終幕の始まり 4
藍から電話があったのは、桃が夕飯の準備を始めようと台所の立った時だった。
これから家に遊びに来たいという旨で、断る理由もなかったから、いつも通りの声で返事をした。
桃は、密かに自分たちの友情は少々白々しいと思っていた。表面上は仲がいい。一緒に旅行にだっていくし、なんて言っても三年近くルームメイトだったのだ。喧嘩という喧嘩はした事はないし、それなりに気も合う。
けど、藍とは良くも悪くもそれだけだった。お互い、というより、藍は本心をあんまり話してくれない。つまり、桃にとっては親友の証というべき打ち明け話的なものがないのだ。嘘はないだろうが、隠し事をずっとされているような気分。
それでも初めのうちは、こちらが心を開けば藍も打ち解けてくれるだろう。そう思っていた。が、結局卒業の迫った今でも、どこかよそよそしさを拭えないでいる。
もしかしたら、そう感じるのは自分の勘ぐりすぎなのかな?
桃は胸をチリっと掠める痛みに眉を寄せて、台所に戻った。
桃は青が藍の事を好きだった。それを知っている。だから、やきもちな心は藍の行動を思わせぶりに見せてしまうのだろうか?
最近も、毎日、青と一緒に蒼汰の見舞いを隣の町まで行っている事は、もちろん知っていた。二人が毎日会う事に、抵抗が全くないかと言われれば首を横に振る自信はない。けれど今になって、それはどちらでも同じの様な気がしていた。
桃は居間を振り返り、テーブルの上に出しっぱなしになっていた封筒に気が付き、慌てて駆け戻る。
英語の文字で表書きされた封書。この中には自分の答えが入っていた。
ふと、部屋を見回す。青と住んでいるこの空間。かけがえのない、自分の宝物。本当に、どれだけ考えても、何をしても青の事は大好きで、そこから気持ちは動かせない。
「だけど、決めたんだもん」
そう、自分に言い聞かせる声は、桃は揺らぎそうになる心に喝をいれるにはまだ弱すぎた。
けれど、もう、恋に依存しない。もう、藍のせいにしない。もう、青のせいにしない。もう、ちゃんと自分の道を歩いて行く。決めた事なのだ。
今、仕事を手伝わせてもらっている翻訳家の瑠璃から借りている絵本を思い出した。
その本は、少女が弟を助けるために巨大な迷宮を抜けゴブリンの王からその弟を取り戻す話だった。小さなぬいぐるみに固執していた少女は、自分の足で迷宮を進み、様々な奇妙な妖精たちと会い、危機を潜りぬけていくことで成長し、ついには甘いゴブリン王の誘惑にも打ち勝ち、弟と自分の道を見つける。その物語は桃に、自分の足で歩け。そう言っているような気がした。
「よし!」
桃は気合いを入れるようにエプロンのひもをキツク縛ると、台所に向かった。
まだまだ未練は消せないけど、どうか魅力的なゴブリン王の誘惑に負けないように。桃は切なさを飲み込むと、包丁を振るった。
「でね、蒼汰くん、リクエストに唐揚げって言うから、朝から頑張っちゃった」
藍がそう嬉しそうに目を細めた。
桃は藍の話を聞きながら、彼女のそんな表情を見つめ、少なからず驚いていた。
二人が部屋に来たのは電話から程なくしてからだった。着くなり青は夕食の当番を買って出てくれた。桃と藍が顔を合わせるのは久しぶりになるから、と気を使ってくれたのだ。桃は喜びを口にしながら、その申し出に少々気遅れしていたが。
「でも、全部食べてくれたから、甲斐はあったかな」
藍はそう言うと、手元のお茶を喉に流し込んだ。
着いてからずっとずっと蒼汰の話ばかりだった。そして、その顔には今まで感じていたような違和感がない。桃はその事に驚いていたのだ。
「藍ちゃん。なんか充実してるって感じだね」
そういう桃に「うん」と頷く藍の顔は、今まで見たどの顔より素に可愛かった。
いつもの、どこか周りの空気を読んで言葉や表情を取り繕っている様子が、今はまるでない。
「藍ちゃん、本当に蒼汰くんが好きだったんだ」
「何よ、今更」
顔を真っ赤にする藍に、桃は彼女と出会ってから初めてほっとしていた。
ようやく、本心で話せるようになったのだ。そう思った。
本心か……桃は本心を見せないもう一人の人物に小さくため息をつく。一緒にいても独りでいるような孤独。近くにいるのに遠くに感じる寂しさ。ねぇ、私がそんな想いをしてるなんて、知らないでしょ? 桃はなおも続く藍の話に相槌を打ちながら、そっと肩越しに台所に立つ青を窺ったのだった。
藍は夕食がすんでしばらくしてから帰った。
藍を玄関まで送り桃が居間に戻ると、青は黙ってビールを片手にサッカーの中継を眺めていた。
藍と打ち解けられた。その実感にやや胸を躍らせながら青の隣に座る。
「久し振りに藍ちゃんに会えて楽しかったぁ」
満足げに呟くと、甘えるように青の肩に頭を寄せた。それは、青の心にも触れたい。そういう思いがそうさせたのだが、青自身はそんな事に気づく様子もなく、画面を見ながら当たり前のように肩を抱いた。
「よかったな。桃も卒論の目処がついてるなら、たまには一緒に見舞いに来ればいいのに」
「ん」
桃はそれには曖昧な返事をした。
一緒に見舞いに行かない理由は、まだ青には話せない。話すのを躊躇うのは、決心が固まっていない証拠だ。情けなかったが、どうしてもまだする気になれなかった。
桃ははぐらかす話題を探しながら青の顔を見れないのを誤魔化すように、テレビの画面に同じように眼をやった。
さっきの藍の幸せそうな笑顔を思い出す。
「藍ちゃん、なんだか綺麗になったね。羨ましいな」
「そうか?」
青は疲れを滲ませた溜息をついて眼鏡に手を伸ばした。
桃は知っている。この仕草は青が本心を隠したい時か、話を変えたい時の癖だ。そんなフィルターみたいなものを取っ払って、ちゃんと本心を見せてほしい。喧嘩してもいい、言い争いになってもいい。こんな作り物の平穏よりよっぽど安心できる。
桃は手を伸ばすと、青の眼鏡をそっと外した。
大好きな、自分しか見る事の出来ない素の青の顔が不思議そうにこちらを見ている。
ちゃんと、向き合おうよ。どんな青君でも、私は嫌いになんかならない。ううん、なれないんだから。だから、遠くなんか見てないでちゃんと、傍にいる自分を見てほしいよ。
「青くん。ちゃんと、見えてる?」
ちゃんと、私を見てくれてる?
桃は切なさに悶えそうな痛みを感じながら、祈るような気持ちで尋ねた。
しかし、青にはその意味がわからないらしく苦笑する。
「ま、そんなに悪いわけじゃないから、この距離くらいなら」
「私、どんな顔してる?」
自分は以前のように、青だけを見ているわけじゃない。青がいる未来以外の未来を見つめ始めている。それが、こんなに一緒にいても、わからない?
青はしばらく桃の顔を見つめるが肩をすくめた。
「いつもの桃じゃないのか?」
やっぱり……。青は自分を見てなんかいない。
言いようもない虚しさと、抑えきれない寂しさが大きな影を落とした。
「そうだよね。そうにしか見えないよね。青くんには」
「俺にはって」
棘のある言い方になったかもしれない。でも事実だ。
青はいつもどこを見ているのかわからない。もしかして未だに藍を見ているのかもしれない。目の端に、青の携帯が映る。まだ外されていない藍の欠片。
桃は痛みを覚え、そこから目をそらした。その反らした先にあったのは、山となっている、夢の残骸だ。
桃は寂しさに締め付けられる胸を感じながら、自分の方から切りだした。
「あ、旅行はもういいよね」
本当は二人の最高の思い出になるはずだった旅行。
蒼汰の一件があったから、忘れ去られていた約束。
心残りが塊となって胸の奥に沈みこむ。
どこかで、代わりに日替わり旅行でも行くとか、これからでもいけそうなのを探すとか、せめて自分と同じくらい残念がってほしいと思う気持ちはあった。でも青は
「だな。しかたない」
そうあっさり、意にも介さない様子で頷いた。
心残り残りの塊はさらに重くなり、落胆と同時に怒りを誘いかけた。青にとっては、迷いもせずに一言で片付けられるものだったんだ。
桃は頷くと、そっと古新聞と一緒に山と積まれているパンフレットたちを振り返った。それは、埋めることの出来ない寂しさが具現化したモノのようだと桃は思った。特に投げやりな様子が、青と一緒にいて諦めることばかりうまくなっていく自分に重なる。やるせない気持ちに、桃は溜息をつくとじっと自分の足を見つめた。
桃にもまた、踏み出さなければならない時が迫っていた。