終幕の始まり 3
次の日、藍は本当に弁当を作ってきていた。
青も久しぶりにカメラを手に、せっかく外で歩くんだから写真を撮ろうといってきた。
「なんや、俺以上にはしゃいでるやん」
蒼汰ははにかんで2人を見比べると、昼下がりの中庭に出た。
いつものように藍が車いすを押し、それがいつもの場所に止まる。
今までは松葉杖や歩行器での室内訓練はして来たが、こんな外の不安定な場所は初めてだった。
「もたれてくれて大丈夫よ。怖がった方が危ないから、思い切ってね」
藍が手を差し出した。
あの想いを過去にするのはまだ、痛みが鮮明すぎるけど、もう、踏み出さないといけないのだ。
蒼汰はしっかり藍の自分をまっすぐ見つめる双眸を捉えると、ゆっくりとその手をとった。
言う事のきかない足は、まるで自分の現状のようだ。
うまく前に進めないのは、まるで自分の無力さの象徴のようだ。
バランスを保てない不安定さは、まるで自分の揺れる心のようだ。
そして、それを藍が支えていてくれている。
「立てた! じゃ、ゆっくり。右足から動かそうか」
人を好きになるのって支えたり、守ったりする事だと思っていた。
「わかった」
蒼汰はもう、ためらわずに彼女の手を握ると、ゆっくりと足を踏み出す。
「やった! じゃ、焦らないで、もう一歩」
藍の顔が輝く。
嬉しくてもう一歩踏み出す。
不格好な社交ダンスの様な二つの影が、秋色にそまる地上を不器用に踊る。
「蒼汰くん! 凄い! がんばって!」
藍の笑顔が嬉しかった。
傍にいてくれることに、泣きたいくらいに感謝したくなった。
そして、蒼汰はこういう気持ちも恋と呼ぶんだという事に気がついた。
穏やかな昼下がり、親友はこんな自分をどう見ているのだろう?
妙な胸騒ぎに彼の方を見る事が出来ない。青は今、何を思っているのだろうか? 蒼汰は静かに息をつくと、それと向き合う事を決めた。
「休憩ね。私、何か飲み物買ってくる!」
青の隣に座らされた蒼汰は藍の言葉にほっとした。
昼食を挟んでも二十分ずつの歩行訓練は、予想以上にきつく、たぶん藍が相手でなければ初めの二十分の後のランチで切り上げてしまっていただろう。
青と交代しながらだが、そのほとんどを付き合っていた藍も疲れているだろうに。
蒼汰は「元気やなぁ」と誰にも聞こえないような声で呟くと、子犬が駆けて行くような軽やかさで売店に向かう藍の後ろ姿を青と見送った。
疲れと緊張の錘がどっと背中と足にのしかかり、思わず溜息をつく。
「はぁ〜」
「お疲れさん」
カメラをおろしてそういう青に蒼汰は苦笑いして
「結構藍ちゃん厳しいわ。もう、くたくたや」
と、先に動くようになった手を伸ばして深呼吸した。
「卒論は進んでるのか?」
「あぁ。お前のおかげでなんとか。ほんま、ありがとな」
青は自分の欲しい資料やノートパソコンの手配、教授への橋渡しをしてくれていた。もし、無事にこれで卒業できたら、それは青のおかげだ。
しかし、謙虚な親友は黙って首を横に振った。こういう所が好感を誘うんだなと感心しつつ、いつもの悪戯心が口をついて出た。
「あ、今度、看護婦さんがお前紹介してやって。相変わらずモテるなぁ」
どんな顔をするか観察するが、案の定
「馬鹿か。俺には桃がいるだろうが」
と、涼しい顔で答えた。
いつもの青だ。そんな安心感に蒼汰は後ろ手に手をついて笑う。
そう、いつもの青。誰よりも信頼する親友。だから、腹を割って話したい相手。
胸の隅をくすぶらせるような胸騒ぎが躊躇わせるが、悩んでいても仕方ない。聞きたいことがあれば、ちゃんと聞けばいい。少なくとも青と自分はそういう仲のはずだ。
蒼汰は青に気がつかれないように咳払いをすると、昨日藍と見上げた銀杏を見上げた。陽に透けた黄色の葉は、黄金のステンドグラスの様だ。
「あんな俺、ほんまは衣の厚い唐揚げのが好きやねん」
蒼汰はこの空気にふわりと生まれた葉ずれの音の様な声で呟いた。
青は黙って聞いている。
きっと、自分の言いたいことはわかっている。
「今日のから揚げ、衣薄かったけど、うまかったぁ」
蒼汰はさっきまで繋いでいた藍の手の感触を思い出しながら、手を正面に回し、手を開いた。
沈黙が降りる。
蒼汰は自分の手を、青は銀杏の舞い落ちる様を見つめていた。それはまるで、互いの心に耳を傾けているかのようで、その沈黙にふさわしい言葉はもう、そう多くは残されてはいなかった。
二人とも、この先にふさわしい言葉を息をひそめて待っていた。
蒼汰は自分の胸に語りかける。まだ、あの恋の痛みは消えてはいない。もしかしたら青は……そういう心配もなくはない。でも、自分の心はもう藍の存在を欲している。自分の過去の恋、親友の過去の恋、そして今ここにある気持ち。様々なものが渦巻いて、声にする決心をとどまらせていた。
静かに目を閉じる。
迷う時はシンプルに。
難しく考えるとわからなくなる。そう一番大切な事はいつだってシンプルなんだ。
葉を揺らしていた風が凪いだ。
「……好きになってええかな?」
躊躇いと一緒に吐き出された声は静寂に確かに響きすぐに消えた。
「良いと思うよ」
青はそっと答えた。
開いたままの手に、ひらり一枚、鮮やかな黄色の葉が静かに舞い降りた。
蒼汰は、それはまるで今、自分の手を握って踏み出す一歩を支えてくれている彼女のようだと思った。
自分の手の中に舞い降りてきてくれた優しさを、そっと握りしめる。
「俺に訊くなよ」
苦笑交じりに青が言葉をつないだ。蒼汰も同じように笑い
「だって、昔、お前は……」
「昔の話だよ」
青のきっぱりとした口調。
少なくともその声からは迷いは感じられなくて、蒼汰は小さく安堵の息をついた。
そうだ、全部『昔』の事なのだ。紅への想いも、青の恋も。全部。寂しいくらいに。
「せやな。いや、正直、お前が桃ちゃんと付き合い始めても、もしかしたらって思う事があったから……」
「桃に殺されるぞ」
青は肩をすくめる。
「何なら、席外そうか?」
本当に立ち上がりかける親友を、蒼汰は引き留めた。
「いや、今はまだ言うつもりないねん」
首を傾げる青に、蒼汰は照れ笑いした。
「文字通り、今は一人で歩く事もできひん。そんなんで、いいたくないねん」
「じゃ、どうすんだよ?」
青のもどかしそうな表情に、好きな女の子を打ち明けた中学生の様な気恥ずかしさを感じ、照れ隠しに真っ青で透明な空を見上げた。
「歩けるようになったら、自分の足で歩いて、ちゃんと感謝と一緒に言うつもりや」
それは、ハッキリ決めていたことじゃないが、藍を意識するようになってからどこかでずっと考えていた事だ。
いざ言葉にすると、不思議と気が引き締まり、まるで神聖な誓いをしたような錯覚を感じる。
「そうか、頑張れよ」
穏やかで、やっぱりいつもと変わらない親友の声は、自分の背中を押してくれていた。