契約編―鬼と契約しよう1
―己の生まれ育ったこの里が、「鬼の里」と呼ばれるようになってどれほどの年月が経つのか。
そんなことを考えながら、浅葱は己の寝床に戻るために険しい坂道を登っていた。険しいと言っても、鬼である彼にとってはどうということはない道のりだった。
里には岩の絶壁があり、そこに穴をくりぬいて多くの鬼は住んでいた。それは浅葱も例に漏れない。
その住居の入り口は共用の一つしかなく、中はアリの巣のように道と部屋が張り巡らされている。
住居の入り口と、下に位置する街はきっとかつて鬼が無理やり作ったのだろう粗さを誇る坂道でつながっていた。この道には、鬼たちの主である人間が落ちてしまわぬよう柵がついていて、その柵が道の終わりをつげていた。
入口の向こうまである柵は小さな広場を作っており、その広場に首輪をはめられただ座っているだけの鬼が一人いる。
ただただそこに座って月日を過ごす鬼の髪は長く長く伸び絡み合っており、顔すら隠してしまっている。隠されている瞳はその髪と同じ漆黒だと、この里に住む者なら誰でも知っていた。
―黒色をまとう、禍を引き寄せる鬼。
そう言われている。
(禍を呼ぶというのなら、殺してしまえばいいものを)
浅葱はそう思わずにはいられない。不老不死の体を持つとはいえ、首を切り落としてしまえば鬼は死ぬ。
しかし、殺すことさえ汚らわしいとでもいうように、この里の長とその周囲の者はただ黒い鬼をつないでいるだけだった。
その首にあるのはいったいどれほどの力を持つ者が作ったのか、鬼の妖力さえ封じ込めてしまえる首輪だった。だから、黒い鬼の力は今は人と変わらない。ただ老いない体とそれゆえの悠久の時間を持て余している。
(まあ、いい)
上がそう決めたのなら、自分に口出しする権利はない。ただ、何かが胸に引っかかる。
(なぜ抵抗しない)
(なぜ逃げ出さない)
妖魔の王と呼ばれる鬼は、人と主従の関係を結ぶがそれは形式的なものだ。人のルールに則って殺しをしたほうが利があると、大昔に気づいただけ。だから、力を貸す。むやみやたらに殺すと人間から除去されるからだ。それに、魔術師と組んだほうが治癒の術をかけてもらえるなど戦闘中の利点もある。
だから―
(やろうと思えば、逃げられるはずなんだ)
どれだけその首輪の出来が良かったとしても、一度も試さずあの鬼は何をしているのか。誇りはないのか。
ああ、そういえば―
(あいつがいつからいるのかも覚えていないな)
里のかなり古参に入る浅葱であったが、あの黒い鬼が己より年上なのか若いのか、己が生まれる前からつながれていたのかそうではなかったのか、それすら覚えてはいない。
浅葱は、いらだちを隠すように黒い鬼から視線を外した。
―それが日常だった。
※
ずっと見ていた。ずっと、眺めていた。どれくらいかと言われればそれは知らない。自分は時の数え方など知らないから。
ただ、暮れては明け、染まっては沈む里を眺めていた。ずっとそこにいたから、雨の日も晴れの日も、雪の日も嵐の日も、街がどんな姿だったのか知っている。しかし、ずっとここにしかいなかったから、みなが街で何をしているかなど知らない。
その日も、黒い鬼はぼうと空を見上げていた。その日は晴れていて、満月にはほんの少しかけているような月が浮かんでいた。
「良い夜だな」
突然声が降ってきた。
黒い鬼は驚いて視線を落とす。座り込んでいる鬼の視線の先には人のために作られた柵がある。そこに小さな影が立っていた。顔は見えない。
さらりと、涼しい風が頬を撫でた。
その影は振り返った。
「お前もそうは思わないか」
黒い鬼は後ろを見やったけれども、そこには誰もいない。影は自分に話しかけているのだと黒い鬼は判断する。
「…あ」
掠れた声が出る。いったいどれだけ声も出していないのか。黒い鬼は思い出せなかった。話し方も忘れてしまった鬼は、ただ口をパクパクとさせる。
影は柵から降りるとしゃがんで鬼の顔を覗き込んできた。
「喉でも乾いたのか?」
―女だ。
鬼は直感する。10前後のまだ小さな少女だったが、人間の年を概算できるだけの人との付き合いが鬼にはなかった。そんな鬼は、スカートをはいているから女なのだろうとは判別はできなかった。
しかし、そんなこと知りもせず、少女は持っている袋をごそごそとかき回し始める。
「ほれ」
そう言って差し出してきたのは、竹製の筒だった。それを水筒というのだと、鬼は知らなかった。
だから、鬼には固まっていることしかできなかった。
少女は一度首をかしげると、がしと鬼の手をつかんだ。そして水筒を握らせる。握らせた水筒を開けると、その穴を指し示す。
「ここから飲むんだ」
なんとなく、思い浮かんだ動作があって、鬼はそれを口元で傾けた。冷たい液体が流れ込んでくる。それが体中にしみていくのが分かった。
(そうだ、俺は、ずっと乾いていた)
そう気づいたときには、水筒は空になってしまっていた。少女はそんな鬼を、肘をついて上目づかいで見つめていた。
(同じ、色だ)
少女がまとうのは、鬼と同じ黒色だった。羽織っている袖のない上着も、その下から覗くスカートの色も、靴もタイツも黒い。そして極めつけはその瞳と髪。白い肌以外、すべてが黒い。
「お前、名前は?」
「…ない」
少女の問いに、鬼はそう答えた。―本当はあったのかもしれない。しかし、もう忘れてしまった。誰も自分の名など呼ばないから。しかしそれが当たり前だと鬼は思っている。なぜかと問われれば、それは己が黒い鬼だからだ。
「ふむ」
鬼の答えに、少女は考え込む。そして立ち上がると空を仰ぎ見た。そして、ふっと軽やかに笑う。
「では、十六夜というのはどうだ?」
(いざよい―)
「お前と私が出会ったこの夜を祝して」
黒い鬼に、頷く以外の選択肢はなかった。