●「南方の悪夢2」
その集団は北を目指して進撃していた。
いや、彼らには方角という概念が無い。ただ魔力が強い方向が北だったというだけである。
それは千とも万とも見える膨大な数。その膨大な数が同じ方向へと進む風景は一つの巨大な生き物の様である。
彼らが求めるのは、その腹を満たす食料とそのついでの殺戮による快楽である。
普段彼らが居るのは薄暗い森か、果てしなく続くと錯覚するほどの広大な平原。
その環境下で自分達よりも下等な魔物――ゴブリンやオークを狩って腹の足しにしている。
彼らは常に不満であった。
少し北に上ればそこには数え切れぬほどの魔力の反応があるのだ。そしてそれらの多くが自分達より戦闘能力が劣る下等生物。
それらは聞く話では不味いゴブリンやオークに飽き飽きした彼らにとって至高の味であるという。
だが彼らは動けなかった。彼ら――魔物は人間よりもより強固な権力構造である。
権力とはすなわち『力』
圧倒的な力を持つ上位――人間が『天災級』や『厄災級』と称する――魔物により北上を禁止されていたのだ。
もちろん一体一体に言い聞かせるなんていう馬鹿なことはしない。ただ自身の体から発せられる膨大な意思を持った魔力によって下級魔物たちは心に頭にその命令が刻み込まれたのだ。
その命令は数百年に渡って続いていた。
上位魔物にとっては刹那に感じるだろうが、より寿命が短い彼らにとってはあまりの長さであった。
だからといってその命令を破るような愚かな魔物はいない。
上位魔物とは自分達なぞ反抗もすることなど出来るような存在ではないのだ。
多くの同胞が北上を夢見ながらその生を終えていった。
そして彼ら数万に上る魔物たちはその不満を心に秘めて数百年を過ごしてきた。だが突如としてその雌伏の時は終わりを告げた。
『三つ目の暗闇が訪れた時、戒めを解き殺戮の限りを許す。殺せ……楽しめ……そして腹を満たせ』
その言葉が、彼ら周辺のすべての魔物たちの脳内に響き渡った。
その声は彼らにとって始めて聞く声であったが、それまで彼らを戒めていた上位魔物よりもさらに強い力をもっていると直感的に理解した。
より強きものからの命令。それはそれまでの束縛を解くには十分。
そして三つ目の暗闇――人間の暦で王国歴三百十四年十一月十六日夜。
十数万にものぼる魔物たちは、その言葉に従ったのであった。
――――
あの日から暗闇が何度訪れただろうか。三十回は訪れた気がする。その期間は彼らにとって至福の時であった。
頭にしか毛が無く、色とりどりの皮を身にまとった奇妙な姿の獲物。
それらはたいした抵抗も出来ず、ただ逃げ惑うばかり。そんな獲物を狩り食らう。
その味は、聞いて想像していたものよりも遥かに上。特に体の小さい獲物――子供――や毛の長い獲物――女性――は柔らかく特に美味であった。
毛の短い獲物――男性――は、時たま美味のもの――髪の短い女性――もあったが、多くが筋張り味が落ちる。
それでも彼らが普段食べていたゴブリンやオークに比べるまでも無い。
そして彼らは南方で獲物を食べて食べて食べつくした。そして粗方食べ尽くした後、彼らは好き好きに魔力の反応がある方向に進撃を始めた。
その進撃は幾つかの集団となり北へ北へと進みだす。元々が数万という膨大な数なのだから幾つかに分断したからとはいえその脅威はなんら変わらない。
その様は、通った場所の農作物を壊滅させる蝗の集団のようであった。
そんな彼らもここ最近は少しばかりの不満を感じていた。
北へ行けばいくほど獲物の数が減ってきたのだ。見つけたとしてもそれは老いた獲物――避難で逃げ遅れた老人――ばかり。
味も落ちるが何より身が少ないのだ。
なのでここ最近はこの集団を維持するために獲物以外の動物――牛や馬――を食らうことが多くなっていた。
中にはこの集団内で最下層になるゴブリンやオークを食らっているものもいるらしい。
だがその不満ももう直ぐ解決する。
彼らの行く先――ルーティント領には彼らの腹を満たすには十分な魔力のきらめきがあるのだから。
そう、そのきらめきまでもう少しの場所に彼らは来ていたのだから。
だが彼らは知らない。
ここまで抵抗らしき抵抗を受けてこなかったから人間をあまりに見くびっていた事を。
待ち受けるのが、『ルステリアが如き誇り持ちし番犬』の名誉ある異名で呼ばれ、バルクス方面の魔物たちに恐れられる集団である事を――
――――
「いやはや、なかなかに楽しき状況になってきたのぉ」
アルーン要塞に迫りつつある魔物の群れを俯瞰した映像を見ながら老人は微笑む。
この世界のモニタリング者にして、エルが神と呼ぶ存在。その人である。
エルスティアの何気ない行動がバタフライ効果となり予想以上の速さで人類滅亡回避となりそうであったが、再び動乱へと状況が動きつつあることに満足そうに頷く。
「やっ、邪魔するよぉ」
そんな神は背後から突如として声をかけられる。
神が振り返った先に居たのは、少年。十歳くらいの中性的な顔つきで男の子にも女の子にも見えるがその顔は不思議なほどにインパクトが無い。
美形なのは確かなのだが、目を瞑って思い出そうとすると思い出せないのだ。
「@:w。k*;#ですか。ここに来られるとは珍しいですね。担当分のモニタリングは良いのですか?」
老人はその少年に普段とは明らかに違う口調で言う。だがその少年の名らしきものを聞き取ることは出来ない。彼らの名前は音として認識することの出来ない高次元の発音であるからだ。
「警告だよ。介入しすぎ」
そんな老人に少年は笑いながら短く言う。だがその言葉に老人は凍りつく。
二人の姿はまるで祖父と孫。だがその関係は著しく異なる。少年の方が老人よりも圧倒的に立場が上なのだ。
「そ……れは」
「まぁ君の気持ちも分からなくはないよ。今までこれほどまでに歴史が動いたことは無かった。
僕の見立てではこのまま行けば二十年もかからず滅亡を回避していただろうね」
それは老人と同じ見立てである。
「だから彼に新たな試練を与えようと介入した。そうだよね」
「はい。その通りです」
実際は半分は嘘である。このままあっさりと終わらすことが娯楽としてつまらないと思ったのが理由でもあるのだから。
少年はそれを恐らく見透かしながらもあえて言わない。 何だかんだと少年も老人と同種だからだ。
「けどね。それはそれで構わなかったんだよ。僕たちの仕事はその可能性を観察すること。違ったかな」
「いいえ。その通りです」
その老人の答えに少年は笑顔で頷く。
「うん、分かっているなら今までのことはもういいや。今後は直接的な介入は禁止。ルールで決まっていた介入のみに留める。いいね」
「はい。かしこまりました」
「うんうん、それならよし。それに……」
「それに?」
老人からの返しに少年は笑う。
「君の介入も無駄ではなかったのさ。おそらく今回の事で奴らは気付くよ。
僕たち神が『例外的に』介入するルールの一端にね」
例外的な介入……それは数千年前。奴ら――魔人族を壊滅に近い状況まで追い込んだ神族と魔人族の戦い。
生き残った魔人族が、神族の介入を避けようとこそこそと動いている事すらも少年達は楽しんでいた。
その例外を避ける、実際には単純で簡単な方法。
「わざわざ生かしておいてやったんだ。僕たちの手の上で今まで通り無様に踊ってもらわなきゃつまらないもんね」
そう少年は無垢ゆえに残虐ともとれる笑顔を見せるのだった。