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Apollo  作者: ゆいまる
109/121

途切れる 3

 飛行機の関係で、急ぎに急いでも病院に辿りつけたのは連絡を受けた12時間後、その日の昼だった。

 烏丸に連れられ車を突っ込ませた病院に飛び込み、カウンターでまだ流暢とは言えない英語で息子の行方を聞く。


ドクン


 自分の心臓が妙な音を立てていた

 通されたのは長い廊下の薄暗い部屋


ドクン


 胸を打つその音は不快だった

 冷たくひんやりとしたドアに手をかける


ドクン


 制御不能の鼓動は自分を責めていた

 扉が歯ぎしりにの様な軋む音を立てて開く


ドクン

ドクン


 紅が小さなベッドに突っ伏していた

 肩が震えている

 きっと泣いている


ドクン

ドクン

ドクン


 彼女の名をしゃがれた声で呼んだ

 彼女は応えなかった

 まるで自分がこの部屋に現れたのを知らない様子で泣き続けている


ドクン

ドクン

ドクン

ドクン


 一歩一歩その白い四角いベッドに歩み寄った

 そこに寝かされていたのは…



 いっそ自分の心臓が止まればいいと思った


 神崎川は唇を血が滲むほど噛みしめる。

 現実を認めるのが怖い。それでもその眼の前に忽然と現れた運命は、逃げる事を許さなかった。

 神崎川は一度強く拳を握り締めると、ゆっくりとそれを解いて手を伸ばした。

 そっとそのもう何の生気も感じさせない小さな小さな手を握ってみた。


初めて

ようやく

やっと

握る事のできた

自分の子の手が

こんなに冷たいなんて


 悔恨・懺悔・自責。言葉では埋め尽くせない感情が、巨大な深い暗闇に自分を突き落す。

 神崎川は膝をつくとやりきれない思いに、固く目を閉じた。やり場のない怒りと哀しみが薄暗い部屋に充満し、胸に穿かれた大きな穴は急速に広がり自分の存在さえも危うくしそうだ。

そう、何がどれで、どれが何なのかもわからない。それでも……それでも……。

 神崎川は手の中の、もう永遠に動かないこの世でたった一人の、息子の小さな小さな手を握る力を緩める事はできなかった。



 その日から、紅はほとんど口をきかなくなった。

 警察の取り調べには応じていたが、どこかぼんやりとしていて、まるで彼女の魂まで死んでしまったかのようだ。

 神崎川は彼女がこもっている彩の寝室だった部屋のドアをみつめ、自分たちの家はカタコンベのようだと思った。

 彼女いわく、夢を見たというのだ。自分が交通事故にあって運ばれた。だから彩を置いて飛び出してしまった。アラームが切れていたのには気がつかなかった。

 神崎川には信じられない説明だった。確かに、状況的には説明しうる。でも、寝ぼけて息子を置いて外出してしまうだろうか? この、必死で彩を守り抜こうとした紅が?

 しかし、警察はそんな事情説明で簡単に調べを終えてしまった。

 紅が病院に飛び出していくのを目撃した人や、実際にそのような事を訴えて病院に駆け込んできた事も確認されている。

 部屋に他に人間がいた形跡はなく、医師の診断でも他の外傷らしきものは見当たらなかった。

 結局、彩は事故死という事になった。

 無茶苦茶だ。そう思ったが、警察の様子を見ていると外国人留学生に対する差別意識があからさまだった。捜査の端々で、自国の人間じゃない者の事件で時間を割くのは勿体ない。そんな態度が感じられた。

 神崎川は家に帰って来てから何度もそうした様に、ドアの前に立ちそっと声をかけた。

「なぁ何か、食わないか? 水だけじゃ、お前ももたないだろう?」

 家に帰って来てからのこの二日間、彼女は何の食べ物も口にしようとしなかった。唯一口にする水も、まるで義務か自分への罰であるかの様な感じで少量ずつ含ませるだけだ。

「いらないわ」

 部屋に入って、引きずり出すこともできるのだろう。

 ここに連れてきて、無理やりにでも食事をあてがう事も不可能ではない。でも、今の神崎川にはこのドアの向こう側に入る事は出来なかった。

 このドアの向こうは、自分が顧みなかった自分の子どもと妻だけの空間だ。何にもしてこなかった、いや、むしろろくな愛し方もしないで傷つけてばかりいた自分が、その空間に入る事は許されない気がした。

 神崎川は自分の足元を睨み据える。こんな時でさえも、自分は彼女に何一つしてやれないのか。そんな自分への失望感と怒りが渦巻くが、そう思ったところで結局何にもできない。

 溜息をついて、またさっきと同じ姿勢にリビングのソファに戻ろうとした時だった。

 静かで冷え切った空間が前触れもなく引き裂かれた。

 電話だ。

 神崎川はやや緩慢な動きで顔を上げると、ゆっくりとその受話器をあげ耳にあてた。

「もしもし?」

 電話の声は日本語で、しかも知っている声だ。

 こんな時に? 神崎川は顔をしかめ、その女の声にまるで野犬が唸るような声で答えた。

「何の用だ?」

 まだ日本の会社には烏丸を通して、上の連中にしか知らせていない。

 ましてやこの女、緋奈は部署も違う。しかも、もう日本にいるはずの彼女がこの事を知るはずはない。

 時計を見ると、早朝だった。時間の感覚がなくなっている。

 神崎川は深い溜息をつくと女の言葉を待った。

「あぁ、翠なのね? どう? 気分は?」

 妙に上ずった、変な声だ。浮かれているようで緊張しているその声色は、酔っているのかそれともドラッグでもしているんじゃないのか? そう思わせるものだった。

「特に用がないなら切るぞ。そっちは何時か知らないが、こっちは早朝だ」

「私のいる場所もよ」

「?」

 言いたいことがわからなかった。

 神崎川が黙っていると、受話器の向こうの女はやや尖った笑い声を響かせる。

「ね、訊いてるの。気分はどう? あんなに嫌がってた子どもが死んで、スッキリした?」

「お前……どうして?」

 訊きながらも、一つの予測が胸に黒い雲を広げ始めていた。

 女はまた笑う。その口紅の塗られた口で笑っているのが想像でき、不快感に胸が悪くなった。

「今、あなたの家の近くの公園にいるわ」

「お前っ?」

「待ってるから」

 そこで一方的に電話は切られた。虚しい信号音だけが響き、神崎川は呆然とする。

 緋奈がこれに関わっている? 確信のない予感は、急速にその形をハッキリとした濃く暗い雲に形を変えようとしていた。

 電話を切ってから、すぐに飛びだそうとしたのをやめた。これが何かの駆け引きなら、これ以上に腹立たしく馬鹿馬鹿しい事はない。

 神崎川は再び紅のいる部屋の前に立ち、ドアをノックした。

「紅。聞きたいことがある」

 返事はない。一瞬、彼女は中にいないのではないかと思わせるほどの静けさに、神崎川は一度小さな溜息をつき言葉を続けた。

「ここに、緋奈、今津緋奈は来たのか?」

 やはりしばらくは何の音もたたなかった。しかし、それは否定ではなく肯定を意味するものなのだと察した時、暗雲は更なる広がりを見せ、世界を覆い始める。その圧迫感は尋常ではなく、息苦しさに思わず声を荒げてしまう。

「紅!」

 そして、その重圧に耐えきれずにドアを開けようとした時、内側からそれは開かれた。

 色もなく、生気もない彼女は亡霊の様な顔でそこに立ち、神崎川を見上げていた。

「紅」

 紅は何度か小さな呼吸を唇から切れ切れに零すと、僅かに頷いた。

 その意味を悟った瞬間、肌の内側から一気に鳥肌が立ち、体内に熱くどす黒いものが巡り始める。

「お前、それって……」

 紅は苦しそうに目を伏せると、隙間風の様な声で

「……彼女を責める気はありません」

 と呟くように口にした。

 痩せた、というよりやつれ果て、水気も生気もまるでないその体を、紅は自身で抱きしめるように腕をまわす。

「どうして? あいつが、あいつがなんかしたんだろ? 彩を、彩をあんな……」

 紅は眉を寄せると、青白い顔を一層白くした。固く結ばれた唇にだけ僅かに朱色が入り、細かく震えていた。どうしようもなく怒っているのだと感じた。

 初めて見る紅の怒りは、それでも他人には向けられてはおらず、自身に回された腕は自責の深さをうかがわせるほどキツクキツク握りしめられている。

「何をどうしても、もうあの子は帰ってこない」

 震える声は、まだ溢れ出る涙のせいだ。

「あの子の命が、憎しみや復讐に使われるのは……もう、たくさん」

 そして身を縛りあげていた腕を解くと、顔を覆って膝をついた。

「あの子はこんな事の為に生まれてきたんじゃない。あの子は……あの子は……」

「紅」

 悲痛。そんな言葉では言い表せないほどの、怒りと哀しみそして苦しみ。咽び泣く声はそれを聞く者の身も引きちぎりそうなほどだった。

 神崎川は言いようもない暗く重い気持ちで膝をつくと、その震える体を抱きしめた。

 そうする資格が自分にはないのも知っている。それでも、そうするより他にどうしていいのかわからなかった。謝ることすら、白々しく思えて。

 神崎川はしばらくの間そうしていたが、外に雨音が聞こえ始めた頃、顔を上げた。

 以前よりずっとずっと細く、小さくなった彼女の体を解放すると、その冷たく濡れた頬を自分の大きな掌で拭う。

 それでも俯き、自分を見ない瞳。太く鋭いナイフが心臓を突き刺すが、自業自得なのだと思った。紅はきっと、今、これより辛い思いをしている。

 そこに電話が鳴った。

 もう、とらなくてもそれが誰なのかはわかった。

 神崎川はそれを殺意を持って睨みつけると、ゆっくりと立ち上がった。

「話を……つけてくる」

 そして、一度だけ蹲り動かない紅をやるせない気持ちで見つめると、神崎川は紅を残し、本降りになった光のない世界へと飛び出して行った。

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