●「真の実力を示す時3」
アブソリュートゼロ――絶対零度
熱振動する原子が完全に止まる摂氏マイナス二百七十三度を意味する言葉であるが、クイ自身は正直すべてを理解できてはいない。
そもそも彼にかかわらずこの世界の人類種にとっては、温度や気温というものは個人の体感でしかない。
『今日は暑いね』や『寒いね』という日常会話は行われはするものの、それは数値を基にしたものではない。
魔法技術に重きが置かれた結果、科学技術の発展が遅れた人類にとって温度や気温というものが科学的見地で考えられたことは今までなかったからである。
基本的に温暖である王国において水が凍る――詳細に言えば一気圧で水が氷になる温度――ゼロ度を味わう経験が少ない。
氷結魔法も詠唱した時点で既に氷であり、溶け出す前に消滅するため、沸点の発想はあっても融点や凝固点といった発想を持つ者は少ない。
さらにいえば電子顕微鏡が存在しないので『原子』という言葉そのものが理解するのが難しい。
そんな中でエル――正確には前世の書物を解読したベル――により温度計が作られ、バルクス辺境侯館に設置されたことで数値として視認された結果、温度というものについてはイメージが出来るようになった。
そこから『何故マイナスがある』『そもそもゼロ度って?』といった疑問は、兄であるエルから教えてもらったのだ。
それでもマイナス二百七十三度というものをイメージする事は、元地球人であるエルもアニメやゲームの中で聞く程度でしかない。
そもそも絶対零度を再現することは前世でも不可能なのだからクイにしてみればさらに理解は難しい。
エルにとっても極限の寒さを言語としてイメージしやすい『絶対零度』として命名したに過ぎない。
なので実際に絶対零度の温度になっているわけではない。厳密にいえばマイナス九十度ほどである。
それでも地球における最低気温が南極大陸で記録されたマイナス八十九.二度であることを考えれば人類がイメージできる限界といえよう。
ゆえにこの魔法を使いこなせるのは、現時点では温度へのイメージが多少なりあり、魔力消費に耐えうるシュタリア家周辺の人間だけである。
――閑話休題
クイによる詠唱は、その巨体を揺らしながら迫るアストロフォンを巻き込む形で青白く光る直径五百メートルにもなる巨大な魔方陣を作り出させる。
そしてその魔方陣を中心に季節外れかつ異様なほど高密度な猛吹雪が発生する。
その猛吹雪にさらされた地表の草花は瞬く間に氷結し、地表の水分は霜柱へと姿を変え、空中の水分も氷結しダイヤモンドダストを発生させる。
それは強靭な生物であるアストロフォンであろうと避けることはできない。
氷塊をぶつける一種の物理攻撃である氷結魔法に対しては高耐性を誇るが、一定エリア内の気温をマイナス九十度にするこの魔法は、変温動物である亀をベースにしたアストロフォンに対して絶大の効果を発揮した。
四足は接触した大地に張り付き、瞬く間にその突撃の勢いを奪い去る。足が止まった先に猛烈な冷気は瞬く間に外皮熱を奪い去り、体温すら奪い去っていく。
そして外皮は瞬く間に氷に覆われていき、僅か数分後には完全にその巨体は氷漬けになる。
通常の生物であれば、体内の水分氷結による体積膨張により、細胞が破壊され死へと向かう。以前ウォータープリズンで捕縛されたレーゲンアーペであれば同様に死んでいただろう。
だが通常の魔物とは一線を画す遥かに強大な生命力を誇るアストロフォンはその生命を維持したまま活動を止め、一種のコールドスリープ状態へとなる。
――エウシャント伯爵は、既に息絶えていてある意味幸せだったのかもしれない。
主都コーカススにいた住民や貴族たちの多くの命、そして自身をも犠牲にして生み出した起死回生ともいえる四体の魔物が、僅か一名。たった一度の魔法により損害すら与えることもなく完全に無力化されたのだから。
そしてその一名はその光景を見ながら隣に立つ女性に、まるで捨て犬を拾ってきたかのように呟く。
「……えっと、四体とも捕縛出来ちゃったけど……四体とも飼うってのは……ダメ……だよね?」
と――
――――
四体のアストロフォンのうち小型の二体を砲撃により綺麗に破壊した後、残り二体を『クインガルドの穴』へと輸送する作業を完了させてバルクス軍は、王国歴三百十七年四月十日に主都コーカススへと入城する。
奇しくもそれは獅子鷹戦争のナルコレクス川において、イグルス王子率いる『南軍』がベルティリア王子率いる『北軍』を改良型大砲『アストロフ』を用いて潰走させた同日である。
そこに広がっていたのは、住民のじつに八割が消滅した死の町。
クイとリスティはコーカススに本陣営を設立し、北部貴族連合の残軍討伐に赤牙と青壁騎士団を派兵。それ以外の騎士団については、残住民の慰撫と治安維持を命令する。
すでに大半の兵を失った北部貴族連合は、抵抗する力もなく次々と投降。
王国歴三百十七年六月二十日をもって、エウシャント伯含め北部全土の平定を完了する。
これをもってバルクス辺境侯は、王国の西部全てを領有するにいたる。
西部の敵対貴族への警戒が不要になった『南軍』もそれに合わせるかのように北へと順調に軍を進めていくことになるのであった。