韜晦亭奇譚 其の伍
その夜、さして広くもない韜晦亭の店内は賑わっていた。
いつもは、好事家達の集う場末のバーとしてそれなりの常連がいたりするのだが。
大体が個性の強い人物達ばかりなので、気の合わない者同士も多く、互いに時間帯や曜日をずらしたりと
それなりにすみ分けみたいなことが自然と出来上がっているのだが、今夜はその限りではないらしい。
理由は一目瞭然、人ごみの中心にいる人物だろう。
この店には不釣り合いなその女性は、俺にはバニーガールに見えた。
歳の頃は二十歳にはみたないだろうか。
まだ幼さの残る表情は成人しているようには見えなかった。
なにより成人女性が頭の上にウサギの耳飾りなどつけるだろうか?という疑問もある。
遠目にも本物のウサギの耳にしか見えないそれは彼女の表情と共に細かく動き、長い髪の間から本当に生えているようにしか見えない。
近くでよく見ようと奥に歩みを進めようとした時、カウンター席から声を掛けられた。
「おおっ、君か久しいな」
闊達な声に振り向くと三十代半ばの女性がいた。
「今晩は、博士なんだか人が多いみたいですけれど何かあったのですか?」
最初に俺に声をかけてきたのは常連の中でも数の少ない女性の科学者だった。
彼女は遺伝子工学の博士で俺のような三流の記者にも気軽に話しかけてくれる気さくな人で、
それゆえに何故、韜晦亭の常連なのだろうかと疑問に感じることもあるほどの常識人、というのが俺の印象であったのだが。
「今日は私の娘のお披露目でね。」
博士は奥のバニーガールを微笑ましく眺めながら隣の席を俺に薦めるので、すなおに同席した。
「いやいや!どうみてもおかしいでしょう高校生の娘がいる歳にみえませんよ?!」
たしか博士は海外で飛び級で博士号を修得した帰国子女で見かけ通りの若さのはず、尚且つ結婚しているという話は聞いたことがない。
「若く見えるのは当然だよ。事実若いしね、私の歳で娘(の見た目)程の歳の子供がいれば相手の男は犯罪者になってしまうね。」
「ああ!実の娘ではないと?」
俺の早計なセリフに博士はゆるく首をふる
「いいや。あの娘は確かに私の遺伝情報を受け継ぐ正当なる子どもだよ。あの子は少々成長が速くてね実年齢はまだ5歳にすぎない」
博士のセリフに俺は驚いた、ウサギの耳をつけた少女はどう見ても幼女には思えない。
「どうしてそんな事に?もしかして何らかの病気か何かですか」
深刻な問題かと声のトーンを落とし静かに尋ねると、博士はまるで何でもないことのように軽く
「いやなに、ちょっとした実験の副作用というか、いわゆる失敗?」
と、とんでもないことをいう。
「実験って?!実、の娘ですよね。」
「私のライフワークに関す事だったので、人任せにはしたくなかったのでね」
韜晦亭での数少ない常識人と思っていたが、やっぱり同じ穴のムジナというか、朱に交わって赤くなったのか、よい変化ではないよな。
「え~と、どんな実験か伺ってもいいですか」
まあ好奇心に負ける俺も大概だが、博士はにこやかに答えてくれる
「君はキリンの首が何故長いのか考えた事はあるかい。」
「進化論的な話ですか?」
頭に何となく浮かんだのはどこぞの島のゾウガメとイグアナだったが、博士は俺の事はさほど気にしていなかったらしく勝手に話を進めている
「進化論は全ての種に当てはまる訳ではないだろう?しかし生態系、食物連鎖の輪の中においては、どうだろうか」
「草食動物が肉食動物に食べられないようにするために取る戦略とは何だろうか、早く逃げるために足を速くする、
敵の動きを察知するために感覚を鋭くする、肉食獣より身体を大きくする?
どのような生存戦略をとるにせよ、その体を造るためには結局、なにを食べるかということが重要。捕食される側といえど餌場の取り合いがある」
「キリンは他の草食動物が取れない餌をとることにより大型化に成功したと言いうことですか、なんだかニワトリが先か卵が先かみたいですね」
いまひとつ話が見えないまま博士の言葉を待つ
「種の永続性に進化は必要ない、要は最適化、生態系は立体的なジグソーパズルのようなもの、食物連鎖の空きスペースに入り込んだ生物が生存をゆるされる」
「地球の歴史の中で生命の大量絶滅はたびたび起こっている。それまでの生命体の9割が死に絶えるというものだ。
それほどのことが起こっても、生き残った生命体は食物連鎖のピースを埋めるように最適化している。」
「隕石で恐竜が絶滅したように?」
俺のうろ覚えの知識に博士は頷く
「隕石、地殻変動、新種の病原菌、世界戦争、原因は何でもいい。もしもこの先、人類以外の生命体が絶滅するようなことがあった時。
霊長類は食物連鎖の隙間を埋めることが出来るのだろうかと心配になったことはないかい?」
そんなことを訊かれても、まったく考えたことないことだった。
博士はそんなことを考えながら研究を続け、その結果が今夜連れてきているウサ耳の娘という事なのか?業が深そうだな…とか思いつつも
「それじゃあ。あの娘さんも…?」
「あの娘は受精卵の段階で細胞核内に、マイクロファージを改良しRNAの働きを阻害するようにした物を注入している」
「受精卵は最初から5回目までの細胞分裂では全ての細胞がそれぞれに人間になれるだけの情報量を持っている。しかしだ、それらの情報は使われることは無い」
「進化の過程で一度失われた器官は二度と復活することはないと言われている、たとえばダチョウ、ニワトリ、ヤンバルクイナ、タカへ。飛ばなくなった鳥は翼を腕や前足にすることはなかった」
「それを有効活用出来ないものかと考えて実験を繰り返した結果」
「彼女が生まれた」そういい、しかし「いや」と博士は一度否定し「彼女だけが生き続けた」といいなおす
「私はね、十代の頃から自分の卵子を冷凍保存していたのだけれど。そろそろストックが尽きようとしていたところで、ようやくあの子が出来たのは僥倖だといえる。」
そこで博士はじっと俺を見て、ややねっとりとした口調でささやく
「だから何としても、ツガイがほしい」
「ぶほっ!!」
思わずむせてしまったが、俺の驚愕の視線にも博士は涼しい顔を崩さない
俺は時間的には一瞬だが内容としては人生で一番熟考したのではないだろうか?とにかく博士の顔を見たまま答える
「遠慮しておきます」
「そうかい」博士はあっさりと引き下がった。
その後、博士たちは幾人かの常連たちとともにきえたが、俺は気にもしなかった。
そして数日後、俺の勤める胡乱な科学雑誌ではなく、世界的に有名なとある雑誌において、博士の研究論文が発表されていた。
ウサギを使った実験でオスの精子の遺伝子情報を幾つか壊すことで、胚性幹細胞にしか分裂しない受精卵を造り出すことに成功したらしい。
俺は先日の博士の食物連鎖の話を思い出しながらぽつりとつぶやいた。
「やっぱり。食い物にされた」