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Apollo  作者: ゆいまる
106/121

終幕の始まり 8


 この寒さは、春が来る前の痛みの様なもののように感じた。

 ちょうど、夜明け前が一番暗く、成長の前に壁が立ちはだかるようなものだ。

 蒼汰はそんな事を感じながら、もう杖も要らなくなった足で、青とキャンバス内を歩いていた。

 雪雲が頭上を低く覆い、今にも降り出しそうだ。

「学生課の後に、教授周りをしようと思ってんねんけど」

 息を吐くたびに白く立ち昇る息。この呼吸一つも見逃さない冷たい空気は、微塵の誤魔化しも許そうとしていないかのようだ。

 青は「俺も付き合うよ」と短く答える。

 桃を見送り、青が戻ってきたあの日から、青は少し雰囲気を変えていた。

 それは旅立ちの前の桃のように何かを決めた顔のように見えるのに、どこか控え目というか、迷いはないが、何かを諦めた。そんな雰囲気だ。

 それに、藍の様子も少しおかしかった。

 それまでは結構うまくいっていたのになぁと、蒼汰は苦笑以上の苦みを感じてうまく笑えず、前髪をかき回した。

 連絡は毎日取るし、会うのだって一日と空けはしない。でも、藍の気持ちは以前の様なすぐ傍にいるって言う感触がないのだ。

 実家で何かあったのか、それとも自分が何かしでかしてしまったのか、理由はわからないが、クリスマスの時の様な手のつなぎ方はしなくなった。

 ふと、視線を下に展開させる。もう、自分の足で歩けるようになった。車いすも、松葉杖も、誰の手も必要ない。それに……予感がしていた。

 木枯らしが吹き荒び、校舎に続く桜並木の葉のない枝を揺らした。

 身を切るような冷たさに、蒼汰は思わず巻いているマフラーにうずまるかのように、肩を上げ顔を隠す。

 しかし、隣を行く青はまるでこの寒さを感じていないかのような顔で進んでいた。

 青と藍。もしかしたら、この二人になにかあったのか?

 何の証拠もない。あくまで予感レベルだ。ただ、青が自分の気持ちを知っておいて、しかも桃と別れたばかりで何かをするようには全く思えず、この予感は、どちらかというと藍にちょっと距離をとられたと感じる自分の、八当たりの様なものなんじゃないかとも思った。

 何か起こった時に、すぐに原因を探りたがる人間と、解決策を模索する人間がいる。後者の方が建設的で好きだが、今に限ってはどうやら自分は前者らしい。

「信じたものは救われる」

 蒼汰はそう呟くと、弱気になりかける気持ちを追いやろうと、肺の中にたまった臆病な言い訳たちを、思いっきり吐き出した。

 今日、藍に告白するつもりなのだ。もう、呼び出してもいる。今更、悩んでも仕方ない。

 不思議そうに振り返る青に、蒼汰は笑って見せると「いよいよ卒業やな」とだけ呟いて見せた。

「単位取れて良かったわぁ」

 学生課での手続きを終え、ようやくほっとした気持ちになれ息をつく。

 この四年、ほとんど映画に費やしていたから、単位もなにも全てがギリギリだった。それでも、卒業にこぎつけたのは目をかけてくれた教授たちと、隣にいる青のおかげだろう。

 青は「よかったな」とでも言わんばかりに小さく口元だけで笑みを作ると、教授達の部屋へと向かう廊下を行く。

「就職は?」

 青の短い問に、蒼汰はそわそわする気持ちを抑えながら答えた。

「ん。映画会社の王子さんって覚えてる? 彼が口きいてくれて、なんとかなりそうや。春からは京都になる」

「そうか」

 青の寂しそうな顔。自分の事をこんなに考えてくれる彼の気持ちを量るなんて、どうかしてるのかもしれない。でも、もし『そう』なら、自分はどうするだろう。

 昔、青はずっと藍が好きだった。藍が自分を見ている間も、ずっとそんな彼女を青は見ていた。桃と付き合いだしてからも、微妙な空気の時があった。桃と別れた今、もし、もしも彼に何かの気持ちの欠片がまだあるのなら……。あったら?

 ひんやりとした廊下を肩を並べて歩きながら唇を軽く噛む。それでも、きっと自分の気持ちは変えられない。

「それでな」

 蒼汰は手すりを掴み、ゆっくり階段を上がりながら前を見た。自分たちの間の、僅かな隙間を見つけて入り込む寒さは、自分達に誤魔化しの隙間さえも与えない。

 お互い、どんな気持ちにしろ青には隠し事はできない。

 蒼汰は白い息を吐きながら、前を見据えると決意を口にした。

「藍ちゃんに、一緒に来ぉへんか云うてみるつもりや」

 何の返事もない。ただただこの雪雲のように、判然としない重い空気。不安がよぎる。青はやっぱり……?

 隣に並んでいた影が無くなっている。

「青?」

 蒼汰は数段あがってから眉を寄せて、立ち止まっている青を振り返った。

 青は蒼汰を見上げると、眩しそうに目を細めていた。

「雪……」

 青の唇からこぼれ落ちた言葉。

「え?」

 蒼汰はその言葉に思わず前方を振り仰ぐ。

 踊り場に開けた窓の外に、真っ白な空から白い粉雪が舞いおりていた。

「蒼汰」

 青の声がした。 蒼汰はその白い冬の結晶から目を離し、彼をもう一度振り返った。

 青はもう、雪を見てはいなかった。真っ直ぐに自分を見上げ、穏やかに頬笑みをその眼鏡の奥に湛えていた。

「うまく行くといいな」

 言葉以上の何かを感じた。確かなものだったわけじゃない。ただ、もし藍に告白するのなら、いい加減じゃ駄目だと思った。この親友にかけて。

 蒼汰はじっと青を見つめると、まるでそれを誓うかのように「おう」と短く答えると、再び窓の外を仰いだ。

 世界が純白に染まり始めていた。


 昨夜、蒼汰に会っていた時に今日の約束をした。

 それまで楽しく話していた彼の顔が真剣なものに変わった時に、藍は何の事なのか察した。

 藍は約束の場所に立ちながら、雪が振っているのに傘を閉じ雪雲を見上げてみた。粉雪が天から生まれ迫りくるように舞い降りる。どこから生まれてくるのか見えず、掌に取ると心に染み込むように溶けるこの雪は、まるで恋心のようだ。

 どこから生まれたのかわからない。手にしようと思えばその形を無くし、ただただ胸の深い部分に染み込んでくる。


『好きだよ』


 青のあの日の言葉。それが見えない鎖になって胸を締め付けていた。

 今でも、蒼汰と一緒にいると楽しい。落ち着く。穏やかになれて笑顔が生まれる。それはこの四年ずっと望んでいたものであり、諦められなかった想いだ。なのに、それが手に届きそうになった今、気持ちはその手前で立ち止まってしまっている。

「どうして」

 嫌だった。こんな気持ち。桃のように、凛とした、澄んだ青空のような心になりたかった。

だけど、自分の心は突き抜けることのない、まるで頭上に広がる重い重い灰色の雪雲。そう、この雪雲のようだ。

 白い迷いがその空に立ち昇っていった。

「藍ちゃん」

 蒼汰の声がして、初めて彼がそこにいたのに気がついた。

 彼もまた、傘もささずにこちらを見つめて立っている。

 真っ白な世界をそこだけ切り取ったような黒いコート。

「蒼汰くん」

 挨拶や無駄な話は、この白い世界には似つかわしくないように感じた。

 舞い散る粉雪は、まるであの春の日の桜吹雪だ。自分の想いと一緒に散った、あの……。

「藍ちゃん。俺、もう杖がいらんねん」

「うん」

「歩けるようになったんは、藍ちゃんのおかげや。ほんまにありがとう」

 優しい声に、軋んだ胸が悲鳴を上げそうになる。

 藍は声にならずにただ黙った。

「もう、同じ目線の高さで一緒に歩けると思う。藍ちゃん」

「うん」

「傍におってほしい」

 藍は息をそっと飲み、何かを閉じ込めるように目を閉じた。

 粉雪は冷えた体に染み込んでいく。

「俺、春から京都で働くねん。京都について来てほしい」

「蒼汰くん」

 藍は俯いた。嬉しいはずなのに、心の半分は彼の言葉に喜びの声を上げているのに、なにかがもう半分を引きとめている。

「私……」

 答えは出ているはずなのに、それが口にできない。どうして……。

「ええよ。すぐに答えくれんくても。いきなり一緒に京都とか言われても、返事しにくいやんな」

 肩に積もった雪を溶かすような大きな手が添えられた。その重みがまるで自分の不甲斐ない心すらも汲み取る、その手の大きさを教えているようで、藍は言葉を無くした。

「考えてくれるか?」

 大好きな優しい声。自分に向けられるのを苦しいほど望んでいた瞳。ずっと握りたかった手。皆、目の前にあるのに、何かが引きとめ、手を伸ばせない。

「うん」

 ようやくそれだけ答えると、蒼汰は

「おおきに」

 そう彼の中の温かさを全てかき集めたような言葉を残し「ほなな」とゆっくり背をむけた。

降りしきる粉雪は勢いを増していく。

 藍はそこからまだ動けずにいた。

 粉雪は静かに音もなく綿雪に姿を変わり始めていた。


 雪の中を歩いた。

 道はその白に埋め付くされ、姿を消そうとしている。いつもの風景が異国のそれのように変わり、一瞬帰り道までわからなくなりそうだった。

 一体自分は本当に考えているのか、それとも考えたふりをしてただ堂々巡りに彷徨う思考を持て余しているのか。

 雪雲は暗くなり、家に着く頃には外は真っ暗だった。冷え切った体を湯船に沈めても、手先の感覚が戻った気がしない。

 答えが何にも見えなかった。でも……。


 気がついたら、再び着替え青の部屋の前に立っていた。

 外の雪をかき乱す北風が、自分のどうしようもない弱くてずるい気持ちを責めている。こんな日に青に会うなんて、間違っているのかもしれない。答えを出すのに青を頼るのは違うのかもしれない。でも、あの日のあの言葉がどうしても耳鳴りのように離れてくれない。

 インターホンを押すのが躊躇われ、藍は氷の様な手をドアに軽く当てた。

 出てこなければ帰ろう。そう思った時

「どちら様ですか?」

 胸が痛んだ。青の声だ。どうしよう、どうしよう。返事を躊躇ってしまう。でも今、会わないとそれこそこの白い暗闇に道を見失ってしまう。

「青くん。私……」

 ゆっくりと扉が開かれた。

 青は眉をよせ、この夜中の訪問者を不思議そうに見つめていた。


 寒さの中の避難所のような温かな部屋は、幾分、藍をホッとさせた。コートを脱いで座った膝にたたんで置く。昔よく聞いたバイオリンの曲がコンポから流れ、温かな空気を細やかに振動させていた。

「この曲」

「ん、暇だったから。知ってる?」

 俺は藍の前に温かな紅茶を入れたカップを置くと、向かいに座った。

 缶ビールに口をつけながらCDケースを差し出す。

 藍は目を細めてそれを受け取った。

「えぇ。高校の頃によく聞いてた曲だわ。そう、皆と出会う前」

 そう皆と出会う前……とんでもなく昔な感じがした。なのに、入学式の前に青と出会ったあの河原の事は昨日の事の様に鮮明に思い出せる。妙な感じだ。

「あのね」

 錆びついて動かなかったはずの歯車が、ゆっくりと動く。

 何かを伝えたい、伝えないといけない。でも、それは言葉にならなくて……。

「あのね」

 何から話していいのかわからなくなる。桃の事、蒼汰の事がぐるぐる頭の中を駆け巡って、全く考えはまとまろうとはしなかった。

 藍は無意識にCDケースを弄びながら、小さな声を溜息のように吐きだした。

 まずは現状を伝えよう。そう声がバイオリンの調べの中震える。

「蒼汰くんに、一緒に京都に行こうって言われたの」

 青の表情は変わらない。

 また、胸が軋む。

「それって」

 青はどう思う? そう聞きたいけど、それはあまりにも狡猾で卑怯な問いかけの様な気がした。だから、それ以上言葉を続けられずに、藍は俯いて押し黙った。

「そういう意味だよ。……おめでとう」

 優しく偽りのない声色。それは冷酷なまでの鮮明さを伴っていた。

 青は自分と蒼汰が結ばれるのを望んでいる? 藍は顔を上げ、青を見つめた。確かに、蒼汰の事はずっと好きだったし、今だって好きだっていてもいいと思う。けど、あの日の告白から、自分の気持ちはこの部屋で立ち止まったままで……。

「でもね、私」

 そう伝えようとするのを、青は首を横に振って拒んだ。そして穏やかに微笑む。

 どうしようもない壁を感じ、涙が喉にせりあがって来た。青はそんな様子に困ったように眼鏡を触ると

「この間の事?」

 と、この雰囲気に似つかわしくないほどの明るく軽い口調で尋ねた。その痛いほどの軽さにまた苦しみを感じ、藍は口元を押さえると頷く。青はそれに目を細めると肩をすくめてた。

「気にしなくていいよ」

 どうしてそんな簡単に言うの?

「でも、私……」

 私には簡単な事じゃなかったよ?

 私にとって青くんは…。

「あいつが好きなんだろ?」

 藍の思考と湧き上がる感情を、その言葉は切り捨てた。

 自分で認識するのとまるで違う青からの言葉に、何も言えなくなる。

「やっと、気持が通じたんだろ? 俺も、嬉しいよ」

 確認? いや再認識させる言葉。それは悲しいほどの現実。

「青くん」

 藍はまつ毛にたくさんの涙をためて、青を見つめた。

「俺は大丈夫。本当に、良かったな」

 そういって微笑む顔は、友達の境界線を越えさせない柔らかな拒絶だ。

 青の温かい手が頬に触れ、涙を拭う。まるで、この涙の存在まで否定しているように藍には感じた。

 青が頭を撫でた。

 そうだ青を、自分はきっと卒業しないといけないんだ。

「そう、だよね。わた、を好き……はずで。せ……と蒼汰……は親ゆ……。だから……」

『そうだよね、私は蒼汰くんを好きなはずで、青くんと蒼汰くんは親友だから…』

 皆のバランスを崩したくなんかないよね。

 今まで通り、仲よくしていたいよね。

「あいつをヨロシクな」

 青と蒼汰の間の友情の強さはよく知っている。そう、そう言う事なのだ。

「わかったわ」

 藍は頷くと、ようやく微笑んだ。

「ありがと。青くん」

 これで、気持ちに区切りがつけられた。

 藍は軋んでいた歯車が完全に止まったのを感じると、ようやく穏やかになった胸を透かすように深い息をついた。


 その帰り道、蒼汰に電話した。

「蒼汰くん? うん」

 後ろ髪が引かれないとは言えないけど。

「一緒に、京都に行っていいかな?」

 電話の向こうで喜びに跳ねる蒼汰の声がした。


『ずっと一緒におろうな』


 その声には何の迷いも嘘もない。ここに飛び込めばきっと幸せなのだと思った。

 藍は頷くと、零れる涙を悟られないように「うん」と答え、しばらく話してから電話を切った。

 真夜中の雪は静かに、静かに闇を染め、明日にはきっと世界の表情を変えるのだろう。

 これで、いいのだ。

 藍は空を仰いだ。星のない空は、自分の選択を肯定も否定もしてはくれなかった。

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