喜びの代わりに悲しみを。悲しみの代わりに喜びを。
友達が死んだ。予期せぬ事故だった。でも、僕は大して驚きはしなかった。ただただ、申し訳ない気持ちでいっぱいで。だって、僕は結婚したばかりの麗奈との間に子供が生まれたばかりだったから。
喜びと悲しみは引き換えだ。「喜び」を感じた分、「悲しみ」がやってくる。そんなクソみたいな時代なのだ。貧富の格差。男尊女卑。人種差別。パワハラ。いじめ。そして少子高齢化。全てを解決するために、政府が科学力を結集して作った「平等バンド」は人の幸福度を測ることができる。もはや神の御業に近いその科学は、人の運命すら操作することができるのだ。
平均幸福度は百。バンドには常にそう表示されているべきなのである。上下十以上の誤差がある状態で一か月が経過すると、重罪に当たり死刑になる。最も、そうなるのはバンドに改造を加えたりする輩だけなのだが、そんなことをする死にたがりはほとんどいない。
しかし、まさか友達が死ぬだなんて思わなかった。僕が命を授かった時点で、引き換えに僕の大切な人の命がなくなるとは分かっていた。身近な命の誕生は幸福度としてプラス八十。それに対し大切な命を失うことはマイナス八十。ちょうどプラスマイナスゼロなのだから、そうなるのが自然だ。
子供を作るとき、両親と相談したのだ。とても長い時間、相談した。両親のどちらかの命と引き換えに、子供を授かるか否か。いつかその決断をしなければならないことは分かっていた。分かっていたのだが、それでも辛かった。
「いいのよ。私ももう、しんどいから」
母はそう言った。父の看病が、母にとってはもう限界に来ていたからだろう。父は不治の病を患っている。所謂植物状態の父親は、いつ死んでもおかしくないらしい。
子を授かるには、大抵親の命と引き換えなのだ。そういう社会となった。お陰て少子高齢化も改善に進んでいるが「祖父母」「孫」という概念が消えつつあるということは少し悲しいものがあった。
だから、僕も「子供を授かるという喜び」の代わりに「父が亡くなるという悲しみ」がやってくるとばかり思っていた。だが、それは間違いだった。
「異例中の異例だよ。親じゃなく友人の死で交換されるなんて」
「……ああ。なんでこうなっちまったかな」
僕は居酒屋で同僚の岸と酒を酌み交わしていた。岸は神妙な顔つきで、僕の顔を覗き込んだ。
「あいつの家族にはどんな喜びがあったんだ?」
家族を亡くしたのだがら、相当の「喜び」があってもいいだろう期待したのか、岸は少し声を張った。
「不謹慎だぞ。まぁ、なんか難病だった妹が一命を取り留めたとかなんとかって」
僕は胸糞悪いのを洗い流すつもりでビールを胃に流し込んだ。余計に気分が悪くなった気がした。今日は良く酔える気がしない。
「調子悪そうだな。家で子供が待ってるんだろ」
こいつは本当に不謹慎なやつだ。そう思いながらその岸に返す言葉を探す。
「複雑な気持ちだよ。うん。ほら、バンドもちょうど百だろ」
僕は岸に自分の幸福度バンドを見せた。
「本当だ。ぴったり百。にしてもすごいな、科学技術ってのは」
何かこいつは話の本筋からズレた発言をよくする。……だからこそ、こいつといる方が、他の奴らといるよりマシなのかもしれない。
「……でも、まだまだだろうよ。その科学技術ってやつも。『親じゃなくて友人だった』っていう付加的な悲しみと引き換えの喜びがやってこないんだから」
「些細な喜びなんて、気付かないもんだろ」
些細。些細なものか。僕がどんな思いで……。
酩酊の帰路。もう出すものも無くなって、すっからかんの胃を腹に抱えて、僕は汚れた都市を歩いていた。頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたみたいになって、視界も鮮明とは言えない。
僕は岸には決して言えない愚痴を零しながら、高架下のごみ溜めに腰を下ろした。
「くそが。何であいつが死んだんだ。くそがくそがくそが。何が『喜び』と『悲しみ』は引き換えだ。んなもん、おかしいだろ。これが平等だ? 畜生。狂ってやがる」
バンドその数値が音を立てて下がっていくのが分かった。そうか。僕は今、悲しみを感じたのか。それじゃあこれから喜びがやってくるんだな。……この何とも言い難い、どこに怒りをぶつければいいのかも分からない悲しみを埋め合わせることができる喜びなどが存在すれば、だが。
「国に不満があるのですか」
頭上に声がした。目の前に、黒い男性用のブーツが見えた。そのブーツから視線を上に辿っていく。その先には、パーカーのフードを深く被った、若い青年の姿が見えた。
「そのバンド。それに不満があるのでは?」
青年は丁寧な言葉づかいで言った後、僕に手を差し伸べてきた。僕は彼のその手を酔いが醒め切っていない目でぼんやりと眺めた。そして、彼の言う言葉をゆっくりと頭の中で咀嚼した。
不満。……不満。そうか。もしかしたら、僕のこれは不満なのかもしれない。この制度に対する……このバンドに対する。
「……お前は?」
彼の言葉を飲み込み切る前に、僕は声を出した。彼の問いはまるで僕の気持ちを代弁してくれたようで、僕は彼を何となく信用してしまったのかもしれない。
「私は政府に仇なす者。名乗る名前はありませんが、人々は私をシンドウと呼びます」
僕はシンドウの鋭い目を見て、彼の呼び名を反芻した。
「シンドウ?」
「そうです。なんでも、『真の平等を謳う者』から取ったとか。時々、群衆のセンスは悪い方に働くこともあるらしい」
シンドウは遠くに見える、人々がごった返す通りを眺めながら言った。
「この国、狂っているとは思いませんか。平等の為に人の運命を操るだとか。『平等』の名の下に国民を支配しているとしか思えません。あなたにも心当たりはあるのでは? 何かがおかしい。何かが引っかかる。と」
僕は徐々に鮮明になっていく意識の中で、彼の言う事に頷く自分がいることに気付いた。酩酊の果てに鈍り切っていた鼻腔がごみ溜めの臭いを捉え始め、僕は顔をしかめた。
突然、死んだ友達。
死を覚悟した親の気持ち。
幸福を掴むために努力した数々。
何かが。何かが足りていない。何かがおかしい。いつも何かが無い。
「あれ?」
僕の口はそう漏らした。
「気付きましたか」
気付いた。気付いたとも。この制度は不完全だ。そして間違ってる。
「喜びと悲しみは引き換えじゃなかったはずだ」
「私は、政府の間違いを正すべく、人々を扇動してきました」
シンドウは人気の少ない道を選びながら僕を連れ歩いた。その最中、自分の活動について。政府の犯した間違いについて。そして、平等バンドの欠陥について話してくれた。
シンドウの言葉には力があった。人を惹かせる力が。まさに扇動者としてふさわしい姿であった。
「政府に仇なす新派はみるみる内に増えていきました。今では日本に潜伏している新派はおよそ二万。今は便利な時代です。インターネットを使えば自分の主張を光の速さで広めることができる。素晴らしい時代です」
僕は彼の話に聞き入った。彼の言う全てが正しいと思えた。
一通り彼の話を聞き終えた僕は、彼が次の話を切り出す前に口を開いた。
「僕を……僕をその新派の仲間にしてくれないか」
シンドウはその言葉を待っていたかのように笑顔を見せた。
「……では、早速一週間後に活動があります。場所は、国会議事堂の前。時刻は、早朝五時からです。お忘れなきよう」
そう言ってシンドウは僕に紙袋を渡してきた。
「これは?」
僕の問いに、彼は笑顔で答えた。
「折り畳みナイフです。万一の備えに。護身用とでも思っておいてください」
人の渦だ。
僕は国会議事堂の目の前の光景を見て、率直にそう思った。あれから一週間。間違いなくその活動を執り行われていた。
絶叫。
雄叫び。
ガラスの割れる音。
鈍い金属音。
怒号。むせび泣く声。
サイレンの音。
これはまさしく――
「――デモだ」
僕はそう呟いた。
数々の轟音が入り乱れ響き渡っていたが、彼らのシュプレヒコールは統一しており、はっきりと聞こえた。
平等を取り戻せ。
デモの中心には、トラックの荷台に乗って人々を扇動するシンドウの姿があった。拡声器で音が割れるギリギリの声を、シンドウは鋭い眼光で発していた。
「この国は間違った方へ進んでいる。我々はそれを正さなければならない。壊れたものは直さなければならない。
この平等バンド。これには大きな欠点がある。それは、どんな喜びでも埋め合わせることのできない悲しみがあるということを考慮していないという欠点だ。人生には拭い切れない悲しみが少なからず存在する。それを帳消しにできる喜びなどないほどに。それにこのバンドは対応していない。いや、対応してはならない。拭ってはいけない悲しみもあるのだ。
人は少なからず後悔を背負って生きる。その義務を放棄してはいけない。一度背負った悲しみは、背負ったまま喜びを掴みに行かなければダメなんだ」
シンドウは国会議事堂に向かって叫んだ。
「喜びと悲しみは引き換えじゃなかったはずだ。なぜなら、喜びは努力によって事を成し遂げた先に得られるものなのだから。悲しみが喜びを生むわけではない。悲しみは、喜びをただ増幅させるだけのものだ。私たちはただ比較しているだけなのだ。
この国のやり方は、我々の努力を無視している。喜びを掴み取るための努力を。平等だなんて嘘だ。必死に努力した者が得た喜びと、自業自得で人生転落した者がその悲しみと引き換えに得た喜びが平等であってたまるか。そして、必死に努力した者が悲しみを被るなどあってたまるか。我々は動くべきだ。叫ぶべきだ。国を改心させるべきだ。平等を……本当の平等を取り戻せ」
シンドウの最後の怒号で、群衆の勢いは今までで一番のものになった。
そして、その怒号は僕にも火を点けた。
群衆の中に走り込み、満員電車よりもごった返った人々を掻き分け、できるだけ最前線を目指す。声にならない声を上げ、人の圧力で押し潰されそうになりながら、国会議事堂の門が見えるところまでやってきた。警察官が何十人も束になって僕たちを押し返している。僕は、熱くなった顔を冷ます気もなく、一人の警察官を思い切り蹴飛ばした。人を蹴ったのは生まれて初めてだったが、思ったより手ごたえを感じた。
その刹那だった。蹴り飛ばされた警察官が起き上がるなり真っ赤な顔をして、僕目掛けて突進してきたのだ。僕の腹部を捉えた彼の突進は、僕を勢いよく倒れ込ませるのに十分な威力だった。
「この野郎」
怒りに満ちたその声が、一体僕の声なのか、警察官の声なのか、自分でも分からなくなっていた。もしかしたら他の誰かの声かもしれない。
僕は警察官に体を拘束されてしまった。十字固めの形で押さえつけられた僕は、必死になって空いている方の手でポケットに入っている折り畳みナイフを探した。
手ごたえはなかった。
僕はやっと手に取ることができたナイフで、警察官の向う脛を突き刺したつもりだった。
「ぐえぇ」
それでも、警察官は痛みに耐えかねて十字固めを緩めた。彼の向う脛から血が流れている。突き刺すことはできなかったが、傷を与えることはできたらしい。
そこから僕はもう、何が何だか分からなくなって、必死にナイフを振り回した。警察官の腕や脚に無数の切り傷が付いていた。僕が警察官の拘束から完全に開放されたときには、彼の身体中が傷だらけで、僕自身も血だらけになっていた。
「この犯罪者め」
傷だらけの警察官は、僕にそう怒鳴りつけた。
僕は興奮していた。彼のその言葉は、その興奮を最骨頂に押し上げるのに十分すぎる一言だった。
声にならない声。
血に塗れたナイフを僕は尻餅をついている警察官に突きつけた。
――ぐっ。
そんな手応えだったろう。その直後、警察官はガクッと力を抜いた。いや、抜けたのか。傷口を中心に真っ赤な円が広がっていった。
僕の周り五メートルくらいの人々は、怖いくらいの静けさで僕と警察官のことを見つめていた。
カシャリ。
沈黙を破ったには、誰かの携帯電話のシャッター音だった。
「お、おいやべぇって。人が死んだ。……殺された!」
その携帯電話の持ち主である若い男が、興奮気味に叫んだ。それからは、絶叫の渦だった。
「いや! 血出てる!」
「やばいやばい! 写真撮ろ!」
「嘘だろ!? 殺人とか初めて見た!」
恐怖の叫びの他に、抑えきれぬ好奇心が噴出したような言葉が周囲から耳に入った。入っただけで、僕にはそれがどんなに狂っていることなのかを考える余裕などは無かったのだが。
僕は必死に叫んだ。
「違う! これはこいつがやってきたからで! ……ふーッ……ふーッ……」
息を整えようとすればするほど、呼吸が乱れる。頭が混乱する。頭の中を泡だて器でぐちゃぐちゃにかき混ぜられたみたいで、視界が狭くなったり広くなったりした。
「おい、人殺し! 言い訳してんじゃねぇよ」
僕の後ろで、派手な格好の男がそう叫んだのが鮮明に聞こえた。徹夜明けの朝みたいな脳の処理速度で、僕はその男の顔を探した。その顔を捉え、認識したとき、またその口が開いた。
「何とか言ってみろよ。犯罪者!」
ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた頭の中が、一気に沸騰する感覚を覚えた。手に力が籠る。右手に握られた折り畳みナイフがギリギリと音を立てる。
気付けば僕は男に突進していた。胸元辺りにナイフを構え、男の胸に突き刺さるように。
それからはもう何が何だか。僕は男をナイフで突き倒し、男の上に馬乗り状態でいたような気がする。
騒めきはより一層強まり、野次馬の数も倍以上に増えていただろう。
ただ、そんな中で、僕の意識は一気に冷め切り、胃から何かが逆流してくるのを感じた。
「ああ」
僕は全てを悟った声を出し、その場に膝から崩れた。自分の吐瀉物が膝にべったりとくっつくのも構いはしなかった。ただその場で俯き、自分がした蛮行を頭の中で何度も、何度も再生していた。
冷たい。床も、壁も、食べ物も。留置所は全てが冷たく感じられた。
平等バンドは六十を示していた。きっとこれから、四十に値する喜びが舞い込んでくるのだろう。その四十が、今の僕の感情を晴らすのに値するのかが疑問だったが、それでも喜びが必ずやってくると保障されているというのは、気休め程度に安心できた。
「四五七四。面会だ」
僕は重い頭を上げた。人と話せるのが嬉しいような、億劫なような。ただそれよりも、一体誰なのだろうという疑問の方が大きく、僕は面会に応じる気になれた。
「どうも。シンドウです」
僕は溜息を吐いた。シンドウ。僕は彼のせいでこうなったと言っても過言ではなかろうか。
「シンドウ。お前、よく俺の前に顔を出せたな」
そう言ったところで、僕は目の前にいるのが本当のシンドウではないことに気が付いた。
「お気づきですか。本物のシンドウがここに来たら逮捕されてしまいますからね。なので、私はこの者を遣いとしてよこしたのです」
自らをシンドウと名乗った男は、自分の胸に手を当て、言った。まるで台本を読んでいるかのようなその口調は、かつての扇動者としての風格を一切感じさせてはくれなかった。
「本日はあなたの『喜び』と持ってきた、ということになりましょう」
男がシンドウの言葉を話す。
「……喜び?」
「はい。私も気が進みませんでしたが、しかしながら今の貴方を思うとやはり伝えるべきかと」
僕は男の顔を見た。シンドウの顔を重ねる。
「単刀直入に言いますと、貴方が殺した二人、どちらも殺されて然るべき人間だったのです」
男は「殺されて然るべき?」と聞き返す僕の顔を真っ直ぐに見て、微動だにせず話を続ける。
「まず、警察官。彼は数年前、とある事件を追っている途中で、何の関係もない一般人を殺してしまいました。しかし、警視庁がそれを隠蔽。彼は一切罪に問われなかった。そして、次に貴方が殺してしまった若い男。彼は所謂DV男で、自らの妻と子供に暴力を働いていたそうです。子供に至っては何日も食事を与えていなかったり、押し入れに閉じ込めたりと……まぁ酷い……父親と呼ぶのも憚られる父親だったというわけです」
男はシンドウが用意したであろうセリフを一切噛むことなく言い切った。僕が間に入る隙も無く。
「……それは……確かに殺されて然るべき……と考えてもいいかもしれないが」
だが、それはそれとして、僕が殺していい理由になるのかという話だ。難しい問いである。いや、普通に考えてダメだろう。僕が殺人を犯した事実に変わりはないのだから。
ただ。
僕の心が軽くなったのもまた、紛れもない事実であった。
悔しいが、僕の平等バンドは九十八を指していた。
「それでは」
男はそう言うと、下を向いて俯く僕を置いて面会室から出て行った。
僕の裁判は三日後だ。人を二人も殺したのだから、無期懲役……最悪、死刑となるだろうか。そんな不安で頭がおかしくなりそうだった。
死にたくはない。だって子供が生まれたばかりだし、家で麗奈が待っている。そうだ。確か弁護士が言っていた。殺人罪でも最も軽い刑ならば、懲役五年で済む、と。
五年.それくらいの年月なら、きっと麗奈も子供も待ってくれるだろう。名前だって付けてやってない。そうだ。五年……五年待てばいいだけ……。
「そうだ」
僕はふと思い出した。今朝、手紙を貰ったのだ。差出人はよく見ていなかったが、きっと麗奈からだろう。
急いで手紙を囚人服のポケットから取り出し、差出人を確認する。
依岡麗奈。
そうはっきりと書かれているのを、僕の目はしっかりと捉えた。僕は早く見たいという思いを抑えて、紙が破れないよう、丁寧に封を開いた。
僕は麗奈からの手紙をゆっくりと読み始めた。
依岡佳樹 様
麗奈です。元気にしていますか。
私は、元気です。
あなたがいなくなって、私の平等バンドの数値は一気にに下がっていきました。これ以上の悲しみはないというくらいに。それも今では百に近い数値に戻りました。あなたが捕まったという「悲しみ」の代わりに、「喜び」がやってきたからです。
私は、新しい愛すべき人を見つけました。
私は、その人と幸せになります。
私は、人殺しとは幸せにはなれません。
離婚しましょう。
あなたが父親では、あの子も可哀想だとは思いませんか。あの子の為にも、離婚した方がいいと思います。今までありがとうございました。
離婚届とあなたの印鑑、そして筆記具を同封しておきます。名前を書いて、送り返してください。私が役所に提出しておきます。
さようなら。
何も言えなかった。僕は、ただただその文章を何度も、何度も読み返すことしかできなかった。
離婚。
その言葉を見る度に、胸が痛く締め付けられた。心臓を手で握りつぶされているような、そんな痛みだ。だが、「あの子の為にも」という文章を見ると、それ以上の痛みが心臓を襲った。心臓を槍で一突きにされたような、そんな痛みだった。
やっとその手紙の意味を頭が理解できるようになってからは、もう涙が止まらなくなっていた。大粒の雫が手紙を濡らし、ボールペンで書かれた文字を滲ませた。
封筒に入っているもう一枚の紙を取り出す。
そのとき、何かが落ちる音がした。
「印鑑、か」
僕はその印鑑を拾い上げ、見つめた。麗奈と同じ姓になれることが、どんなに嬉しかったか。そして、子供にも同じ姓が授けられることが、どんなに誇らしかったか。
今となっては全て無い。
麗奈の言うことは全て正しい。
僕は人殺しだ。そんなレッテルが一生貼り続けられている以上、二人を幸せにすることなど、到底できない。
僕は拳を力一杯に握った。
映画なんかでよく見る、握った拳から血が出る、だなんてことは一切なかった。ただただ、握りすぎて痛んだ手で、僕は離婚届を記入した。
僕の平等バンドの数値が、十になった。
三日後。僕の刑が決まった。
死刑。
でもなければ、
無期懲役。
でもなかった。
懲役十年。僕は十年間、刑務所に閉じ込められるというわけか。死なずに済んで安心してはいる。いるが。
僕の平等バンドの数値は百を示していた。
何が百だ。
もう、このバンドは壊れてしまっている。
だって、愛する人を、愛する家族を失った僕の心を埋め合わせることができる「喜び」など、どこにも存在しないのだから。
このバンドは、そういう、「喪失」に対応していない。その「喪失」は、僕の心を失くすのに十分に、値していた。
心が、無くなってしまった僕には「喜び」も「悲しみ」も無い。
もしかしたら、出所した後、新しい出会いがあるかもしれない。新しい人生を歩めるかもしれない。人を殺したというレッテルを背負い続けたとしても。愛した人の影が背後霊みたいにチラついていたとしても。だが。
心が無くなった今の僕は、希望なんていとも容易く投げ捨てることができる。
懲役十年が決まった依岡佳樹受刑者は、その三日後、獄中自殺をして安らかに逝った。
読んでいただきありがとうございました。
今後、月に一度のペースで短編小説を投稿していきます。
よろしくお願いいたします。