悪夢の始まり
突如、世界が瞬いた。
読んで字のごとく一瞬のことだったが、世界を変えるのに十分な時間だった。いや、普通はそんなことはありえないのだろうけど。
曇っていた空が血のように赤く染まり、世界が僅かに暗くなった。
同時に、体を叩きつけるような強烈な衝撃波に襲われ、吹っ飛んだ体がひいおばあちゃんの墓石にぶつかり、悲鳴をあげた。
今の衝撃波で周りにある他の墓石が壊れてしまったが、今の状況において、そんなことは些細なことだった。
「な、何!?」
そして、周囲の墓から黒い影のようなものが現れた。揃いも揃って人の形をしている。
『オバケ』。そんな、くだらないと一蹴されてもおかしくない考えが頭をよぎった。
――オォォォオアァァ!
――アガアァァァッ!
――ハァ……ハァ……オ、オンナァ……!
オバケたちは一斉に悍ましい雄叫びを上げて、動き出した――って、私の方に来てる!? なんか両手を胸の高さで広げて口をアホみたいに開けてこっち来てるよね!?
異形の、人ならざる存在を前に、心の中は恐怖に塗りつぶされた。
後ずさろうとしても、それは叶わない。後ろにはひいおばあちゃんのお墓がある。
「う、うわあああああっ!?」
私に黒いオバケのうちの一体が襲いかかってきた。
人間は命の危機に瀕した際、脳が覚醒するという。
元々良かった動体視力が更に強化されたスローモーションの世界で、オバケの魔の手が私に迫っている。
「ヒッ……!?」
私は怖くて見ていられず手で顔を覆った。もしかしたら人間の防衛本能が働いた結果だったのかもしれないし、これ以上現実を見たくないという私の本心が行動に出ただけなのかもしれない。
(私は、死ぬの……?)
それも、いいかもしれない。焦らずとも、世界はゆっくりだ。皮肉なことに、覚悟を決めるだけの時間はたっぷりあった。
――ガッ!?
しかし、いくら覚悟を決めても、その魔の手が私に届くことはなかった。
オバケがすんでのところで弾かれたのだ。
(な、なにが……!?)
突然弾かれた仲間の姿を見て、他のオバケたちも警戒心を露わにして後ずさった。
何が起こったのかはわからない。でも、この場から逃げ出す最後のチャンスだった。
おニューのスニーカーで砂利を蹴り、オバケの間を抜けて坂道を駆ける。
夜では無いのに、薄暗い赤い空が異常な現象を恐ろしく彩っている。
視界を風のように駆け抜けて行く霊園の風景は、今やそんな爽やかな表現などできず、黒いオバケがこびり付いたホラー映画だった。
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
走る。
決して後ろを振り返らないように。一度でも振り返って仕舞えば、私はこれ以上前に進めなくなるだろうから。
門が見えた。よかった、出口だ。ようやく脱出でき――
「そ……んな……」
私は霊園を脱出したところで、足を止めた。止めざるを得なかった。
私の心中を絶望が満たす。
目の前に立ちはだかる黒い影。
先程群がってきたオバケよりふた周りほど大きい。
ボスオバケ、といったところだろう。
――オオォォンナァァァッ!
咆哮。
空間が震え、周囲の木々の葉を全て吹き飛ばす。小さなモブオバケとは比にならない威圧だ。
平均感覚を失い、尻餅をついた。
動こうにも体が言うことを聞かず、もがく私にボスオバケがジリジリと詰め寄ってくる。
運命というやつは、一体どれほど私を殺したいのだろう。何か悪いことをしたのだろうか。
嫌だ。死にたくない。
先の覚悟はどこへ行ったのか。私は死を拒否した。生を渇望した。
現実はもう見たくないだとか、そんなネガティブなことを散々並べ立てておいて、結局私は死にたくなかったのだ。
あまりにもワガママな手のひら返しに、苦笑の一つでもしてやりたいところだけど、生憎とそんな余裕はない。
だから私は、助けを求めた。
「だれか……たす……けて……っ!」
乾いた口から漏れ出た掠れた声。
しまった。私にはもう、声を張り上げるだけの力が残っていなかった。
あまりにも弱々しいSOS。
ボスオバケが熊の威嚇ポーズになった。私に襲いかかる準備は無事に整ったようだ。
視界の端で黒いものが動いたが、それを確認する前に、私は固く目を閉じた。
そして私は、強烈な浮遊感に襲われた。
予想だにしなかったおかしな感覚に困惑する。というか、まだ私は生きてる?
袖を引っ張り上げられたような感覚。先程から耳に入ってくるこの音は……モーター音?
私は恐る恐る目を開ける。暗闇を割いて飛び込んできたのは、ボスオバケがさっきまで私がいたはずの場所を呆然と眺めながら立ち尽くしている光景だった。ボスオバケの黒い胸には、ポッカリと穴が空いている。
混乱した私が取り敢えず、一体何が? という素朴な疑問を口にしようとしたところで、不意に耳元で声がした。
「ったく。せっかく顔見せに来てやったってのに……どうしてこうなった」
男の人の声だった。
驚愕により一周回って冷静になれた私は、今の状況について分析を始める。
私は今、後ろ向きで肩に担がれている。
バイクに乗った男の人(仮)に。
それも、お尻に届くかどうかギリギリのラインを持たれて。
まあ、声だけで男と判断するのもどうかと思うが、それでも女同士でさえボディータッチなど殆どしない私が、知らない誰かに体を触られてどうなるかはお察しの通りだろう。
「きゃあああああっ!?」
「うわっ、ちょ暴れんなオイ! 前、前見えな――おわああああっ!?」
――高校生活はじめての春休み。私、白結衣は悪夢を体験しました。