終幕の始まり 5
「久しぶりやな!元気やったか?」
「うん。あんまり、お見舞い来れへんくてごめんね」
蒼汰は久しぶりに顔を見せた桃に破顔しながらも、色々と気になりながら彼女を迎いいれた。
青と藍が帰った後、夕食の少し前の時間。桃がひょっこり顔を出した。
いつも青達が来るから一緒に来ればいいのに、一人で。そこが一つ気になったのと、雰囲気が随分少し前と違う気がした。それに今日は関西弁だ。
「いやいや。こっちこそ、毎日旦那さんをお借りしてます」
青とケンカでもしているのか? 心配になり、冗談でぼかした探りを入れてみるが、桃は苦笑しただけだった。
「明日、退院なんやって?」
ベッドサイドに腰掛ける桃は、持ってきたケーキを机の上に並べ、蒼汰に買ってきた温かいコーヒーを開けて渡した。以前よりこういう手際も良くなっていて、蒼汰は少し驚く。
そう、何かが違う。なんだろう? 考えながら桃と言葉を交わしていく。
「そうそう。ようやっとや。もう、松葉杖つけば自由はきくしな。でも、買い物とかは青と藍ちゃんがしばらくは手伝ってくれるって。ほんまに、申し訳ないなぁ」
「藍ちゃんも、青くんも、好きでしてるねんもん。遠慮なく甘えたらええやん? 特に、藍ちゃん。最近、めっちゃええ顔してるで?」
まるで桃と話しているんじゃないような錯覚に、蒼汰はじっと桃の瞳を覗き込む。やっぱり、何かある。
「何?」
蒼汰の視線に気がついて、困ったような顔をする桃に蒼汰は首をかしげる。
「なんかあるんか? 桃ちゃん、なんか雰囲気変わった感じがすんで」
「え? ほんま?」
何故か桃はぱっと顔を輝かせた。
どこが変わった様に見えるのか説明を求めるような眼に、蒼汰は困って前髪をかき回す。
「え〜と。なんていうか……しっかりした感じ? 『脱みんなの妹』っていうんかな」
「そう見える?」
本当は服装とか髪型とかの変化があるのかもしれないが、そこらへんは分からない。でも、桃は蒼汰のその言葉に満足げな笑顔を浮かべた。
確かにそうだ。これまでの彼女は青の後ろにくっついて、いつもその影から周りを窺っているような印象があった。でも、ここにいる彼女は独りでしっかり立っている一人の女性だ。関西弁も青の為に止めていたのに……。
「青と、なんかあったんか?」
蒼汰はそっと尋ねた。もしかして、今日、一人で来たのはそのためかもしれない。桃は蒼汰のそんな気遣いに、途端に以前と同じ頼りない顔になった。
手元のミルクティーの缶をいじりながら、他方の手が落ち着きなく髪を触り始める。
そして、そっと予想もつかない事を告げた。
「……あのね。年明けに、私、留学する事にしてん」
「えぇ?!」
留学? 寝耳に水の話だった。
桃は蒼汰のでかいリアクションを、恥ずかしそうに上目づかいで見ながら言葉を続ける。
「イギリスにね。とりあえずは語学のクラスからやけど。できれば向こうの大学に編入を考えてるん」
小さな声。でも、確かな筋を通した言葉。蒼汰はまじまじとまだ、高校生に見えなくもない友人の顔を眺めた。
このいつも青の後ろに隠れていた小さな女の子が、一人で世界に?
初めて出会った時、青と彼女が付き合い始めた時、それぞれ見た目を裏切る彼女の強さに驚かされてきたが、今回はそれらの比じゃなかった。
「そりゃ、また。なんで?」
「ん」
桃はそう言うと、一冊の本を取り出して見せた。
大きな洋書の絵本だ。
「三宮教授のの紹介で、夏休みに青くんと翻訳家さんの書庫整理のバイトをしたん。その翻訳家さん、女性なんやけど、その人の生き方っていうか生きる姿勢に刺激受けちゃって」
話しながら、小さな声に揺らぎが無くなってくる。
桃は絵本の表紙をさすりながら
「私もちゃんと自分で自分の進路考えんとあかんなって。その時に出会ったのがこの絵本やねん。知ってる?」
蒼汰はそういって差し出された絵本を受け取り数ページめくってみた。全編英語で、全く読める気はしなかったが、絵本だったから内容は大体推測できた。
「あぁ、これ、たぶん知ってるで」
「え? ほんま?」
「随分前やけど、映画になった奴や。たぶん製作総指揮はジョージ・ルーカスで、監督がジム・ヘンソン、主演はジェニファー・コネリーやったとおもうで」
桃は映画の事は知らなかったらしく、嬉しそうな顔をすると「帰りにレンタルショップ覗いてみる」といってから、再び話を戻した。
「じゃ、ストーリーは知ってるやんね? 私、これを辞書を引きながらすっごく時間かけて読んだん。でな……」
桃は本を蒼汰から返してもらうと、ギュッと胸の前でそれを抱きしめた。
「私も、冒険にでようかなって」
「一人で?」
「うん。一人で」
そういう桃の顔には、微かな不安は見え隠れしていたが、その決断に迷いはさほどなさそうに思えた。
蒼汰は「そうか」と大きな勇気を持った小さな友人を励ますつもりで頷くと
「がんばりや」
と大きく微笑んだ。
「うん」
「でも青とは、そうなると超遠距離やな」
青の名前が出た途端に、またあの頼りない少女に逆戻りする。
蒼汰はころころ変わる彼女の様子に、あぁまだ本当は思いきれないんだな、と察した。
そりゃそうだろう。ずっと片思いでようやく結ばれ、同棲までこぎつけた彼氏と別れる。そんなの簡単に割り切れるもんじゃない。
「でも、青は簡単にフラフラするような奴やないし。大丈夫やと思うで?」
「う……ん」
桃は浮かない顔に精一杯の笑顔を作ってみせる。
離れる寂しさは、蒼汰にもわかる気はした。
「大丈夫やって!」
もう一度言うと、桃は首をかしげ
「そうだよね」
と標準語で答えた。