裏切りの雨
この作品は前作の【タイムカプセル】という作品の関連作品です。
前作をご存知ない方でも楽しめるように配慮しているつもりではありますが、前作にお目を通していただいてからの方がより楽しんでいただけるものと思います。
キーを回すとエンジン音が霧雨を蹴散らした。男は冷え切った右手をハンドルに乗せ、深いため息をつく。他方の手が、シフトレバーを引くのを躊躇っている。酷く身体が重く感じるのは、雨を含んだスーツのせいでも、ましてやこの暗く垂れこめた雲のせいでもない。眉を寄せ、目を固く瞑った。
自分にこの車のキーを投げつけた友の顔を思い出し、そして自分をこの雨の中待ってるであろう女性の背中を思い浮かべる。
罪悪感。この想いはきっとこの先もずっと影のように付いて回るのだろう。それでも。男は凍えた指でハンドルを握りしめると、シフトレバーを引いた。再びその影に掴まってしまう前にサイドブレーキを解除する。
「ほんまに、アホやな」
男。梅田蒼汰は自嘲の言葉を吐くと、その影を振り切る様にアクセルを思いっきり踏み込んだ。
静かに音もなく振る春の雨は残酷だ。沈黙に全ての言い訳を飲みこんでしまうからだ。
せわしなく触れるワイパーに払われる雫を、蒼汰は睨みつける。
本当にこれでいいのか?
本当にこれが正しいのか?
本当にこれが彼女の、あの人の為になるのか?
目を凝らしても、自分を包みこむ霧雨は進むべき道の輪郭を隠し惑わせる。
不意に笑みが零れた。どうしてここで笑みが生まれたのか、自分のことながら全く分からない。ただそれに見合う一種の諦めは、もう腹の底にある様な気がした。
そうだ、考えても意味はない。悩んでも、常に答えは一つに帰結する。たった一人の女性の元へと。
もう一度溜息をつく。しかし、あの身の重たさは幾分和らいでいた。それが一時の気のせいだったとしても、有難かった。きっとまともにあの影に向き合ってしまえば、案外いとも簡単にUターンしてしまうのだろう。
でも、その後に待っている後悔の程が凄まじいのも予想できる。開き直りでもいい、勘違いでもいい、思い込みでも、自己欺瞞でもいい。
今は、何物にも引き止めてほしくなかった。どうせ、答えはいつも悲しいくらいに揺るぎはしないのだ。
「何でなんやろな」
呟きがやけに静寂に響いて、自分でドキリとした。まるで他人に投げかけられたような錯覚に息をのんで、ゆっくりと吐き出す。
何故、この気持ちは彼女に向かう?
その疑問をもう一度、過去に投げかけてみた。
もはや先へと進む道しか選べなくなった高速にのった車は、雨を切って彼女の元へと急ぐ。そしてようやく観念して、無意識に入っていた肩の力を抜き、背をシートに預けた。
思考がゆっくりと解き放たれる。
何故? その理由を探るように過去へと思考を向ける。。
やがて霧雨が世界を奪い時を止めた。
解き放たれた心は、空間を越え、時を越え、初めて出会ったあの瞬間、あの場所へと帰っていく。
まるで何かに引き寄せられるように。