●「草」
バルクス侯爵家侯館の執務室の隣には、執務長官であるアリスのために一室が与えられている。
その部屋の四方の壁はドアと窓を避けるように本棚が隙間無く置かれそこには書籍や資料がぎっしりと詰まっている。
そのどれもが機密性の高い資料ゆえに、盗難されぬようにありとあらゆるトラップ――ベル特製――が張り巡らされている。
そのためこの部屋の主であるアリス以外では何名かを除き入ってくることはない。せいぜいがアリスを呼ぶために部屋に一歩入ったところまでである。
だからこそアリスにとっては自分のもう一つの仕事……人によっては顔を顰めるだろう権謀術数を行う場所として最適である。
「……そうですか……なるほど。ありがとうございます。それでは引き続きお願いします」
そんな一人の空間にも関わらず、アリスは独り言のように呟く。
確かにアリスには、執務中に自分の考えをまとめるために独り言を言ってしまう癖はあるが今のはそうではない。
これこそが、執務官として仕え、今や夫となったエルにさえも内緒にしている彼女の能力である。
精神感応。つまりはファンナ・ピアンツ・メルと同じ能力である。
だがアリスの持つ精神感応はファンナとは桁が違う。
ファンナをはじめとする精神感応者の多くは、感応可能な人数は一名である。それでもその有効性ゆえに重用されるのだ。
だがアリスの場合、その対象は数百に上る。いや、実際に限りがあるのかも分からないといったほうがいいかもしれない。
これぞまさに『ギフト』の力であろうとアリスは考えている。
政を行う者にとって『情報』とは生き物と等しい。『情報』に必要なのは正確さと鮮度。
バルクスという中央から二ヶ月も離れた場所では鮮度の面であまりにも大きなハンデを背負っているといってもいいだろう。
けれどこの能力によってそのハンデは解消。いや、よりリアルタイムで情報を手にする事が出来ると言う意味では圧倒的に有利といえる。
一つ問題があるとすれば、同時に二人以上と精神感応をしてしまうと二・三時間ほど頭痛に悩まされることである。
それゆえに緊急時を除いては、定時連絡として、同時に精神感応をする事を避けるようにしている。
本来は精神感応であれば言葉にする必要は無いのだが、一人のときについ呟いてしまうのはアリスの癖である。
この能力を利用してアリスは、執務官になってから……いや、それ以前から少しずつ諜報網を広げていった。
そして足掛け八年の歳月により王国のみならず帝国、連邦に至るまでの情報網をほぼ完成させていた。
その大きな手助けに成ったのは、商人である父親の人脈である。
商人は王国だとか帝国だといった国の縛りに束縛はされない。それが儲けになるかどうかが大事なのだから。
そして全国各地に存在する商人連もライバルではあるが、大型案件の場合に複数の商人連が協力することも多い。
その点で父親は王国内のみならず帝国・連邦にも人脈を作り出していたことには感謝しかない。
グエン領については残念ながら伝手が無いので構築できなかったのは致し方ない。
今後、レスガイアさんを通じて構築していく事を検討している最中である。
そして各国の要所に潜入させた『草』から定期連絡を受けていたわけである。
かつてエルに提案して王国内の八箇所に対して執務官としてスパイを送り込んだことがあるが、アリスにとってはそれは隠れ蓑でこちらの情報源こそが本命である。
最愛の夫であるエルにも黙っていることに少しばかりの罪悪感を感じるが、当主であるエルが瑣末な全てを知っておく必要は無いのだ。
執務官たちがそれらの情報から不要な部分を取捨選択し当主に報告すればいい。
それを出来るだけの信頼関係の構築は出来ているのだから。とアリスは自分を納得させる。
自身の能力をエルに黙っているのもエルが常に執務を行っていることになるアリスを心配する事を避けたいという思いが強い。
夫とはいえ当主と部下であることもまた真実。当主には心配をかけたくないのだ。
「ハァ……」
一通りの定期連絡を聞いたアリスは、その情報を頭の中で整理した後、一つため息を吐く。
そこに扉をノックする音が部屋の中に響き渡る。
「アリス、いいかしら?」
「クリスですか、どうぞこちらへ」
その扉から入ってきた女性――クリスにアリスは笑顔を向ける。だがその笑顔にはやや疲れが見える。
「それじゃお邪魔するわね」
そう言うクリスは、しかし真っ直ぐにアリスの座る席へは向かわない。
時には斜めに、時には横にと移動しながら徐々にアリスへと近づいていく。
これこそが、この部屋に仕掛けられたトラップを発動させない道筋。アリスもやや大げさな細工をしたものだと思うが置いてある情報が情報だけに仕方がない。
「それで、何かあったの?」
アリスの下までたどり着いたクリスは近くにある――愛用する椅子に腰掛けながら問いかける。
「さきほど、王国の『草』からメイリアがファウント公爵と接触したと報告が」
「そう、メイリアが……」
アリスの答えにクリスが応えた後、僅かばかりの沈黙が広がる。そう。クリスはアリスの能力を知る数少ない人物である。
「きっと、本当の事を伝えたら私はメイリアに嫌われるんでしょうね」
アリスは自嘲気味に口を開く。
「それを言ったら私も同罪ね。私たち二人でメイリアに辛い思いをさせる道を選んだのだから……」
クリスはアリス、そして自分自身に言い聞かせるように口を開く。
『キスリング宰相に対する暗殺の動きあり』という情報は、実は事件の二日前に『草』からの情報により掴んでいたのだ。
その裏には『深紅』と呼ばれる謎の組織が見え隠れすること。複数の草からの情報を総合した結果、帝国・連邦が今回の件には絡んでいないこと。そして……関係者の中にメイリアの父親であるフィレンツが居ることも。
ファウント公爵がこの情報を手に入れることが出来なかったのは仕方が無いだろう。
貴族社会では取るに足らぬアクス男爵家の動きを監視していたからこそ手に入れることが出来た情報だったのだから。
アリスとクリスの人脈を駆使すれば事件は回避できた可能性があった。だが、二人はあえて動かなかったのだ。
貴族体制に恨みを持つアリスはともかく、元王女であるクリスにとっても王国が未来永劫続くなんて考えていない。
いつか崩壊……いや、すでに崩壊が見えつつある今。二人はどのタイミングで王国が分裂することがよりダメージが少なく……バルクスに利があるかを念頭に動いているといっていい。
そして今。帝国は王国に先んじて内乱の様相を呈してきた。『草』からの信頼度の高い情報ではこの内戦は数年は続くだろう。
連邦も先の王国との敗戦による内部疑心により外に目を向けれぬ状態。念のためにその疑心がより膨らむ種も仕込んだ。
内憂外患の『外』が『内』に目を向ける余裕がない。今がタイミングとしては最適であろう。
(期せずして帝国反乱軍のベルセリトと同じ事を考えていたわけである)
そこにあってキスリングという英傑は、王国を半死半生のまま長期にわたって生き長らえさせることが出来る存在である。
だがそれでは困るのだ。ゆえに此度の事件で一時的にでもご退場いただこうと判断したのだ。
とはいえ知己のクリスは勿論、アリスとしてもキスリングが命まで失うことだけはなんとしても避けたかった。
一度分裂し再度統一された後、その力が必要となる人物であることは疑いようも無い事実。
だから中級治癒魔法が使える魔道士を御者としてもぐりこませてその命を救ったのである。
今こん睡状態にあるのは、追加で使用したある魔法による影響で仮死状態に近い状況になっているだけである。
まさか治癒魔法で助け出した者がそのような物騒な魔法も使ったとは誰も思いもしないだろう。
キスリングという英傑を失った中央で、後継者争いで劣勢にある第一王子派・第二王子派・第一王女派は必ず動き始める。それこそが狙いなのだ。
アリスとクリスが思い描くは第三王子イグルスによる再統治――その情勢にのってバルクスの権力拡大すら視野に入れている。
それはいずれ再統治された王国と…………。
そんな中でフィレンツ男爵の存在。その事に一瞬とはいえ動揺したことは嘘ではない。
だが二人は選んだのだ。メイリアから『アクス男爵家』という膿を取り除く絶好の機会だ。と。
二人もメイリアの頑固さはよく知っている。『アクス男爵家』と絶縁したという誓いを彼女は突き通すだろう。
けれど彼女の子供はどうだろうか。孫はどうだろうか。
彼らはバルクス辺境侯一族であると同時にアクス男爵一族として対外的には見られるのだから。
『アクス男爵家』が存在し続ける限り、その懸念は拭い去れることは出来ない。
アクス男爵家が浪費癖を改心して素晴らしい貴族となる可能性はある。けれど謀略はごく僅かな可能性を楽観的に考えることは出来ない。
メイリアがアクス男爵との最期の時を迎えられるように整えたのは二人の僅かばかりの罪滅ぼしでもあった。
「私たちは止まるわけにはいかないの。もう動き出したのだから」
クリスは、置かれた紙にアリスが書き込んだ一文に視線を送りながら語る。
「はい、私たちにとって重要なのはバルクスの……エルスの事」
アリスも一文へと視線を送る。そこに記された一文にはこう書かれていた。
『第二十四代国王 アウンスト・エスカリア・バレントン 二月十八日 御不予』
と――――