途切れる 1
二か月のロケハンは結局ほぼスケジュール通りに消化していた。
現地ガイドが良かったり、運良くイメージの場所に出会えたり、ラッキーが重なったおかげもあった。
「王子さん、ちょっとがっかりしてたよ」
遠征の最終日。烏丸の声に、土産物を選んでいた神崎川は振り返った。
「いや、企画そのものは保留なんですよ。自分としても映画一本任されるのはありがたい話ですし。でも、正直、もう少し力をつけたいというか」
あの空が開けた日から、神崎川の調子はすこぶる良かった。
また、ここの学校で作ったデモがアメリカの映画会社の目にとまり、契約を申し出てきた。研修生という肩書ではあったが、大手の会社から声がかかるのは光栄なことには変わりなく、大きなチャンスでもあった。
なので、王子と進めかけていた映画は保留という形をとり、今のこの映画が出来次第、その映画会社に籍を置くことになっていた。
「まぁ、今、波にのってるもんな。そう言うのは大切だよ」
「はい」
頷く神崎川の顔に以前の気負いは全くない。自然体でいて、いかんなく持っているものを発揮している。そんな感じだった。
「それは?」
烏丸は神崎川が手に持っている物に目を向けた。神崎川の大きな手の中にある柔らかそうな物体は、アメリカ特有のファンキーな色遣いとデザインで、一見何なのかわからなかったが、どうやら子供向けのおもちゃらしい。
神崎川ははにかんで手元のそのおもちゃに目をやると。
「明日帰るので、息子に、と思いまして。正直、どんなのがいいのかわからないんですが」
腕に一度も抱いたことのない自分の子ども。
紅が命をかけて産み、全てをかけて守っていてくれている命。
以前はあんなに怖かったのに、今は会いたくて抱きしめたくて仕方ない。これが愛おしいという感情なのだろうか? 自分は誰にも抱きしめられた記憶はない。父と息子というフレーズに、一つも良い言葉もイメージも浮かばない。それでも紅を思う時、それらは皆、大きく優しい何かに包まれ許されたような気持ちになる。そして、自然にこの感情が溢れてくるのだ。
「なんでもいいんだよ。お前が息子の事を思って選ぶものだったら。で、さっき覗いてた宝石店では何買ったんだ?」
「嫌だな烏丸さん、見てたんですか?」
「探してたら、見かけたんだ。あんまり真剣だから声がかけられなかった」
烏丸は人聞きの悪い、とでも言わんばかりん顔をして、口を冗談半分に曲げた。
神崎川はさっきよりさらに照れくさそうな顔をして、腕に下げた紙袋に目をやった。
「妻に……。実は、結婚指輪も買ってなかったんで」
「え? そうなのか?」
それには烏丸も少々あきれた風に神崎川を見つめた。
そう、自分は何にもしてきていない。自分は彼女の優しさを食い散らかしてばかりで、彼女に何にもしてこなかった。ただ、傷つけ、泣かせ、そういう愛し方しか知らなかった。
まだ間に合うだろうか?
まだやり直せるだろうか?
いつか聞いた三宮の言葉が蘇る
『取り返しがつかなくなってからでは遅いんだよ』
まだ取り返せるだろうか?
神崎川は小さく息をついた。
「じゃ、プロポーズのし直しってところか?」
烏丸の声に我に帰り、神崎川はふっと力を抜いて微笑んだ。そうだ、それがいいかもしれない。スタートを切りなおす、その為に。
「そうですね」
神崎川は頷くと、明日会う自分の家族を思って胸がいっぱいになり、この息苦しさが幸せというのだと自分に刻み込んだ。
この遠征中、地獄だった。
緋奈は何かを烏丸と話しこむ神崎川を、憎い、そんな言葉では片づけられない感情で睨みつけていた。
もともと現地スタッフとの通訳の為にいたから、彼と直接仕事をすることは少なかったが、彼が避けているのはあからさまだった。
目が合えば逸らすか、面倒なものを見るような顔になる。声をかければ無視か「邪魔だ」の一言。それを他の女性スタッフにみられた時に浴びた失笑は一生忘れないだろう。
自分が無下にされる、見下される。これまで想像したこともない屈辱だ。それに、自分を切ってからの神崎川の快進撃も気に食わなかった。まるで、踏み台にでもされた気分だ。
「なによ」
このロケハンが終われば、神崎川は留学先がある街へ、自分を含めた日本スタッフは帰国となる。
このままで終わらせるなんて
「許せるわけないでしょ」
緋奈は心の中で十分に熟成した、どす黒く粘着質で、触れたものをすべて焼き尽くすような感情を噛みしめるかのように唇を噛むと、手の中の航空券を握りしめた。
「絶対に、私のモノにしてやる。絶対に忘れさせなんかしない」
呻き声ににたその声は、愛情というより執着心だった。手に入りかけたものは、離れた途端に成功への道を歩きだした。これがしょうもない男ならココまで思わなかったかもしれない。しかし、今や神崎川の未来は明るく見え、自信にあふれるその姿は以前以上に魅力的だ。それが、あの幽霊の様な女と気味の悪い子どものもとに戻る? この自分を捨てて?
「ありえない。あっていいはずない」
何度も考えた出口のない嫉妬の迷路。
遠征中ずっとその中を彷徨っていた憎しみは今や、対象を神崎川にだけとするのでは満たされないほどに膨れ上がっていた。醜いまでに肥大したそれは行き場を失い、川から氾濫した水がみるみる溢れだすように彼を自分から奪う存在にまでその範囲を広める。そしてそれは本流を忘れさせ、さらなる勢いで何もかもを飲み込み破壊しようとしていた。
自制のきかなくなった感情は冷静さを強引に奪い取り、有無も言わせず緋菜を突き動かす。
そして、そんな彼女の眼にはもう、一つの結論しか見えなくなっていた。
− 邪魔モノヲ消セバイイ
二人がいなくなれば、彼は自分の方が必要と分かり、戻ってくるはずだ。
緋菜の瞳が狂気の色を宿す。
蛇行する激流は今や理性の及ばないところまで来ていた。
ただ始末するのでは面白くない。神崎川を奪い返すだけでは、この屈辱をうけた自分の心は満たされない。できる限りの絶望を与えないと、気がすまない。
冷酷なエゴは静かにそう囁く。
神崎川の背中が傾く
その手に見えたのは
子どものおもちゃ
刹那、猛り狂う激流のの行く先がハッキリ決まった。緋奈の唇が吊りあがる。
「き〜まった」
まるで悪戯を思いついた子どもの様な、無邪気さでそう呟くと、ゆっくりと踵を返した。そして静かにたった一人、国内線の空港へと向かったのだった。