契約編―鬼と契約しよう9
(入られた!)
終わった―そう思ったとき。ズドン。硬質な響きが鼓膜を揺らした。
「なんだ、あれ」
それは崖の上に到達するほどの直径を持った赤い紋章だった。
「赤い、魔力?」
浅葱は地面に降り立ちながら唖然とつぶやく。しかし、すぐに我に返ると崖下を確認しに走る。
「ちょ!浅葱、おろして!!」
「お前も見ておけ!」
崖ぎりぎりまで走りよると、アスランを下し、ルーシアを肩に座らせた。
「何?この結界」
色がある、とルーシアはつぶやいた。魔術師が使う呪文により現れる文様は、白色が定石だった。
巨大な妖魔の里への侵入を防ぐ赤い結界。それは一体だれが張ったのか。妖魔が巨大すぎてその前にだれが立っているのかなど見えない。しかし、そのはずなのに、誰がそこにいるのか浅葱には分かった。
「リリア―」
「え?!この結界、リリアが張ってるの???」
ドクリ、心臓がひと際大きく脈打った。浅葱は空いている手で胸を抑える。
「どうしたの浅葱、苦しいの?」
浅葱は浅く呼吸を繰り返しながら、ゆっくりとルーシアを肩から降ろした。すると両ひざをつく。
「浅葱!」
ルーシアが浅葱の隣に膝をつく。顔を覗き込むと、蒼白で脂汗が浮いていた。
「なんだよ、これ」
血が、ざわめく。何かに恐れおののいている。こんな感覚初めてだ。いや、似た違和感ならあった。初めてリリアと会った時だ。
ルーシアが慌ててあたりを見れば、鬼たちは皆腰が抜けたように座り込んでいた。
「なに?何が起きてるの?」
「落ち着いて」
ルーシアは初めての事態に慌てる。それをアスランはなだめようとするが、彼にも何が起こっているかはさっぱりだった。
侵入を邪魔された妖魔が怒りの咆哮を上げる。しかし結界はそれにはびくともしない。
「一人であれだけの結界を?」
アスランも信じられないと気持ちが口をついて出る。
根競べがまた始まった。結界は壊れる様子はない。だからと言って、あの結界が妖魔の体力を削っているかと言えばそうではない。
「こちらから攻撃を仕掛けなくては」
しかし鬼たちの足はくじけ、戦える状態ではない。ならば自分たちがやるしかないのだが、先ほどの全力でも倒せなかった相手に何をすればいいのか。
迷っていると、凛とした声が響いた。
「十六夜!来い!」
返事はない。
「十六夜!聞こえているだろう!このまま私に妖魔の相手をさせるつもりか!」
次の瞬間、バチバチと前方で青い光がはじけた。
※
戦いが森の中で繰り広げられているのは分かった。なぜかは分からなかったけれど、それだけは分かったのだ。
十六夜は、そわそわと歩き回っていた。
(リリアは大丈夫かな)
あの、金髪の人も、青色の髪の鬼も―。
戦いは始まって終わりを見せる様子はなかった。それどころか妖気はどんどん迫ってくる。そしてとうとう、巨体が向かいの崖の上に姿を現した。それと同時に崖が耐えられず崩れ落ちる。
(入られる)
里は壊される。そう思ったとき、赤い光が展開した。大きく円を描き、それは妖魔の侵入を防いでいた。
浅葱たちから見えなかった小さな姿が、十六夜には見えた。
「リリア!」
柵から身を乗り出す。大切な少女が、妖魔の前に立ちはだかっていた。リリアが作り上げた結界は強靭で、妖魔の咆哮ではびくともしない。しかし、リリアは両手を使って結界を展開していた。
つまりこれ以上の術は出せない。リリアには妖魔を止めることしかできない。
「誰かが、倒さないと」
(でも、誰が―?)
そう思ったとき―
「十六夜!来い!」
リリアの声が耳に届いた。その内容に、固まる。頭が何も理解しなかった。けれど、リリアは求める。
「十六夜!聞こえているだろう!このまま私に妖魔の相手をさせるつもりか!」
「!」
(それはだめだ!)
このままではじり貧だ。自分がやらなくては。そう自然と思った。
十六夜は、柵の上に足を乗せた。ばちっと青い光がはじけた。十六夜をここに縛る結界だった。
(ここから先には行けないってこと?―いや)
「行く」
自分は、リリアのもとに行く。彼女を失わないために。
十六夜は柵の上に両足を乗せて立ち上がる。そして結界に向かって体をぶつけた。バチバチと青い光がはじける。
びりびりと体が痛んだ。しかし、そんなことどうでもよかった。リリアを失う恐怖に比べたらどうでもいいことだった。
「く、うう」
少し、青がたわんだ気がした。
(いける)
自分はこれを壊せる。足に力を入れる。自分はあの地面に降り立ちたい。そしてあの小さな少女に駆け寄りたいのだ。
「じゃ、まを、するなああああああああああああああああああああああああああああああ!」
声が空気を揺らし、ずっと向こうにいる妖魔がひるんだ。しかし、それに気づくことなく十六夜は青い光に体を押し付け続ける。
ピキ
その音は、光からではなく首元からした。
ピキ、パキパキ―バキン!
首輪が落ちる。それと同時に十六夜の体も落ちた。しかし、膝はしなやかに曲がり衝撃を吸収する。着地の力を利用して地面を蹴る。これほど自分が早く走れるのだと、知らなかった。その感触が、こんなにも心地いいものだとは知らなかった。
妖魔が咆哮を上げながらしなる腕についている刃を赤い結界に打ち付けている。十六夜がリリアのもとに駆け寄った時、リリアは結界を消した。
「思う存分、暴れるがいい」
それが予言だったように、妖魔の腕が一本落ちた。そこから血しぶきが上がる。妖魔の悲鳴が空気を揺らした。
妖魔は己の腕を奪った十六夜に狙いを変えたようだった。長い腕が十六夜に向かって伸びる。その刃が十六夜の腹部を貫き、建物の壁にはりつけにされる。
「十六夜!」
上から見ていたルーシアが悲鳴を上げる。十六夜は反応しない。それどころではなかった。体中が熱かった。熱い血が体中を駆け巡り熱を伝えていく。もっと、もっとと言うように体が悲鳴を上げる。腕に、足に、指先に。そして何より目に。血が激流のように流れ込み翻弄される。意識が飛ぶかのような感覚。
「は、ぁ……はあ……」
冷たい空気を求めて大きく息を吸う。しかし、体は新たな燃料を手に入れたとでも言うように燃え上がる。
リリアは、それに気づいているとでも言うように口端を持ち上げた。
「十六夜」
静かに、己が望む鬼の名を呼ぶ。黒い瞳のその先で、長い黒髪の間から赤い光がこぼれている。どこか恍惚とした表情で、リリアは言った。
「殺していいぞ」
リリアのその言葉に、心臓がひと際強く脈打ったのが分かった。
「殺す?」
妖魔はどちらから先にかたづけるか逡巡しているようだった。しかし、狙いをリリアに定める。
「そうだよ。まずはその動きを封じている腕を切り落としてしまえ。首から胴を切り離し、心臓でも貫けば死ぬんじゃないか?」
「…………殺すっ!」
欄と目が赤く染まる。どこまでも体を燃やそうとする熱が心地いい。突如吹き荒れる闘気に、妖魔は狙いを十六夜に変えた。威嚇するように方向を上げるが、その振動は十六夜からあふれ出る闘気に打ち消される。
十六夜は腹部を壁に縫い付ける刃を引き抜いた。落下することで狙ってきた腕を避ける。そのまま肉薄すると、腕の根元に爪を立てた。思い切り腕を振り下ろす。妖魔の首から生える腕は、音を立てて引きちぎられた。血が十六夜を汚す。相手の熱も、心地いいと思った。
残りの腕は避ける。手には引きちぎった腕についていた刃がある。その刃を、今度は首に突き刺した。血しぶきが上がる。妖魔が悲鳴を上げる。十六夜は気にすることなく突き刺す腕に力を籠める。とうとう貫通すると、頭の重量に負けたように首が落ちていった。
次は心臓を、と思ったが、妖魔の体がズドンと倒れた。そして今度こそ動かなくなった。
十六夜は立ち尽くす。息が荒い。肩で息をする。
「やった?」
小さくつぶやく。その背に歩み寄るのはもちろんリリアだ。
「ああ、良くやったよ」
リリアが見上げると、十六夜は笑った。その笑顔はまだへんちくりんなひきつったものだったけれど。リリアからは髪に邪魔されて見えなかったけれど。
「あれ?」
すとん膝が折れて、十六夜は座り込んでしまう。不思議そうなその声に、リリアはくすくすと笑った。
「力の制御ができていないから、体に負荷がかかったんだろう」
リリアは倒れた妖魔の足に手を添えた。
「倒せはしたが、まだ早かったな」
「……どういうこと?」
「お前が思っている以上にお前は疲れているということだよ」
リリアはひょいとしゃがむと、十六夜の腹部に手をかざした。赤い光が手から発されて、傷をいやしていく。
「すごい」
「得意なんだ」
ふふふとリリアは笑った。一件落着と言いたかったが、浅葱たち鬼はまだ立てずにいた。
じゃり、と音がする。リリアは振り返った。そこにはこの里の長が鉄斎に支えながら立っていた。
「なんということを」
白髪の老人の声は震えていた。リリアはふっと笑う。
「こいつは私がもらう」
「ならん!止めろ!―な!」
長はバランスを崩して地面に両ひざをついた。鉄斎が彼から手を離したからだ。鉄斎はリリアに近づくと、ひざまずいて頭を垂れた。
「高貴な血を引くお方よ、どうか我が主の無礼をお許しください」
「―なぜこのように禍を呼ぶと言われるようになったのか聞きたいものだな」
「われらは、父君の統治に甘えていたのでございます」
「代替わりさせたくなかったのか。気持ちは分からなくもないがな」
リリアはため息を吐いた。事情が分かっているのはリリアと鉄斎だけのようだ。
「ならぬ!その鬼は鬼神を殺す!世界の秩序を守る鬼神を殺させるにはいかんのだ!」
「無知もたいがいにしろ」
リリアは右手を高く上げると、声高らかに唱えた。
「雷よ、我が命にしがたいて罪人を罰せ」
赤い雷が妖魔の体に落ちた。バチバチと音を立てて燃える。
「赤い、雷」
ルーシアは口が乾くのを感じた。アスランが言っていた。鬼神は赤い雷を操るのだと。
「まさか、そんな―」
鉄斎は先ほど何と言っていたか。
「父君の統治だと?」
浅葱は地面を睨みつけながら息も絶え絶えにそう声にした。リリアは歌うように名乗った。
「我が名はリリア・ガーネット。鬼神暁を父に、人の子アリアを母に持つ者!」
「鬼神の子だと?」
リリアの目が、証明するように赤く輝いた。
「我が父暁は、妻アリアの死を嘆き鬼神としての務めを果たせなくなった。世界の秩序は乱れつつある」
赤い目に射られ、長は動けない。
「今の鬼神を殺し、新たな鬼神を立てる時が来た。十六夜は、父上を殺し、新たな鬼神となる」
「っ!ならぬ!紅き鬼神を殺してはならぬ!」
「この妖魔を見てもまだそんなたわけたことを言うか」
リリアの声は冷たく冴えわたる。
「これほどの妖魔が人里を襲うことなどあってはならぬことだ。これこそ、父上の力が弱まっていることを示す。―このまま妖魔が跋扈する世界にするのは嫌だろう?」
酷薄にリリアは笑んだ。
「鬼は妖魔の王。鬼の王は、妖魔の中の王の王。この世で最強の生き物だ。その乱心は世の乱れにつながる。―十六夜はもらっていくぞ」
リリアは十六夜の方を振り返った。赤く輝く瞳が、ルーシアたちからも見えた。
「十六夜、私と共に来い」
リリアが手を伸ばす。十六夜は、その手をじっと見つめた。
「俺、は」
「うん?」
リリアは優しく答えを促す。十六夜は、片手を額に当てた。たくさんの情報が、頭の中で渦巻いていた。この刹那で多くのことを悟った。時間の概念を、四季を、方角を。ここより南方に鬼神の城があることを、鬼神が黒い鬼であることを、その偉大な血をリリアが引いていることを。
「っ!頭、痛い」
低くこぼすと、リリアが膝をついた。両手を頭にそっと添える。
「今の戦闘で、鬼が知っているはずのことを一気に自覚したんだろう」
それは十六夜だけではなかった。浅葱たちも、よくわからない感情に支配されていた。鬼神が実在することを悟り、その存在に、その血に、鬼の血がざわめいている。頭を垂れたいと血が叫ぶ。
浅葱がどうにか視線を上げると、リリアがよしよしと十六夜の頭をなでていた。十六夜はその手の心地よさに目を閉じた。小さな手。しかし、そこからは確かに強大な力を感じる。
(この手が欲しい)
その胴から、引きちぎって。体中を流れる血の一滴まで、心臓を含めた臓腑のすべてが欲しいと思った。
「俺」
「ん?」
「リリアの、鬼になりたい。リリアの鬼になって、リリアを、殺したい―」
「ふ、ふふふ。あはははははは!」
リリアは笑った。心底おかしそうに笑った。
(笑い事じゃねだろう)
浅葱は震える体に叱咤しながら突っ込む。リリアはひとしきり笑うと、目じりにたまった涙を細い指で拭った。
「鬼神の血に反応しているんだな。安心しろ、父上は私と比べ物にならないくらい強いから」
その言葉に、十六夜は血が沸き立つのを感じた。あまりの熱に黙っていることしかできない。
「お前は私の鬼だ。十六夜」
「だから!」
「もう無駄ですよ」
まだ止めようとする長を鉄斎がなだめるようにする。
「これは天命です。鬼神の御子が黒い鬼を望んだ。次の鬼神の時代が来ます」
よく見なさいと、鉄斎は視線で促す。長は、揺れる瞳で二人を見た。そこにいるのは鬼神の血を引く娘と、それに傅くように座り込む黒い鬼だ。
この世界では珍しい、黒をまとう美しい生き物が、今契約を交わそうとしていた。それが、歴史を、世界を変えると魂が震えたのは事実。
十六夜は、誰にも教えてなどもらっていないのに、すっと両手をリリアの手首に伸ばした。そこに自分の体内にある力が集まるようにイメージする。はじめは淡く、徐々に濃く。金色の光がリリアの手首をくるりと囲った。そしてそれはとうとう実体を持ち、黒い宝石の付いた金色の腕輪となった。
それを、月に照らすようにリリアは持ち上げる。
「きれいだな」
ふふっと笑った。
「これでお前は私の鬼だ」
十六夜は笑顔でうなずいた。一つの儀式が終わると、十六夜は意識を手放しその場に倒れこんだ。