを握りしめる。この胸はまだ、彼女を失いたくないと叫び、捩じ切れそうなほど痛むけど。
神崎川は苦笑を零すと、彼女の手をゆっくりとゆっくりと解放した。
それはまるで絡まっていた糸がそっと解けるようだった。
何かがそこで途切れ終わっていく。もう交わらなくなった体温の隙間に風が入り込んだ。見上げる紅に、神崎川は優しく微笑みその髪を撫でた。この手が再び彼女のぬくもりを求めてしまいそうになる。
神崎川はそんな衝動を押し込めるようにしゃがむと、彼女に触れる代わりに、息子を抱けなかったその不甲斐ない手で墓石を撫でた。
風が行き過ぎ、季節を運んでいく。
吹き上げて行く風に運ばれたそれを目で追うように、神崎川と紅は空を仰いだ。
遠くで教会の鐘が鳴った。響き渡るその音は、終わりと同時に始まりを告げる。
神崎川は見上げた空の眩しさに目を凝らす。
世界はこんなに優しく厳しく哀しく喜びに溢れ、ただただじっと何も言わないで自分達を包み込んでくれている。
深く吸い込んだ大気はやがて、一つの言葉を伴い静かに吐き出された。
「別れよう」
それはごくごく自然で、自分達の取るべき道はそれで良いのだと思った。
旅立ちの朝はいつも以上に静かだった。
もの音を立てるのを恐れているというより、綺麗な湖面に波紋を作りたくない、そんな雰囲気だ。
翠は鞄にチケットをしまう紅をソファに座って眺めていた。
後数分で、彼女は自分のいる世界からいなくなる。それは酷く非現実的に感じる、しかし紛れもない現実だった。
こんな時になって、しみじみと彼女の横顔の美しさに溜息をついてしまう自分のうかつさに、苦笑も出ない。
ふと、彼女の向こうに何かが見えて、目を凝らした。
「あぁ」
遠征から帰ってきた時のまま放り出したままのプレゼントだった。
一瞬、この際渡してしまおうかとも思ったが、それこそ苦笑を誘い頭を軽く振って止めた。
未練も甚だしい。自分の身勝手な未練まで彼女に背負わせてはいけない。彼女はようやく、自由になるのだから。
「翠」
呼ばれて時計を見上げる。
時間だ。
立ち上がると玄関にそろりそろりと向かう彼女の後姿についていく。この背中を今、抱きしめてしまえばきっと彼女はここに留まってくれる。留まり、これまでのように自分をあの、大きく柔らかな優しさで包んでくれるのだろう。自分の人生さえ全て投げ出して。
引き留めたい衝動に息を飲む。鼓動が悲鳴をあげる。選択が間違いではないかと脳が疑い出す。心までも慟哭に狂ってしまいそうだ。
固く握る拳が開かれ、彼女のその細い肩を掴もうと伸びかける。
その時、光が射し込んだ。
一気に視界が純白に染まり、紅は眩しそうに空を見上げた。
「天気雨」
空は晴れているのに泣いていた。
光に輝く雨のシャワーを仰ぐ彼女の横顔は、恋に落ちた時のその横顔のままで……。
翠はゆっくりと手を下ろすと、隣に立った。
彼にも光のシャワーが降り注ぐ。
二人はしばらくその光を浴び、心を静かに通わせた。出会ってから今日のこの日までの事を、言葉もなく、微かに耳に届く互いの呼吸と自分の鼓動を重ね語り合った。
共に過ごしたどの時間より優しく、幸せな時に二人で浸る。
やがて、雨が止んだ。
「ここで、いいわ」
「わかった」
虹が彼女を遠くへと導くように架かる。
風が吹き過ぎた。紅は軽やかに振り向く。じっと翠の瞳を見上げる彼女のそれは、今も穏やかで深い色をしている。
翠はこの色を胸の一番深い所に刻み込んだ。もうきっと二度と見ることはできない、もうきっと二度とこの手にすることはない、誰より傍にいたのに誰よりも遠くなっていく、その色を。
「翠」
ふわっと翼のように紅の手が伸びた。翠が口を開くその前にその体を包む。じんわりと染み込むような優しさに、声を上げそうになる。
「紅」
サヨナラ
アリガトウ
どの言葉も違う。自分は、最後の最後まで彼女に言葉の一つも贈ってやれない。
そっと離れた体は、もう重なる事はない。
紅は静かに微笑むと、翠の頬を撫でた。
「ずっと、見てる。貴方の世界を待ってる。だから……」
生きて。紅の唇が囁いた。
「わかった」
これは彼女への誓いだ。翠は頷くとようやく腕を解いた。
「見ていてくれ。必ず良いものを作るから」
彩が気がつかせ目覚めさせてくれた事。紅が伝え与えてくれた物。全てを無駄にはしない。決して。
紅は安心したように頬を緩めると、眩いばかりの笑みで頷いた。
綺麗だ。これまで見た、どの彼女より綺麗だと思った。
「じゃ」
彼女は背を向ける。そして一歩踏み出した。もう、彼女の世界には雨は降っていない。
翠はもう一度空を見上げた。虹の向こうに白い月。やはり彼女は月のようだと思った。
彼女の気配が春を運ぶ風にさらわれ、消えていく。
翠は深い溜息をつくと、両手をポケットに突っ込み、手に当たった煙草を箱ごと握りつぶした。
家に入るとまずそれをごみ箱に投げ捨て、窓を思いっきり開けた。
新鮮な空気が部屋に流れ込み、光が部屋の中にも溢れだす。振り返ると、永遠に贈る事が出来なくなったプレゼントが目についた。それも捨ててしまおうと手に取る。
「これは、いいか」
ぬいぐるみは彩。指輪は紅。自分にも家族があった証くらい残しても許されるだろう。
翠は苦笑すると、今度は電話を手に取った。
押しなれない番号に指先が迷う。
コールが鳴り響く。
『取り返しがつかない事になってからでは遅いんだよ』
なら、彼とはどうだろう? まだ取り返せるだろうか?
コールが途切れた。
「あ、もしもし。俺。翠」
翠の顔に緊張と苦笑と照れが同居する。受話器の向こうで低い声が唸った。でも、それが不機嫌を装ったものだってことは今ならわかる。
「あぁ。今はアメリカ。でも、帰ったら真っ先に顔みせるよ。わかってる。あぁ。わかってるよ。説教なら会った時にいくらでも聞くさ」
窓の外の、白い月が遠くで見守る世界は、やはりどこまでも優しい。翠はそれを目に写すと、彼女の幸せを心から願いながら、できるなら再び梅田蒼汰のような人間が彼女の前に現れる事を祈って、静かに目を閉じた。
「だから、俺が会いに行くまで生きていてくれよ。親父」