契約編―鬼と契約しよう5
「…………。」
「…………。」
二人は無言だった。一人はぼさぼさに伸びた髪が顔を覆いつくしている男、もう一人は40手前と見て取れる大男。
「機嫌悪いな」
風に髪を遊ばせながら、浅葱は黒い鬼にそう話しかけた。黒い鬼はその浅葱の言葉を無視する。
時は深夜。空にはただ月が輝くのみ。ひとまず浅葱は今日の見張りを名乗り出た。その間に誰がいつ見張るのか決めておけと命じておくのも忘れなかった。
「おや、先約がいたのか」
気づけば浅葱がもたれかかっていた柵に立っている影がある。
(気配がしなかった)
肝が冷える。この娘は一体どこから現れた。
「リリア!」
浅葱が戸惑っている中、黒い鬼が少女をそう呼んだ。その声には確かに喜色が含まれている。
「十六夜、ほら、水だ」
柵の上からひょいと竹の水筒を放る。それは放物線を描き、見事に黒い鬼の手に収まった。水筒の栓を抜き、黒い鬼は喉を鳴らして水を飲んだ。
「いざ、なんだって?」
「十六夜だよ。いざよい。名前がないと言うからな。私が名付けた」
良い名だろう?そう少女―リリアは笑った。
「鬼に名を??」
鬼は名を持って生まれてくる。だから、ただの人間に鬼の生まれ持った名を上書きできるはずがないのだ。
「お前、何者だ?」
どれだけの魔力があれば、生まれ持った名を打ち消し新たな名をつけることができるのか。浅葱は、疑るような眼でリリアを見る。
「それはお前自身が知っていることだ」
「はあ?」
リリアのからかうような言葉に、浅葱は不満の声を上げる。リリアはくすくすと笑うだけだった。
「今日の肉はな、塩で食べるんだ」
「…しお?」
「そうだ。これもうまいぞ」
リリアは浅葱を無視して十六夜に肉を渡す。十六夜はためらうことなく肉を口にした。
(…餌付け?)
その光景に、浅葱は瞬きを繰り返した。リリアは、ここには自分と十六夜しかいないかのようにふるまう。
「―ここから見る景色は美しかろう」
「「??」」
鬼二人は突然のリリアの言葉を理解できなかった。
「食べ物もうまいな」
うんうんとリリアは一人頷く。そして、優しく目を細めながら十六夜を見た。
「でもな、美しい景色も、うまい食べ物も、ここにしかないものではないよ」
浅葱は、口が乾いていくのを感じた。その先を、予想できたからだ。
「十六夜、私が世界を見せてやる。一緒に行こう」
リリアは両手を広げる。来いと、小さな全身を使って表現する。しかし、十六夜はうつむいてしまう。
「それは規則違反だ」
代わりに応えたのは浅葱だった。リリアは笑った。
「こんなところに、こんな状態でつないでおくのをお前は是とするのか?」
「―上がそう決めたのなら」
「それは思考の放棄というものだよ」
リリアの言葉を、浅葱は否定できなかった。今の今まで、少しは気になりながらも、殺してしまえばいいとすら思っていた鬼だ。
「だめ」
沈黙を、小さな声が切り裂いた。二人の視線が座り込む十六夜に向けられる。
「俺は、悪いこと、呼ぶから」
「それでもいいんだがな」
それに
「私はそんじょそこらの不幸じゃ殺せないよ」
くすくすと、おかしそうにリリアは笑った。
「まあいい」
そういうと、リリアは鬼二人に背を向けた。
「時間はたっぷりある。思う存分悩むと良い」
それだけ言い残すと、崖を飛び降りて行ってしまう。浅葱は身を乗り出してリリアの姿を追う。リリアは軽やかに着地すると、何事もなかったかのように街の方にかけていった。
「あいつ、半魔か!!」
姿は人の形。鬼は人間と比べれば耳がとがっているのが特徴だ。しかし、彼女にはその特徴は見られなかった。だから、気づくのが遅れた。
「はんま?」
十六夜は首をかしげていたが、浅葱はそれを無視する。
「―お前、行かなくていいのかよ」
「……悪いこと、呼んじゃいけないから―」
「そうかよ」
思考を放棄しているのはこいつだ。そんな悪態を心の内で吐きながら、浅葱は肩を怒らせて崖の中の自分の家に戻っていった。