オウランド紀13年ー8
東に広がる丘陵地帯に侵攻する部隊員の数は、前線基地に駐屯する人員の半数が動員されることになった。巨大な魔物によって哨戒部隊が三隊全滅したという情報は、ある意味ではオウランド大陸の中に取り残され、援軍が望めない状況である前線基地から、季節が落ち着いたという安心感を消し去り、ここが魔境であるという緊張感を取り戻させるには十分だったと言える。
「すごいですね」
調査団員のフォーカスが、進軍する部隊の多さに口を開けてそう呟く。
「こんな数で行軍したこと自体ないからな」
古株の調査団員が欠伸を噛み殺しながら答える。オウランド大陸へ人類連合軍が侵攻しているとはいえ、その排除すべき対象は敵軍隊ではなく、生息している魔物である。巨躯な魔物がいるとはいえ、駆除する際に動員されるのは精々二三部隊だけで、ここまでの大部隊で侵攻することはないし、その相手もいなかった。
「そういえば団長、聞きましたか?」
古株の調査団員が、シバに振り返る。
「港でブリングルスの討伐作戦があったそうですが」
「ああ」シバは気のない返事を返す。
「失敗したそうです」
「なに?」
思わず大声を上げたシバに、周辺の兵士の視線が集まった。シバの進言通り重装備に身を包んだ兵士たちは、日光を反射して鈍色に輝いている。その視線に気付かず、シバは調査団員の言葉に耳を傾ける。
「なんでも、港の近くにブリングルスが出たらしいので、討伐しようとしたらしいのですが、五十人からなる討伐隊を編成して、失敗したとか」
「ブリングルスだぞ」
思わず大きな声が出てしまったことに気が付き、シバは声を潜めて訊いた。
「幼生体に手を出したのか?」
ブリングルスは巨躯な魔物であるが、幼生体に手を出さなければ、逃亡を優先してこちらに襲ってくることはない。しかしながら、親よりも巨躯な幼生体に手を出すと、死に物狂いで襲い掛かってくる習性がある。もしや追い払うだけの目的だったものが、欲に駆られて幼生体にまで手を出したのだろうか。積極的に人間を襲う魔物ではないが、その巨躯から繰り出される攻撃行動は馬鹿には出来ない。撃ちだされる矢を厚い脂肪で受け止め、巨躯からの体当たりで人馬ごと踏みつぶされたり、長い首を振り回し、鋭くはないその歯で噛みついてくることもある。巨躯に見合った咬合力は人の骨なぞ簡単に噛砕く破壊力があり、決して油断ならないものなのだ。
「それは分かりかねますが、やはり魔物。油断してはいけませんね」
「そうだな」
頷くシバの耳に、前を進む隊の騒めきが届いた。
「魔物だ」
整然とした隊列が、襲い掛かる魔物の群れを迎え撃つ為に散開する。馬上で弓を構えた兵士の前に、盾を手にした兵士が並ぶ。襲い掛かってくる魔物は、地を走る二足歩行の蜥蜴に見えた。体長は三十センチほど。上体をくねらせて、俊敏に駆けてシバたちの居る隊列に近付いてくる。大きく開いた口には鋭い牙が見える。
「牙には毒があるぞ」
シバは愛刀を腰から抜いて、周囲の兵士に叫ぶ。
「足蛇だ」
足蛇は直立した蜥蜴に見えるが、正確には足の生えた蛇である。前足が無く、くねらせた体に不格好に生えた足で地面を走るのは、獲物を狙う時だけだ。集団で棲息する魔物ではないが、繁殖期になると相手を求めて集団になる習性があり、出産のためにより多くの獲物を求め積極的に狩りを行う。
「早いな」
馬上で弓を構えていた兵士がぼやく。
「弓より直接叩いた方が早い」
シバは馬から降りると、兵士の隙間を塗って跳びかかってきた足蛇の体を、愛刀の曲剣で薙ぎ払った。シバの愛刀は反りの強い大曲剣である。その刃の反りを利用して、相手を切り裂くことを得意とする武器だ。切り裂かれた足蛇の体は、跳びかかった勢いのままにシバの後方へ飛んで行く。
「調査団員は軽装だ。守れ」
兵士の何人かが、弓から剣に持ち替えて、馬を降りて調査団を守る様に布陣する。シバは兵士の背に隠れるように移動しながら、隊列の中を駆ける足蛇の場所を指差して注意を喚起する。足蛇は自身より巨躯の獲物は毒を注入して動けなくした後、肉を食うのではなく、傷口から体液を啜る餌袋にする。そして口などの潜り込める場所から体内に入ると、内側から溶解毒で肉を溶かし、その溶けた血肉を啜り食うのだ。兵士たちは鎧を纏っているとはいえ、皮膚をさらけだしている個所はある。そこを狙って跳びかかる足蛇を、時に自身から愛刀を振るって切り裂きながら、怪我人が出ていないかを万遍なく見渡して注意する。足蛇は十匹程で、難なく処理できた。危ない場面もあったが、怪我人が出なかったのはのは幸いと言えた。
「危なかったですね」
最古参の調査団員が、愛用の短刀を鞘にしまいながらシバに言う。愛刀を肩に担ぎながらシバは尋ねる。
「この大集団に、この数で襲い掛かってくるか?」
魔物はオウランド大陸だけに棲息する生物とはいえ、結局のところは生物である。自身が不利の状況で、獲物に襲い掛かる魔物は居ない。少なくとも、襲いかかるのならば不意を衝くか、単独行動をしている油断している相手を狙う筈だ。こんな集団に正面から襲いかかる危険を冒す必要はない。
調査団員の何人かは、シバの疑問に同じように首を傾げる。
「何かに追われていたのかもしれませんね」
「他に魔物がいる、か。ありうるな」
フォーカスの言葉に調査団員の何人かが頷いた。
「注意して進もうか。そう進言してくる」
どうやら行軍する軍列が、今の足蛇の襲撃で乱れてしまったらしい。その列の先頭で指示している軍幹部に目を向けて、シバはそう言った。なにせ今から未知の魔物の討伐に向かうのだ。警戒はしすぎて損、ということはない。
刃に付いた血を払いながら、愛刀を鞘にしまおうとするシバが、
「危ない!」
という声と共に押し倒された。
思いがけない方向からの力に地面に倒れたシバが、慌てて誰かが押してきた方向へと首を回す。そこには手を伸ばし、首筋に足蛇が噛みついている最古参の調査団員がいた。
「だん、ちょ」
ごぼり、と団員の口から血と息が溢れた。その時、ぎらりと足蛇の目が動くのを、確かにシバは見た。足蛇のぎょろりとした目が、シバを見て虹彩を縮小させた。手を伸ばした姿勢のまま、団員が力なく倒れる。口からは滝のように血を吐き倒れた、団員の首筋に噛み付いた足蛇が体をくねらせ、深く刺さった牙を抜こうともがいている。
「この」
フォーカスが慌てた様子で腰から剣を抜き、足蛇の体へ振った。倒れた団員に当たらないように何度か振ったその剣で、足蛇の体が切り裂かれ動きを止める。足蛇が死んだことを確認して、調査団員が倒れた団員の介抱に近付く。
「ダメか」
古株の調査団員は既に事切れていた。牙を抜かれた傷口が、ぽっかりと深い穴になって食道に通じている。足蛇の毒の影響か、その傷口の肉は溶け、独特の匂いを漂わせていた。
「溶解毒ですね」
「おかしいな」
傷口を観察していたシバが呟く。足蛇は通常、麻痺毒を使用し獲物を動けなくしてから、溶解毒で肉を溶かし啜る習性だ。獲物に噛み付く時に肉を溶かす毒液を使うことは少ない。何故ならば麻痺毒と溶解毒では、生成する場所が異なるからだ。牙の近くにある毒腺からは麻痺毒が生成され、胃の近くの毒腺から溶解毒が生成される。溶解毒は胃液に近い成分をしていて、吐き出す際には食道部にある粘液が溶解毒を包むような形で吐き出される。自身の溶解毒で自身の体を傷つけないために、食道の粘液で毒を包んで吐き出すのである。つまり、溶解毒を吐き出すためには、粘液に包まれた毒液を口の中に溜めて吐き出す必要があるのである。獲物に噛み付く前に、口の中に毒液を溜めるものだろうか。
「ありがとう。助かったよ」
シバは団員の瞳を閉じさせ、自身を庇ってくれたことに感謝の言葉を口にしながら、その手を胸の上で組ませた。他の調査団員も地面に膝をつき、遺体に最後の言葉を掛けていく。その調査団に、馬に跨った軍幹部が近づいてきた。
「何かあったのか?」
「足蛇の襲撃で調査団員が一名死亡しました」
「なんだと」
軍幹部は遺体を見て眉をひそめる。
「古参の調査団員でした。私を庇って亡くなりました」
「そうか。残念だったな」
「フォーカス」
「はい」
名前を呼ばれたフォーカスが、涙を拭って返事をした。
「彼を前線基地まで送って行ってくれ。遺体はそのまま解剖に回してくれ。その後は丁重に葬ってやってくれるか」
「了解です」
「何人か警備に連れて行くと良い」
軍幹部はそう言うと、近くの兵士二人に指示を出した。フォーカスと兵士の三人が遺体を毛布で包み、馬に背負わせ紐で括り付ける。前線基地まで近いとはいえ、魔物が潜む危険な路である。警備として兵士が付いてくれるのは有難いことだった。
「副団長が前線基地に残っているから、後は彼の指示に従ってくれ」
前線基地へと出発するフォーカスに、シバは最後にそう指示を出すと、軍幹部に頭を下げて、馬に跨った。
「出発が遅れて申し訳なかったです」
「構わんさ」
軍幹部は手を挙げると、大声で命令を発した。
「全体前進」
その声に隊列が動き始める。
「他にも魔物がいるかもしれません。注意するようお願いします」
シバが隊列の先頭に進もうとする軍幹部に声を掛ける。
「わかった」
「それと…」
馬を止めてシバに振り向く軍幹部に、シバは何か言おうとして、言い淀んだ。
「あ、いえ何でもないです」
軍幹部はそんなシバに不審げな表情になったが、何も言わずに馬を走らせ去っていった。シバはその後姿を見送りながら、自身の胸の中から湧き上がる違和感に、何とも言えない不安を覚えた。その正体は分からないが、このまま放置してはおけない不安感だ。
シバは死亡者が出たことで、沈痛な雰囲気を漂わせる調査団に目を向ける。彼らに何と声を掛けようか。そう考えた時、どこからか視線を感じた。隊列の中からではない。首を回して周囲を見回す。侵攻する隊列から左に見える木の上。そこに一体の魔物がいるのが見えた。首が長く目がぎろりと丸い、猿のような魔物だ。そのぎろりとした目が、こちらに向けられている。そう思った瞬間、魔物の姿が消えた。木に隠れたのだろう。
「団長?」
調査団員の一人が、馬を進めることを忘れているシバに気が付いて、声を掛けてきた。
「なんでもない。ああ。なんでもない」
シバはその声に力なく答え、馬を進ませた。