魔神とメナ
レーションメイドにかじりつく。
リスが近づいてくる。
「怖くないのか?」
ひとかけをハッチの隅に置いた。
頬にしまって、そのまま行ってしまった。
「雲はいいなあ……俺は出るにも出られない……」
あくびついでにちらりと川面を覗く。
まだ水浴びは終わらない。
それどころか、何度も体をこすっている。
どこか楽しんでいるようには見えない。
ようやく川辺へと上がった。
ひたひたと歩く姿に表情がない。
次は着ていた服を洗い出した。
そのまま流されてしまうんじゃないかと思うくらい、虚ろな動作だ。
「おいおい、お父さんは心配になるぞ……」
待っている間にすっかり保護者気分になっていた。
保護者としては、見過ごすわけにいかない。
「あー、君。ちょっと君」
突然、森から現れた男をどう思ったのだろう。
くるりとした瞳で見つめてくる。
「ああ、まずは服を着ようか。向こうを向いてろと言うなら、おじさんは向こうを向く」
言われてはいないが、背を向ける。
「えーと、なにか困っていることはないかい? 親御さんはどこだい? 友だちや学校は楽しいかい?」
森に向かって言う。
リスに話しかけているわけではない。
「えっと、あの……」
透き通った声だ。
花びらを探す蝶のはばたきだ。
やはり妖精かもしれない。
あの騒がしい、ベルーシカとかいったか。それとは大ちがいだ。
おじさんの心が洗われる。
「うん。話してくれるかい?」
「服を、着ました……」
そうか、と振り向く。
濡れたままで着させてしまった。
すっぽりと首を通しただけの服だ。
生成り色……のはずなんだが、泥が染み込んでいる。
洗っても落ちそうもなく、ところどころ破けてもいる。
うっすらと透ける肌から、傷やアザが痛々しく浮かんでいた。
そして思った以上に、痩せている。
これは……大問題じゃないか。
か細い声がおそるおそる言う。
「困っていること、とか、友だちとか学校……というのはわかりませんが……。両親はいません」
「……そうか。えっと……。うん、まず、名前を聞いてもいいか?」
上目遣いで――必然的にそうなるが、小さく答える。
「メナ……です」
「うん、いい名前だ。それでメナは、なにをしていたんだ? 川遊びは危ないぞ?」
メナは困ったような表情を見せた。
暗いというよりも、返事に悩んでいるようだ。
「知ってるか? ここには山賊もいるんだ。子供が一人でいたら、それはもう危ない」
「はい。でも……行かなきゃ」
「どこへ? 村へ帰るのか? 村の子供だよな?」
「村には、帰れません。ボク、行かなきゃ……」
家出だろうか。
村へ帰りたくないんだろう。
おそらくだが、事情がわかってきた。
しかしすぐに覆される。
細い指が川辺の先を示した。
「あれを持って、山賊のところへ行かなきゃいけないんです」
「なんでまた……」
荷物のようだ。
木を組んで粗縄を張ったかごだ。
干からびたようなリンゴ……よりも、もっと小さい果実が入っている。
子供が山賊のところへ行く。
どういった事情であれ、おかしいじゃないか。
お互いに困った顔をしている。
「山賊に、来いと言われたのか? ひどいことをされて、食料を持ってこいと。……なら従う必要はない。断る勇気は必要なんだぞ?」
メナは首を振った。
まあ、従わざるを得ない、か。
親はいないらしいが、村の大人はなにをやってるんだ。
「村の人に、言われたんです。村が襲われる前に持っていって、ボクも差し出せって。行く前に体を洗ってきれいにしとけって」
……思ったよりも、はるかに深刻だ。
怒りさえ生まれてくる。
「……よくわかりませんけど、でも、汚れが落ちなくて……」
なぜか、笑っている。
いや、きっと、笑うしかないのだ。
「落ちませんよね。ずっと薪を集めたり、畑を耕したり、染み付いてますから。あ、でも、ボクがいなくなったら、村の水汲みとか、誰がやるんでしょう……」
おまけに、児童労働というやつか……?
メナが不安そうに見つめてくる。
「あの……具合でも、悪いんですか……?」
ひとのことに気を遣ってる場合じゃないだろう。
自分の境遇をわかっているのか……?
本当の笑顔を、させなければいけない。
「俺が……なんとかする」
メナはぱちくりと首をかしげる。
誰か、助けてやれなかったのか。
「村はどこだ。メナ、お前はもう誰にも従わなくていい。自由だ」
「じゆう……?」
「俺が話をつける。何かあったらお前を守る。村はどこだ、いっしょに行こう」
手を差し伸べた。
ふるふると首を振って返される。
「村の人はこわいんです。言いつけを守らないと、仕事が増えます」
「俺のほうが、強い。安心しろ」
「でも……逆らうと、もっと酷いことされます……」
少し、ほんの少しだけ、ほっとした。
メナは、俺の言った意味がわかったのだ。
心のどこかで、救いを求めているのかもしれない。
自覚はないかもしれないが。
完全に、不幸の靄に沈んだわけじゃない。
素手での喧嘩だったら敵わないかもしれない。
でも俺は、時間を止められる。
なんならW.W.を見せつけたらいい。
「……棒で叩かれたら、その、かないっこありません……と思います……」
心配そうに見つめてくる。
そんなに頼りないか俺は。
まあ、リスも警戒心をなくすくらいだ。
小動物にエサをあげるような奴だ。
もっと強そうに見せなければ、説得力がないのか。
これくらいの年齢だと、なにに憧れる?
俺のときは、どういうものを強いと思ったっけ?
片翼を失い鎖に縛られた暗黒の堕天使。
腕に包帯、片目に眼帯、竜の血を継ぎし半竜悪魔。
こういったものか? 俺はそうだった。もう少し後の年頃だが。
「我が名は、えっと……」
まあ、子供相手だ。
怖がらせるくらいがいいだろう。
「我が名はクリストファー・フォルネウス。人は魔族と呼ぶ!」
……言っていて恥ずかしくなった。
ゲームのプレイヤーネームじゃないか……。
「魔族……」
メナが両手を組む。
「かっこいいです……!」
キラキラと瞳が輝いた。
「ただの魔族ではない。魔族の王、いや、神だ。もちろん強い。だからいいか、村に案内しなさい」
「はい!」
「川遊びはやめなさい」
「はい!」
「自由に生きなさい」
返事はなく首をひねる。
「あー……。まあ、そういうことだ。わかったら、ついてきなさい」
「はい、魔神さま!」
ワンピースのような布がひらひらと揺れる。
不思議そうにリスが眺めている。
一歩、一歩と気がついたようだ。
枝葉に隠れた、真の魔神を。
「魔神さま……これ……おっきい……」
「乗ってみるか?」
返事はない。
見上げたまま、あっけにとられている。
メナの膝を抱き上げた。
ふわりとワンピースが驚く。
要するに、まあ、お姫様抱っこだ。
蹄鉄が胸部まで運んでいく。
軽い。ちゃんと食べているのか?
むき出しの操縦席から、その高さを眺める。
メナが風にさらわれる。
小さな手だ。
傷だらけで、崩れそうで、やわらかい。
世界のすべてを初めて見るように、あらゆるものにきらきらと目を巡らせている。
ゲーミングチェアに座り、膝の上に乗せた。
「とりあえず、これでも食って落ち着け」
インベントリーからレーションメイドを取り出す。
フルーツ味、もちろん二本入りだ。
袋を開けて食べてみせると、遠慮がちに口にした。
ぽろぽろとこぼしながら、落ちたかけらと交互に頬張っている。
「おいしいです、甘いです。こんなの初めてです……」
むせたようだ。
甘いと思ったことはないが、言われてみれば甘いかもしれない。
「うん、そうなるな。水分と一緒に摂るんだ」
ペットボトルの天然水を手渡す。
メナは首をかしげながら、手のひらにこぼしだした。
「まて、直接、飲むんだ」
「あ、ごめんなさい。知らなくて……ごめんなさい」
手からすすって飲もうとしたようだ。
「……ボクは、村の外から出たことがないんです。ごめんなさい、魔神さまの言うことも、することも、ごめんなさい、わからないことだらけなんです……」
潤んだ唇が震える。
「だいじょうぶだ、村の外でも珍しいだろうし……。そうだな、村の外にも連れて行こう。まずは村からだが。ひと言でも言ってやらないと気が済まないからな……」
川面の音が耳に押し寄せる。
怒りを思い出した。
村の人間はなにをやっているんだ。
はっと細いうなじに我に返った。
俺が怖い顔をしてどうするんだ。
「あー、そうだ、魔神はやめてくれ。なんていうか、思春期の古傷というか、刺さったままのナイフというか、あれだ……痛む」
膝の上のメナが振り返る。
「はい、旦那さま!」
旦那……。
メナは瞳を輝かせる。
細い肩、繊細な髪、眩しいほどのまなざし。
ちょこんと座り直した。
小さな手で椅子を握る。
妙に、なつかれてしまった。
裸を見なければ、少年だとはとても判別できなかった。




