1 蝉、友と歌と
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」
琵琶法師。
無論、平安時代にこのような法師はない。なぜなら彼らはもっと後の世、源氏と平家の時代に現れて戦国の世を語るからだ。
「ジョウシャヒッスイ。それは何でございましょう?」
蝉丸。
いや、今は仮の名を例吉としよう。
幼い彼の生涯を見届けるにあたり、元服前の名前は仮であれ、物語の上で欠かせないからだ。
「盛者必衰ぞよ。マロどもは、いつか衰えること避けがたき人ごときの身の上。されどそれは栄える者、盛り上がりの者がありてこそ。すなわち、栄えると衰えるは表裏一体におじゃる」
「よく分かりませぬ。まこと、この例吉には難しいことは、ちっとも分かりかねまする」
「ふふふむふ。そちにも分かる日が来ること、これ明らかなり。これ、人の身にもれなく舞い至る大仏が与えたもう、試しなることぞ」
いかにもな平安貴族と話し込むのが、まだ幼い例吉である。
平安の世の子どもは、敢えてマゲを結ったりしない。彼、例吉もまた同様に無造作な髪型ではあるけれども、服装はその時代の貴族の子どもと同様にしっかり拵えられた着物を身に付けている。
「随。もういいよ。難しいコトバはさ?」
「うん、吉。もういいか。ワテもそう思ってたのだよね」
話していた2人の言葉は、急に砕けた。
随と呼ばれるのは歴史には残らないほどの貴族、随輪。もちろん、吉とは例吉である。
随輪の年は例吉より一回り上で、元服は済んでいる。
「はああ、藤原の家は長々と最近も大変らしいね」
「うん。大変も大変みたいなんだよなあ。なかなか、あれで玉石混淆入り交じって大変らしいぜ」
「そうなんだあ。ねえ随。なんか、ワクワクするねえ」
「えっ、あっは。ワクワク、ね。すると言えばするかも。まあ、巻き込まれると大変なんだけどね」
更に話し込もうとする2人。
年にしては話せる例吉を大層気に入っている随輪は、彼を唯一無二の友人として、およそ男らしくない長話を好んだのだ。
しかし、そこに不意に邪魔者が入った。
「失礼致しまする。殿方、少しばかり、やかましいですので」
「旗姫。棚上げは好かんぞ。どうせなら、お前らも、このくだらない暇潰しに参加してくれよな?」
「なりませぬ。女子は厳しい稽古ごと、勉強、下々の見回りなど忙しくしているのです。どうして殿方の、しかも下品で野蛮なお話ぶりになど付き合わねばならないのですか。大体、随輪さまという方は日頃より、甚だしく……」
「わ~かった。分かった。分かりました。ごめんなさい。ご勘弁。はい、あなたの勝ち。ダメだったダメだった。俺たちだけが石壁から生まれて侘しく朽ちていくからさ。機嫌を直してよ、まあまあ美しいんだからさチミは」
「ち、ちちち、チミ。また下品な言葉を。一体全体、左様な下品語をどこからお聞きになられるのです。御前に言い付けます」
「や~だ~。やだやだやだや~だ。無理無理。理不尽理不尽理不尽。理不尽ババア帰れ。か~え~れ。お疲れさん」
「随輪どの。乙女に失礼が過ぎまする」
「はああ。こんな時だけ卑怯じゃん吉もさあ。はあああ。ダメだよダメ。そういうの良くない良くない」
平安時代の女性の名前はあまり知られていないが、たとえば、旗姫のように姫と付けたり、または子と付けたりするのが普通だったようだ。
つまり旗姫は名に姫を持つが、姫ではない。
城持ちが増える戦国の世にまではまだ至らない世の中であるから、そのようなこともよくあるのだ。
「散歩してえ」
「何につけても、みだりな騒ぎ合いは注意の矛先となりますゆえ、ゆめゆめお気をつけくださいませ。失礼致します」
「は~い」
「返事!」
「は~い」
「……失礼致します」
旗姫は随輪たちがいる部屋から去った。
「ふう。若いっていいねえ」
「随。随だって若いじゃない」
「え。うん、まあ長生きするかもと思うと気鬱になりがちだけどね~」
「キウツ?」
「何にもやる気がしないほど、どんよりと気持ちがグズグズするってな意味だな」
「へえ。それにしても随って物知りだなあ。退屈しないよお」
「だろだろ。密かになら、ワテの名をそこらに広めてくれていいんだぞ。なんてな」
「ははは。随って本当、おもしろ~い」
するとそこへ、今度は琵琶弾きがやってきた。
「よっ、坊さん。琵琶を弾きに?」
「ええ。みなさんに新しく作った、近頃の忙しない世の中を歌いたくてやって参りましたよ」
「うわあ。楽しみです」
「これはこれは、例吉さまがいらっしゃいましたか。さぞ素晴らしい時間でしたでしょう。歌をお読みになる、そのさまはすっかり坊さま界隈にも知られているところですぞ」
「滅相もございません」
「ぬははは。例吉の礼儀正しさは誰譲りなんだ。ワテはそんなにまで出来んぞ」
「出来るようになろう?」
「ぬははは。まさにそれ」
「仲良きことは、美しきかな。あるいは、我々の琵琶は入り用でなかったのです」
「やめてよお。ワテ、好きだよ。あなたたちの琵琶。だって最高だもん」
随吉がそう言うのを聞くやいなや、琵琶弾きは大層美しい演奏を始めた。
「……」
「……」
随輪や例吉は感じ入り、部屋にいた他の人たちも粛々とした姿勢に直って琵琶を聞くことにしたようだ。
「『紅のにおいも草の露さえ垣間のことと~』」
おもしろいこと。
それを探す無邪気な楽しみを、例吉はこのようにして得ていた。または随輪との対話も彼の人格を形作っているようだった。
「おもしろかったね。随」
「うむ。なかなかに研鑽があり、内容はやや不粋さもあったけれども、はかなくも色濃い世の中が詰め込まれていたな」
「ブスイって?」
「ああ。粋とか粋じゃないとか、おとなの世界って色々あるんだよね」
「そうなんだあ」
「おっとと。まだ吉には早いかもな?」
「そうだね。ボクには、どうも粋って感覚がないかも。出来た。『白妙の若草ともに結び世の衣しのぶる人は夢かな』」
例吉は感きわまって和歌を読んだ。
しかし、その歌を聞くと急に随輪の顔が険しくなった。
「ダメだ。枕詞に正しく衣が掛かっているだけで、大きいだけで味わいが何もない。うまいが、それだけでは心は動かん」
「随は厳しいなあ」
「いや、普通だ。ワテは大した器じゃあないが、そうしたことにはわずかながら心得はある。自信もある」
「そっかあ。じゃあ、まだまだかな」
「まだまだ。まだまだ世の中でおなかいっぱいになるまでが入り口だ」
「へえ」
そこで随輪は柔和な顔にもどった。
「随。あなたはたまに阿修羅のようになるね」
「なはは。三面六臂は弥勒じゃなかったか?」
「阿修羅だよ。でも、三面六臂と言いたいのを分かったのはすごいね」
「まあ、な。って、いつものことなのに、ま~た弥勒とごっちゃに。くう~。ちっきしょう」
「あははは。また仏道の説教の時間は否めない」
「おませなお口を利くよね。ま、なんだかそれが吉らしさだからいいけどよ」
そのとき、一陣の風が吹いた。
柔らかでありながら厳しい、いかにもこの国らしい風だ。
いずれ蝉丸となり、かの逢坂の関の和歌を読むことになる少年は厳しい風ほど好んだ。
歌の道は、ますらおぶりの表れである。
だから後に蝉丸の句が収められた百人一首かるたにも、女性歌人より圧倒的に多い七割ほどの男性歌人が選ばれて今日に至っている。
「ワテもひとつ読もうかな」
「いいねえ。随の歌は好きだし、勉強になる」
「勉強。……いや、今はそう思え。では『天飛ぶや鳥とうとうと遅れがい来る風尽きぬ山並みの萌え』」
「立体的だなあ。鳥が見えたと思ったら目線がずれたから、むしろ山がほのぼの並んでいる。風はどちらにも等しく吹くんだね?」
「はははは」
「うん?」
「なんにも考えてねえ。思いつきだよ!」
「もう。随ったら」
歌の果てに至る子は、今は風と人と戯れるばかりだ。