途切れる 4
雨の降りしきる公園には人影など似つかわしくない。灰色の風景には色彩あるものなど場違い極まりないのだ。
葉を落としたこげ茶色の枝が、真っ黒な雲を突き刺し、ぬかるんだ地面は不快な音しか立てなかった。
その中に見える真っ赤な傘。
あたかも見つけられる為だけに作られたようなその色は、皮肉なほどこの沈んだ風景の中、生き生きと鮮やかだった。
「あら。傘もさしてこなかったの?」
その赤い傘は振り返ると、手玉に取ったと喜ばんばかりの笑顔を向けた。
神崎川は、雨で額に張り付いた髪をかき上げると、その異様なまでの無邪気を装う女を正面から見据えた。
「お前がやったのか」
遠くの方で空が唸った。
緋奈は唇を吊り上げると悪びれもせず、媚びいるように小首を傾げる。
「なぁに? 怒ってるの?」
伸ばした指さきにも真っ赤なマニキュア。その爪で神崎川の頬をなぞると、じっと瞳を覗き込む。
「奥さんは? 警察にでも話した?」
神崎川は目を細め、痛みと怒りに耐え、拳を握りしめた。
「あれは……何も言わなかった。たぶん、俺が訊かなければ一生言わなかっただろう」
さっき頷いたのだって、紅は躊躇ったはずだ。
ただ、以前のあの些細な嘘のせいで、もう自分に嘘がつけなかった。だから仕方なくあぁやって頷いたのだ。
緋奈は頬を痙攣させると、まるでそこで笑い飛ばさねばその化けの皮が剥がれてしまうとでも言わんばかりに、無理やり笑みを浮かべる。落ち着きなく傘を抱えたまま腕を組んだ。
「何? あの女も、意外と冷静なのね。あ、実はあの女もあの子どもを邪魔に思ってたんじゃ……」
「ふざけるな」
神崎川は声こそ押し殺したが、緋奈の襟元を掴みあげると鼻先が触れるほどん距離にまで引き寄せ睨んだ。
再び雷鳴が轟く。近づいてきている。
緋奈は辛うじて冷静さを見せつけようと口元を笑みに変え
「お、落ち着いてよ。なに? これって、アンタが望んでた事じゃない? あの子どもはいらないって。あの子どもさえいなくなればって」
言葉を重ねるほどに語気が強くなる。
「それは……」
「そうでしょ? あなたの望みを叶えてあげたのよ? 何? 今更、いい夫ぶるわけ? 笑っちゃうわ!」
神崎川の手から力が抜ける。
解放された緋奈は浮かびかけた怯えを引っ込め、冷静を取り返した瞳で神崎川を観察した。
「随分ご都合主義じゃない? 何、勘違いしてるかわからないけど。ね、冷静になってよ。貴方の望みどおりあの子どもはこの世からいなくなった。そしてあの女は私を訴えもしてない。これはチャンスじゃない」
「は?」
俄かにこの女の言っている事がわからない。
神崎川の凝視する視線の中、緋奈は陶酔した己の言葉を降りしきる雨に負けない声にする。
「私とあなたは良いパートナーになるわ。私はこうやって貴方の望みを何でも叶えてあげられる。仕事の方だって、いくらでもコネクションしてあげられるわ。あの女を捨てるのよ。そして、もっと高い場所に一緒に行きましょ?」
空が千切れる音がした。
真っ赤な傘は黒く染まり、一瞬地面に色濃く焼き付けられる。
これが、少し前までの自分の姿なのだと思った。
己の事しか考えず、己のした事を正当化し、己の道しか信じられない、寂しく哀れな姿。
「そうか」
神崎川はようやく気がついた。
彩を殺したのは、この女ではない。傲慢で自分勝手で冷酷で浅はかだった……
「俺だ」
天はそれを責めるように冷たい雨を激しく、その男の体に打ちつけ、男はその罪深さに動くことができなかった。
もう、ここには用はない。
神崎川は深い自分自身への失望に溜息をつくと、緋奈に背を向けた。
これからすべきことが見えない。ただ一つわかるのは……。
「待ちなさいよ! どういうつもり?」
ヒステリックな声とともに、爪が食い込む鋭い痛みが腕に生まれ、神崎川は顔をしかめて振り返った。
傘を投げ捨てた緋奈の雨に濡れた顔は、その顔に塗りたくられていた分厚い嘘が洗い流され、酷い有様だ。
神崎川はその手を引き剥がすと、手首を掴んだまま憐みの目でその女を見つめた。
「な、何よ。殴るつもり?」
ふっと思わず苦笑が漏れる。以前の自分だったらそうしたかもしれない。でも、紅は言った。もう、あの子の命を復讐などに使われたくないと。
「言ったろ? お前にはその価値もない」
神崎川はその腕を投げ捨てる。緋菜が二三歩後ずさり、泥の跳ねる音がした。
「なっ」
手首をさすりながら、緋奈の顔が怒りに上気し始める。
神崎川は怒りよりも不憫にすら感じる、惨めなその女の姿を見つめると、力なく腕を垂れた。
「お前は勘違いしている。お前、これで罪を逃れられたと思っているのか?」
「え? 違うの? 警察には訴えなかったんでしょ? 証拠だってないはずよ」
途端に不安に歪む顔に神崎川は首を静かに横に振った。
「違うな。確かに紅はお前を告発しなかった。それは……」
神崎川は手を握りしめるとじっと見つめた。
紅を殴って来た手。子どもを抱かなかった手。そうこの手は
「永遠に償う機会を失ったって事だ」
雷鳴は今や少しずつ遠のいていく
裁かれない罪は永遠に償う事も出来ず、その魂は汚れたまま救われることはない。
一生この罪を背負って行かねばならないのだ。
「二度と、紅に近づくな。それに俺にお前は必要ない」
「え」
力が抜け、拳を解く。見上げた先にいる醜く惨めな女は、自分の影だ。
「この先、お前がどんな幸せをつかもうと、お前がした事は消えない。お前は殺人者だ。それだけ覚えておけ」
緋奈はその言葉に色を無くす。
殺人者。その名は何より重く、盲目になっていた緋奈の目に急に世界が冷酷で厳密な形を伴い迫ってくる。
そんな人間になってまで手に入れたものは、たった一つの失恋。
恐怖や不安よりも絶望に近いその感覚に、緋奈の唇が震えた。
「何よ! 自分はどうなのよ!」
吠えるその声も、今は虚しく。もはや雨粒一つ、揺るがすことはできない。
神崎川は自嘲の笑みをこぼした。
「俺も同じだ」
遠く光る閃光は、罪人達に罰すら与えはしない。
立ちすくむ緋奈を背に、神崎川はなおも強い雨に打たれながら、そう言えば神話では雷は神の裁きだったな、とぼんやり考える。
家路に向く足は冷たい雨を多分に含みずっしりと重く、暗い地面に引き込まれ逃れる事の許されなくなった自分の影を自覚した。