第八十七話 魂の緒
本話では雄洋丸事件についての解明を描いてはいません。
正確でもないと思います
雄洋丸事件について詳しく知りたい方は、三ノ城先生の 「はるな・その手に負いし咎の記憶」を読む事をお奨めします!!
「痛い…」
海と空が一枚のガラスのようにつなぎ合わされた仲に一つの波を切る影。
護衛艦『ひえい』の魂はヘリデッキの最後尾、護衛艦旗の下で自分が散らせた後につづく泡の花を伏せた瞳で追っていた。
「帰るのも…いやだわ…」
自分より2日前、『きりしま』は先行して日本に向かった。
被災地域のもっとも遠い沿岸部での救助活動をしていたため、誰にも挨拶をする事なく先に帰ったのは訳があった。
長く続いたインド洋派遣任務、その帰りにこの大災害に直面しいち早く活動を開始した『きりしま』だったが長すぎた派遣のために船体には細かな修理が必要となっていた、また重なる年次点検もすでにずれ込んででおり、本来ならば『ひえい』の到着を持って交代する予定だった
しかし交代艦艇として当地に到着した『ひえい』は体調不良(機関不良)を初日から見せるという状態。
助けに向かった先で、司令艦が疾患を見せるという事態に護衛艦『きりしま』は即時の帰路には入らず肩を支えるように共に働くという形を取り、帰国の途への道をより遅らせていた。
随分と目下の者に世話をかけながら、不調を騙して働いてきた『ひえい』だったが、やっとの帰国もそれ程嬉しいというものではなかった。
眉根を寄せ、伏せた目ながらも苦悶を浮かべる。
風は緩く北緯をあげて、近づく冬の国の冷たさを頬に伝えていた。
今日は、髪をほどき眼鏡もしていない『ひえい』は海の波間に、歪む姿を写す月に目を向けると。
「貴女、この海を覚えている?」
そう自分に問うた
姉を思い出していた。
糸目の柔和な顔に、涙を浮かべていたあの日の姉を。
護衛艦『ひえい』の誕生
昭和48年8月13日、石川島播磨重工東京工場にて進水
輝きの殻を破って産まれた自分に姉である『はるな』が言った言葉は深く心に刺さっていた
言葉も、その生き方も……全てが対立するように目の前に現れた瞬間だった
波を高く変え、日本に近づく潮
夏の風が終わり、頬をうつものに冷たいものを感じながら目を閉じると『ひえい』は思い出の中に落ちていった
自分が誕生した年の事、あの時目の前にあった出来事には鮮烈な色があった
風に揺らされる髪とずっと続く波の音をききながら、繰り返し繰り返し……なんどもたどった記憶の先に神経を尖らせてゆく
あの年……どこか、緊迫の糸を張ったような年だった
亀裂の向こう側、目を開いた世界の第一印象は痛みの海への帰還と覚えていた
自分は軍艦として産まれたという事実を痛烈に叩きつけた出来事
痛みへと続く最初の記憶
勇ましい音楽と共に海に落ちていく自分の前に現れた魂
何も分からないまま、広がった世界に恐怖して裸の体を屈した
弱々しく座り込み、海へと足を浸した時に姉『はるな』の手が『ひえい』の手を取った
閉じたようにも見える薄い笑い目と片口に張りの入った笑みは、今にして思えば無理に笑顔を作っていた証だった
「……この……に、誕生おめでとう『ひえい』……さん私の……」
海を進む自分の体と、奏でられる勇ましてマーチでかき消された問い
くす玉とたなびくカラフルな紙テープの上で、あの時『はるな』が言おうとした言葉は今ならばわかる
頬うつ冷え始めた風に手をかざす、髪はなんども揺れ動いている
「あの時……そういったのよね。「再びこの国に、誕生おめでとう『ひえい』姉さん、私のお姉さん」……」
ずれた問いだった
その場で座り込んだまま、相手の顔を見た時、自分という個の誕生はそれ程望まれたものではなかったのか?そう気が付いてしまった誕生だった
そう思わなければと考えてしまう程に姉『はるな』の言葉は奇怪で不快だった
自分より先に生まれ、護り船として働いていた姉は後に産まれた自分に帝国海軍時代の序列に添った姉の姿を自分に追っていたという事
誕生から数ヶ月の間、山のように運ばれた本はどれも前の大戦の時のものだった
「ねえ、思い出さない?こういう事?」
モノクロの写真を指差しては微笑みながら、でも真剣な眼差しで聞く姉をいつしか恐れた
帝国海軍の船はいない、みな海の屍となった
そんなものに自分を照らし合わせようとする姉と、そういう職務の元に自分が産まれ、いつモノクロームの写真と同じように無残な最後を向かえるのかという恐れだけが育ち続けた
そこからひたすらに歪んでしまった二姉妹
「私に……何を見ていたの姉さん」
1974年11月9日
その惨事は東京湾で起こった
海洋の道として多くの船艇の出入りを行っている東京湾の中で二つの船が激突するという事件は、12月へ向かう穏やかな活気の中で起こってしまった
その日、東京湾には薄く白い猛気が水の上を走り、視界は約2海里程度だったと記録されている
冬に向かう気温の寒さに反して、水は温かった。それが帰国の途につき後一歩のところを走る第十雄洋丸の船員の気持ちを逸らせていたのかもしれなかった
前年制定された海上衝突予防法によりエスコートとして雄洋丸の前を走ったおりおん1号は身振り手振りで12ノットを超えて走る彼女を諫めていた
「そんなに慌てなくたって港はにげませんよー!!」
大きな手袋付きの手をブンブンふっておりおん1号は速度を緩めよと発していたが
「わかってるんだけど……なんかみんな早く帰りたいらしいしー」
雄洋丸は、人の気持ちに介入して過ぎていた
それが彼女の隙だった
もっとお互いに注意が必要だったところをはぶいてしまっていた
事故には順序があったが、起こってしまった後の出来事は一瞬の業火として広がり、瞬く間に人を焼き尽くした
東京湾で二つの船はぶつかり火柱が危険の警笛を湾の隅々にまで響かせた日
『ひえい』は石川島播磨重工で竣工に向けて艤装の最終段階も大詰めに入ったところにいた
その日11時38分に起きた事故が対岸である横須賀や、千葉方面に伝わるのに時間はかからなかった
東京湾のどこにいいても黒く濁った煙の山は見えていた
全ての船達は恐れに身を震わせ、錯綜した情報の中から出された答えに怯えた
「タンカーと貨物船がぶつかったらしい、タンカーが満載にしてたナフサやパーム油に引火したらしい」
『ひえい』の元にもニュースは届いていた
工場の中にいるタグボート達にも緊急通達が走っており
「もしもの時は船を引くための準備を」と海上保安庁の指示を待つ事なく仕度は進められていた
緊迫する時間の中『ひえい』の目の前を走っていく者達
海を突っ切る矢のように走っていく海上保安庁巡視船達の後に続くタグボート
「急いで!!」
矢継ぎ早に出て行く彼女達の背を見て、事態の収拾を祈った
だけど、それは長く続く苦難の参道だった
事態の収拾という行動は戦後の日本を襲った災害として海難事故としてはもっとも大きく……そして長く続く道となっていった
横須賀で待機し、動向をうかがうために静かに耳を立てていた護衛艦達に指令が下ったのは11月22日の事
山を赤くした景色に自分が海行く姿を心待ちにしていた『ひえい』は、心の片隅に渦巻いていた小さな不安と向き合っていた
自分達が非情の時の船であるという現実を、確認させられたという気持ちと
戦争が仕事であるからして、こういうものとは向き合わないという逃げる思い
いや
もっと深い闇が足下に蜷局を巻いている中で姉『はるな』の出動要請が出た事を聞いた
「姉さん……行くんですか?」
呆然と聞いた
護衛艦が出動するという事は………炎上している船の活路はもうないという事だった
沈めるために、相手を討ち滅ぼすために、持てる力を使う
相手を殺すための出撃と聞いて咄嗟に『ひえい』は縋った、『はるな』の手を掴み首を振って
「いかないで………殺さないで、そんな事が仕事だなんて………決めてしまわないで」
姉がその手を奮ってしまえば、自分達護衛艦はこれからくる災難に対して常に前を行く者になってしまう
もうそんな船は必要なくなった、戦争に負けて、でも仕方なく存在する事になった自分達は「居る」という飾りでいいんじゃないのか?
『ひえい』は停泊の間に学んだ事で、自分達が実につまらない存在として生かされていると考えていた
国民に望まれていない護衛艦、しかし居る必要はある
だから生きているだけでいい
割り切っていけばいいとさえ考えていた矢先の出来事だった
姉の最初の言葉の意味を遡るのならば、かつての者達との絆を大切と思う心を持っていなかった自分は救われていたのだとさえ思っていた
なのに今、目の前を戦に赴く武人のように立つ姉『はるな』
引きつった心は掴む相手の手に接着されたようにしがみついて
「姉さん………船はいずれ死ぬ、それは誰にだって来る最後。でも………こんな最後はあんまりでしょ、私達が武力を持ってそんな事をする………それを証明しなくたって良いことでしょう、だから」
きつく結んだ唇と、青い空に流される薄墨のような帯の果てにある戦場を見る姉に頼んだ
「行かないで、行って、相手を打つなんて事はしないで………役になんてたたないで」
「間違ってはいけない」
涙を浮かべ必死に縋る『ひえい』の手を『はるな』は軽く振り払った
背筋をただし、煙る空を見る姿に『ひえい』は引いてしまった
手を出して相手を掴めば、自分に痛みを伴う電気を通してしまう。そう思ってしまうほどに『はるな』の姿は屹立とし強く感じた
「相手を撃つ事、それこそが今の私の責務なの。かつて帝国海軍の姉達がそれらの仕事をしてきたように、私も立派に責務を果たすのよ」
払われた手の下で、時間を止めて涙にくれる妹をきつく睨んだ瞳
「どの船にもできない事、それを請け負うのが国家の頂点たる船である私達の仕事。『ひえい』これから司令職に就く者として私を良く見ておきなさい」
手に現した護衛艦旗
大きく揺れる旗を背に『はるな』は声を挙げた
「『たかつき』『もちづき』『ゆきかぜ』共に重責を負い、海に向かいましょう!!」
慌ただしく人は動き、『はるな』の艦体は港を離れていく
「姉さん…そんな恐ろしい事はしないで…」
自分の両肩を抱え、震えて小さくうずくまった『ひえい』はこの後に事件の顛末を『はるな』から聞く事を長く拒否した
姉が鬼神である事を知るのを恐れたからだ
だが、この事件は海上自衛隊のみならず、国家の一大有事に対するあり方、対処の仕方を改める機会となる
それ故にその日起こった出来事は全ての船の耳に、言葉や噂となって語られた
当然『ひえい』もその時の事を知らずにはいられなかった
「…燃えてるわね、あれは消えない」
遠巻きながらも果敢に消火活動をつづける『ひりゆう』達の姿を確認した『はるな』は艦隊として揃った者達を前にして
「滅して相手を葬らねばならない、各々慎重の上に慎重に、命令を待ち国家の期待に応えるように」
その手には帝国海軍艦魂が持ったといわれる海軍刀があった
黒色仕立てに金の装飾をつけた儀礼刀の束を両手で持ち、燃える雄洋丸を睨むと
静かに、落ち着いた声で続けた
「私達は、今より雄洋丸の海没処分を行う。最初の一手として5インチ砲にての艦砲を行う」
波は凪いでいたが、波間に香る臭いは異常なものだった
黒ずみ、粘着質を見せる波の中に死に絶えた魚の姿を確認すると『たかつき』は嗚咽を漏らしたが、気にも留めない『はるな』の声はつづいた
「艦砲の目的は、タンク内部に残ったナフサ、及びプロパン剤の延焼を得るための砲撃である。これ以上の汚染物質が広がる事を防ぐため積荷を出来うる限り燃やし尽くす」
「そんな事をしたら…今でもあそこで苦しんでいる雄洋丸はどうなりますか?」
『たかつき』は、つい声を出して半ば反抗ともとれる質問をしてしまった
揃った護衛艦達の足下は震えていた。気丈さを奮っていたのは上半身だけで、とても芯を通して自分を立てていられる者などいなかった
だが『はるな』だけは違った
現場に近づくほどに、薄く糸のようだった目は開かれ、黒煙逆巻く船の姿をくまなく確認するように動き回っていた
「雄洋丸を沈めるには手順がいる。一度には沈められない、かの船は日本国最大のタンカーに部類するものだ。その積荷の量からいっても湾口を出たとはいえ、この海と近隣の全てを汚染できる程のものがある。まずはその荷を焼き、出来る限り軽くして波に乗せる。陸地からさらに遠ざける作業を同時に遂行させるためにも必要なのは最初の砲撃である」
冷徹な声の前に背筋は凍る
これから相手を殺さなくてはいけない、それも戦争をして相手を憎むという要素があっての攻撃ではなく…衝突火災という事故の果てに救えないという判断をされて
なのに簡単に息の根を止める事はできないという作戦は、受け入れがたい苦痛だった
「『なるしお』の水雷で一度に沈める事はできないのでしょうか?ここからでも彼女の………声が聞こえます。早く楽にしてやる事は出来ないのでしょうか?」
もうもうと巻く黒い煙の轟音の下に、雄洋丸の声は続いていた
悲鳴とも嗚咽とも取れぬ声はときより助けを呼び続ける確たる声として聞こえた
情けがあるのならば、延焼に苦しみ続ける雄洋丸をひと思いに沈めてやることはできないものかと、『もちづき』は詰め寄ったが
「それは最後の仕事よ」
『なるしお』の到着は遅れていたのもあるが、作戦に従い準じ艦砲をするという『はるな』の姿勢はくずれなかった
青空を濁し続ける煙の根に横たわる死に体の船を指差して
「砲撃はこれより10分後に行われる。各々間違う事なく仕度を調え待機せよ。私は挨拶に行ってくる」
最早雄洋丸を見る事さえ苦痛の護衛艦達は耳を疑った
「挨拶とは?」
「彼女によ、これから砲撃をする旨を伝えないといけないでしょう」
そういうと『はるな』は光の輪を現して姿を消していった
この後に従った護衛艦は『たかつき』だけだったが、直後のこの時はただ呆然と途立ち尽くしていた
死を宣告するために相手の前に立つという覚悟をまだ誰も知らなかった
黒煙の根となった雄洋丸は波に押されて、力なく揺れながらも火の手が弱まる事はなかった
「………誰か………お願い………助けて………」
雄洋丸の魂である彼女は、最早女という姿さえのこしていないただの棒きれのようになり果てて焼け付いた鉄の船体に張り付いていた
髪はとっくに失われ、目玉の縁までを黒く焼いた顔の輪郭が空に向かって何度も助けを呼ぶ
声とも唸りともいえない繰り言が煙る景色の中に続いていた
「………貴船に聞く。日本船籍LPG・石油タンカー「第十雄洋丸」。その魂殿に違いないか?」
熱で張り付き、仰向けに倒れたままの彼女の前に『はるな』は立っていた
毅然とした目が、黒く焼けて炭化した輪郭の中に動く目と視線を合わせて
「違うという事はないでしょうね。この有様の中にいる魂は貴船だけだ。声に成らぬのならばただ頷いてほしい。そしてこれからいう事を良く聞いてください」
努めて抑揚を押さえた『はるな』の声は自分を見る目から顔をそらしたりはしなかった
後を継いでやってきた『たかつき』には耐え難い地獄絵図の中で『はるな』は自分達がこれからおこなう職務を淡々と語り続けていた
「これらの順番に基づき貴船に対して艦砲を行います」
「たすけて!!」
焼き切れ、喉を動かす皮膚に亀裂が入り赤い汁をあぶくとして出す中で雄洋丸は湿り気など一滴もないひび割れた声を挙げた
「お願い…助けて、私、火が消えればまだ働けるの、丘に引っ張っていってよ、私今はこんなだけど…まだ働けるの…」
口から黒いオイルのような血を吐き、無くなった鼻の跡からも拭き零す
生への葛藤、というよりも希望に縋ろうとする雄洋丸
確かに今はこんな状態だ
そして船は沈まなければ死なない
同じように全身を焼いた状態ではあるが、パシフィック・アレスは丘まで牽引されている
怪我は補修によって治り、変わり果てた姿の今からも解放される
機会が許されればまた海で働く事もできる
大切な資源を運ぶ自分はそう簡単に破棄はされない
雄洋丸は縋っていた、まだ生き続ける事に
懸命に目を動かし助けを要求する彼女の前で『はるな』は、一つ大きな息を吐くと
「いいえ、助けはありません。貴船にあるのはここから先の死だけ。その順序を私は説明にきただけです」
冷たい言葉
氷で心臓を抉るような言葉には、きつく尖った使命感を纏った目が追随していた
それでも雄洋丸の魂は縋っていた
焼き切れ、骨に張り付いた皮膚の炭をつけたままの手を『はるな』に伸ばして
「…やめて、殺さないで、私まだ働けるの…ずっとずっと働けるの…もうこんな事には絶対に」
「もう一度言います。貴船をこの沖合にて沈没させます。そのための手順を説明します。最初に艦砲にてタンク内に残った残存ナフサ等の燃料を燃やし、その後に水雷にて貴船を沈めます。最初の艦砲時には燃料を燃やし尽くすという作業工程がありますので、貴船には燃料消費の目処がつくまでは頑張ってもらわなくてはなりません。理解してください」
酷い指示だった
消火活動で出動していた『ひりゆう』達は『たかつき』の後ろに立つ状態でその言葉を聞いていた
「沈めるめに…燃やす…そんな方法しかないんですか?」
押さえていた無念を堪えられなかった『ひりゆう』が『はるな』の前に詰め寄った
この事件の最初から消火活動をしてきた。火は止められなかったが、船を東京湾から遠ざけここまでやってきたのに
「あんたの言ってる事は非道だ!!沈めると宣言しておきながら、さらに燃やすだと!!それを我慢しろだと!!同じ船とし恥を知れ!!自分の言っている事に恥を知れ!!」
小柄な体で手を奮い殴りかからん勢いを『はるな』はじき飛ばした
「私情に駆られてはいけません、これは国家の一大事なのです。この問題を解決する方法は民間の船である貴方達に既に無い。変わってこの事件を解決する手段として私達はここにいる。大事における任務手順を護り、それを遂行するのが私達国家の船である護衛艦の仕事なんです。すでに貴方達では解決できないのですよ。わかりましたか」
落ち着いた口調とは裏腹に『はるな』の目は鋭く『ひりゆう』達を威圧していた
『ひりゆう』を止められず後ろに立っていた『たかつき』は震えていた
これが自分達の任務であるという宣言に、自分達は数多いる日本の船達の中から隔絶された存在であると認識してしまった
それが今ここで宣言された事で、彼女達他の船からどれほどの恨みを買う事になるのかという、戻れない道を振り返っていた
「たすけてよ…たすけて…いやよ、死にたくない、死にたくない…死にたくない…」
喧噪の船上の中で、ただひたすらに嗄れた声は助けを叫び続けていた
そらさぬ視線の『はるな』は一度敬礼すると
「そうです、すぐには死なず…頑張ってください。私達はこれから順序に乗っ取り参戦行動を開始します。それでは」
背を向けて消えていく『はるな』に『たかつき』は遅れないように姿をけした
とてもこの場に残ってはいられなかった
怨嗟を高めた『ひりゆう』達の中で何も説明などできない…恐怖だけで上官の後を追うように自艦に戻った
「時間ね」
その手には護衛艦旗が、もう片方には軍刀が握られていた
旗を持つ手に力が入っている。
手の甲に走る筋が張り、緊張を現した姿の『はるな』は軍刀を振り下ろした
「艦砲!!開始!!」
火矢は鋭く雄洋丸のタンクを貫いていく
そのたびに響く爆発音と…魂の叫び、苦しみもがく言葉とは程遠い音は海一面に響き
周りを囲む全ての船達は涙し、身を震わせていた
その後2日と続く嗚咽の渦の果てにあって雄洋丸は沈まなかった
助けを叫び続ける音に全ての船が恐怖で的を射ることが出来なかったのだ
「助けろよ!!!助けてやれよぉぉぉ!!」
遠巻きになりながら護衛艦隊の後に続いた『ひりゆう』は先頭を行く『はるな』に向かって怒鳴り続けていた
相手の甲板に乗る事を許されない固有の力の前に、ただひたすらに叫び続けていた
その声に雄洋丸は呼応するかのようにふんばり続けていたが、船体の破損は見るも無惨で修復などとても効かない程に形を失っていた
継続される作戦、ついに行われた魚雷での攻撃に対しても雄洋丸は沈まなかった
海自の作戦はズルズルと引き延ばされているように、長く炎を上げ続ける雄洋丸の姿は誰の目にも痛々しく、凝視できない視線のままうなだれた顔で『なるしお』は『はるな』からの叱責を受けていた
「何故きちんと仕事をしないの?」
水雷を外すという失態は、起こるべきして起きていた
『なるしお』の到着前から『ひりゆう』達は抗議の声を緩めてはいなかった
徐々に鎮火するのを前提に、救助をしてはどうだという船達の抗議は強まっていた
しかしそれは人の決断とは程遠い意思であり、そんな事より攻撃という死に晒される事を恐れてわめき散らしていたにすぎなかった
共に海に生きる船として、艦砲までした護衛艦の姿は許されざる者だったが、それにも耐えて浮かぶ雄洋丸を救いたいという願いの大きさはプレッシャーとなって『なるしお』の心を折った
最初の一擲を外し、後の二つを当てはしたが…雄洋丸は沈まなかった。そこで糸が切れてしまった『なるしお』
目の前にある光景に、心は押しつぶされ恐怖ですくみ上がってしまったのだ
「申し訳ありません…でも、もう苦しめなくてもいいのではと…火はもうすぐ消えますから…」
涙にくれ俯く『なるしお』は返事に『はるな』の顔は歪むと、奥歯をきつくかみ合わせる音に、周りを囲む全ての魂達は震えを憶えた
腰砕けの護衛艦隊の姿に怒っているのか…それとも…
ただ『たかつき』だけが司令艦の姿を追い続けていた
肩を支える『もちづき』は未だ燃え続け続けている雄洋丸見て、一度は水雷により炎を高く巻き上げたが、静かに収まりを見せ始めた船艇に希望を見ようとしていた
「もう、ここで火が消えれば」
「助けてぇぇぇぇぇ、殺さないでぇぇぇぇ」
切羽詰まった海の上に、地響きのような声は波を伝って全ての船に届いた
「どこまで非道なんだよ!!自分達のために仲間を生かしてるのか!!いつになったら楽してやれるんだよ!!助けもしない!!殺しもしない!!お前達は何しにきたんだよ!!」
慟哭の空の下で『ひりゆう』は泣き叫んだ
その言に反論を持ち得なかった艦隊艦魂の中で『はるな』だけは違った
冷めた目線でゆっくりと、しっかりとした姿勢を保ったまま
燃えさかる雄洋丸に声を挙げた
「身勝手な事を…何故自分のおかした重大な罪を棚上げして生きる事を望むのか?おりおんの忠告を聞かず、足を速めて湾口に入った貴女はとんでもない事故を起こした。私達はみな貴女の起こした事故を、貴女がしてしまった出来事の処分のために心を砕きながらも働く、全てに架された責務を果たしにきた」
泣く『なるしお』に『はるな』の鉄拳が落とされる
「何故お前は自分の責任を果たさない?同じように雄洋丸、貴女は何故自分のしでかしたことの責任をとる覚悟をきめないか?いつからこれほどまでにルーズになった?」
軍刀を握る手に力がこもっていく
「自分のした事の結果の果てに、この非情の事態の中で自分が生きる事が優先されるのか?『ひりゆう』聞こう、雄洋丸は助かるのか?このまま燃料を垂れ流しにして、海の上で彼女は生きながらえればいいのか?」
離れた位置にて自分の甲板に立っていた『ひりゆう』だったが、まるで首筋を掴みあげられたかのように固まっていた
見開かれた『はるな』の目は重い責務の前に覚悟を示していた
だけど『ひりゆう』にそれはなかった、ただ自分達では消せなかった火の前で苦しみの声を聞いてしまった
何もできなかったからこそ、大きな力を持つ者に救いを求めた
「できないさ…ああできない、そんな事できない。私達にはできなかったから…あんた達に頼んだ…」
「そう、私達に託された。私達は覚悟を持って雄洋丸を沈める。それは貴方達の責務の果てにある重荷を受け取るという事であり、最後の希望でもある。私は私の責任に置いて迷う事なく雄洋丸を沈める。その為に作戦を遂行する」
身を返し、並ぶ全ての船達を睨むと
「忘れてはならない、各々に架された任務を、各々に架された重荷の意味を。そして自分に与えられている仕事を忘れた者がどうなるかをここで見たのならば、翻って自分に与えられている責任を見つめより修練せよ!!大切な事を忘れるな!!」
怒りよりも強い意志で、無責任を叫ぶものを許さないという硬い意志がぶつかって行く
誰にも文句を言わさないという強い返答を後に手を挙げる
「今日のうちに雄洋丸を沈める。これより艦砲を継続的に開始する。船を沈めるという意味を知り、それを行え!!」
落雷の棘は一斉に掃射を開始した
差し込まれる稲妻の破壊の中、その身をよじり断末魔を挙げる雄洋丸に『はるな』は軍刀を持って飛び込んでいった
彼女にはすでに四肢がなかった
腕も足も腹も破壊され、細かくちぎられた肉片でしかなく
ただ懸命に芋虫が頭を振っていた
「根源である魂の緒を介錯しましょう」
歯もなく舌も千切れた口は壊れたラジオのハウリングのような音を吐き出し続けた
「ええ、呪って頂いてけっこうですよ。それが貴女の最後の望みなんですから。そして私は貴女の魂の重さを抱いていきましょう。後の者達のために」
高く振り上がった刀は一直線に首の根と思わしき部分を切断した
石が転がるように傾いた甲板を滑り落ちていく雄洋丸の頭
同時に船は大きくかしぎ、水を体に埋め始めた
長かった事故の最後はここに幕を落とした
水面に漂う油の縁に別れの楽曲と、隊員達の敬礼、船員たちの祈りだけが続いていた
「私には出来ないわ…したくもないわ」
目を閉じていた『ひえい』は冷たい空気に鼻を赤くして呟いた
揺れる長い髪を少しずつ結い上げて、近づく日本を目視で確認していた
あの日帰って来た姉『はるな』はすぐには会議に出なかった
あの後1時間ほどの姿をくらましたが、それから参加した会議では淡々と事の成り行きを説明し
現在の反省点などを挙げると、何事もなかったかのように眠りについた
帰還した『たかつき』『もちづき』『ゆきかぜ』『なるしお』は誰も彼もが重い口調で事件の事で心に闇を落として閉まったのを忘れようとするのか、教訓として色々な切り口で語ったが
「ううん、変わったわ姉さん…あの時から、違うわ、あのときの事を貴女は決して教訓として語らなかった。事故の報告をしただけ、もっと反省点をとか…言いそうだったのに、一番中心にいたハズの貴女は何も語らず…何事もなかったかのように今日まできた…」
それまで、帝国海軍の事を題材に出しては「栄えある後衛」としてと講義までしてきた姉だったのに、あの日以来帝国海軍を語る事もなくなった
自嘲する鼻声で、もう一度『ひえい』は目を閉じる
「結局、そんな重荷には誰も耐えられないのよ…姉さんは身をもってそれを知った。私は身をもってまで知りたくはない。ただこうして居るだけの存在であればいいのよ」
肩を押さえ冷え込みの増す海の上を『ひえい』は走っていた
「えらいこっちゃ」
天然パーマの感電ヘッドを忙しなく動かし『いかづち』は右往左往していた
「なして!!急に!!」
フライパンを右手に眉間に酔った皺を押さえて
「こんな急じゃ飯つくれへんにー、めっちゃこまるぅー」
妥協の聞かない料理人はブックを見漁りながら頭を抱えていた
天井の高い赤煉瓦の寄宿舎の中で、相変わらずのスポブラ姿でバーベル運動をしていた『むらさめ』は妹の慌ただしい姿に息をつくと
「別に司令も慌ててなかったし、パーティーをするってわけでもねーだろーよ」
ソファーに身を移して呆れたように続けた
「突然って言ってもなー『きりしま』がドックにいっちまったんだからここで待機するのは予想がついただろうにー」
「ええよー、そりゃ普通の人がくるんやったら別に問題あらへんけどやな。来るのはあの『ひえい』司令なんやで!!なんもなくても問題大ありの人なんやから、料理にミスなんかあったら大変な事になってしまうわ!!また『うずまき』(『うずしお』『まきなみ』)に魚たのむかーぁぁ」
湯上がりのゆるーい髪を揺らして『はるさめ』は笑う
「はーちゃん(『はまな』)いなくて良かったね〜〜〜司令危ないぃ〜〜〜」
「『はまな』は向こうで食われたんじゃねーの?」
野菜スティックをくわえながら悪ふざけを語る『むらさめ』
ドワイト・D・アイゼンハワー達大物米艦艇がつい昨日港を出たばかりの佐世保は新春を迎えたばかりだった
そして『こんごう』は図書室に篭もっていた
「もっと帝国海軍について知らなければ…」と
多くの希望芽吹く季節を前に、春の嵐は早くも第一波として迫っていた