途切れる 2
カレンダーの日付がその日が明日だと知らせていた。
紅はその時間の絶え間のない流れに複雑な思いで溜息をつく。
あの夜、でていったきりの彼の最後の記憶をまた再生した。心の中で繰り返すその映像は、彼を傷つけてしまったんじゃないかという後悔と、彼はそれからどうしているのだろうとういう不安ばかりを募らせた。
職場からの連絡はないから、そのまま遠征に参加したのだろうとは考えられたが、確認するのも躊躇われ、紅は電話もできなかった。
あの夜、自分の嘘を暴いてしまった。
自分が彼の才能について来たのではない、彼自身について来たのだと、思わず口にしてしまった。彼の才能こそ彼が信じる唯一のものだって知っていたのに。
「翠」
ここにはいない彼の名を口にする。
予定では明日に帰ってくることになっているが、いつもスケジュールの通りに行くわけじゃないし、ここに帰って来てくれるのかも自信がなかった。
また再生される、出て行った時の彼の帰る家を無くした少年のような顔が、引きちぎりそうなほど胸をキツく締め付けた。
その時だった。インターホンが鳴る。その音に紅は顔をあげて時計を確認した。もう夜の八時だ。一体?
日本よりも物騒なこの国だ、紅は緊張の面持ちで立ち上がると玄関の方を窺った。
途端、ドアが悲鳴を上げる。
「奥さん! いるんでしょ? 開けてください!」
日本語。それに聞いた事のある声。
「大変なんです! 奥さん!」
自分を『奥さん』と呼ぶ人間なんて限られている。その若い女の声は半ば狂ったようにドアを叩いていた。
「あの、どちら様?」
鍵を開けずに訊ねると
「今津です。ご主人が、ご主人が今、そこで事故に!」
「え?」
紅は反射的に鍵を開けていた。
途端に勢いよく扉が開き、顔を真っ青にした女性が飛び込んできた。
「あ、あなた」
紅は目を丸める。確か、ここでの夫の愛人だ。
緋奈は紅の顔を見るなり掴みかかると
「ご主人が交通事故に遭われたんです」
そう捲し立てた。あまりの迫力に紅は気圧されながら取り合えす彼女を家の中に入れると、ドアを閉めた。
青ざめた彼女は自分の体の震えを抑えるかのように両腕を体に巻きつけ、一方の手で乱れた髪を神経質そうにかき上げている。
「どうしたんですか? 帰りは明日のはず」
紅が振り向くと、緋奈は爪を噛みながら
「嘘です。今日だったんです。たぶん、私の家に泊まるつもりで奥さんには違う日付を……あぁ、それよりどうしよ」
かなり動揺しているようで、視線をせわしなく動かせる。
紅は重い苦しみを感じながらも不快を顔に出さずに彼女を見つめた。さっき耳に飛び込んできた単語が自分にも動揺を誘うが、不安を奥の方に押しやる。
「何が、あったんですか?」
「空港を二人で出て、私の泊まるホテルに車で向かってたんです。彼、途中……ドラッグストアに寄りたいからって、車を止めて道を挟んだ向こうに渡ってる時に」
そこまで言うと緋奈は顔を覆って嗚咽した。
そこで、彼が交通事故に? 鼓動が恐怖に早くなっていく。
「彼は救急車で運ばれました。でも、酷い状態で……」
そして緋奈は涙にぐちゃぐちゃになった顔を上げ、紅に詰め寄った。
「ごめんなさい。奥さん。どうか、彼の傍に行ってあげてください」
「今津さ……」
「結局、最期は奥さんじゃないといけないんだと思うんです」
彼女の一言一言がまともな思考を奪っていった。
交通事故
酷い状態
救急車
最期
途端にゾクリと冷たいものが駆け抜けた。フラッシュバックとなって、両親を失った時の、あの時の事が鮮明に蘇る。
自分は、また失うのか? また、かけがえのない家族をこんな形で?
「奥さん!」
緋奈の怒声にハッとすると、紅は彼女の目を見つめた
「病院は」
「2ブロック先の総合病院です」
それなら彩が世話になっている病院だ。
「わかったわ」
彼を失いたくない。
怖い…
怖い…
怖い…!!
紅は玄関にかけていたコートを手に取りかけて、ハタと手を止めた。彩がいる。あの子を一人にはできない。
「奥さん。大丈夫です」
いきなりの言葉にすぐには理解できず、紅は数度瞬きをして緋奈を見つめた。
緋奈は涙を拭うと紅をまっすぐに見る。
「お子さんは私が」
「でも」
「痰の吸引ですよね? それくらいなら私、長い間祖母の介護をしてましたからできます。それより、早く!」
緋奈は思いっきり紅の背中を押した。
「一刻の猶予もないんです! 早く行ってあげてください! 奥さんへの謝罪は私が後でいくらでもしますから! せめて、今は彼の為に走ってください!」
必至な緋奈の様子に紅は躊躇いかけた手を、再び動かした。
コートを羽織り、バッグをひっつかむ。
彩の事は心配だが……
「彼、奥さんを呼んでたんです! うわごとのように、何度も、何度も」
彼が呼んでいる。今わの際に、自分を。
「ごめんなさい。お願いします」
紅はそう言うと、玄関を飛び出した。
もう、誰も失いたくない。恐怖心が前へ前へと急きたてる。ベッドに横たわる彼の動かない体を想像しかける頭を振ると、紅は宵闇の街を疾走した。
紅の出て行った玄関。緋奈は開けっ放しになっているドアを、カバンから取り出したハンカチでドアノブを包み、慎重に閉めると息をついた。
先ほどの取り乱した様子とは、まるで真逆の冷静さを通り越し氷の様な顔でそのドアをしばらく見つめる。
「単純ね」
それは自分の嘘にまんまと乗せられたあの女への侮蔑の言葉だった。
緋奈はもしかしたら彼女が単純なのではなく、自分の演技が素晴らしかったのではないかと思いなおし、ほくそ笑む。
この際どちらだって構わない。とにもかくにも、あの女は出て行った。思惑通りに。
緋奈は動く者の気配のしない家の中を、猫の様な足取りで進む。
アラーム音が聞こえた。瞬間、その顔に残酷な笑みが浮かびあがる。
その音をたどった先に、標的はいた。
小さな体に管を通し、だらんと垂れた手足にだらしなく弛緩した顔。醜いと感じ、思わず緋奈は顔をしかめる。
昔から、こういった類の人間を見るのは苦手だ。気味が悪いと思う。そう言うと、人は皆、偽善の仮面を被り、さも道徳者にでもなったかのような顔で「そんな事は言ってはいけない」と諭すが、絶対、それは建前だと思う。なら、自分がこんな、自分では何一つ出来ない醜い肉の塊になりたいか? と聞いたら、ほぼ全員首を横に振るはずだ。
そんな存在に、自分が負ける?
「ありえないわ」
緋奈は呟くと、なおも鳴り続けるアラームの音を切った。
目の前の小さな体に開いた穴から、汚い色の粘り気のあるものがゴボゴボと噴いている。
「おぞましい」
緋奈ははき捨てるように言うと、汚いものでも見るような眼でそれをしばらく見つめた。
それはしばらくもがくようにゴソゴソと微かに動いているが、肌の色が徐々に変わってきていた。
その変化に緋奈は満足げな笑みを口に貼り付けると、誰に向けたものなのか小さく呟いた。
「私は知らない。ここには来ていないんだもの」
静寂にはシーツを擦る微かな音と、あの耳障りな汚らしい粘液の噴く音だけがしていた。
「バイバイ」
死刑宣告の様なその言葉を口にした緋奈は妙な高揚感を覚えていた。
これで、彼を縛るものの一つがなくなり、あの自分の見下し自分をこんな惨めな立場に追いやった女に絶望を与えられる。ゾクゾクした。自分の前に打ちひしがれ、憤り、最後に屈伏する人間を眺める時の快感を思い出す。
「ふ、ふふっ」
緋奈は思わずその唇から笑みをこぼすと、その助けを声なき声で叫ぶ小さな命を身捨てるように背を向けた。
病院から連絡を受けた時、神崎川はすぐには事が理解できなかった。
夜中だったせいもある。
明日渡すつもりのプレゼントをちゃんと鞄につめたのを確認し、宿泊先のホテルで横になった時に電話が鳴った。フロントからつながれた電話は病院からで、早口な英語でそれを伝える人間の言葉が、今ははっきり理解できるのを皮肉に感じた。
電話を切って、一人きり真夜中の闇に放り出された神崎川は、今のこの電話が夢だったのではないかとすら思った。
− 彩の危篤
考えも及ばなかった事態にただただ呆然となる。
原因は紅の不在と、機械のアラームがオフになっていた事だと、電話の向こうの人間は話していた。
紅が息子を一人にする? 考えられない。一体、何があったんだ?
混乱の波が押し寄せ、次いで理不尽な運命に腹が立った。
そして夜が明けるころ、こんな時にもすぐに駆けつける事さえできない自分の無力さに失望していた。