『小説の書き方は自由であるべき』と考える自分は『小説の書き方は自由』という考えを受け入れられない。
ランキングに掲載された、ある作品を読みました。
すると感想欄で、『悪い点』が列挙されています。
しかし別のある読者は、『小説の書き方は自由』と作者を慰めています。
このサイトに掲載された作品では、よく見る光景です。
自分は正直、『自由』という言葉そのものが、あまり好きではありません。
だから『小説の書き方は自由』という意見は、耳障りな場合が多いのです。(全てではない。ここ重要)
そんなタイトル内容に入る前に、ありがたくもこのエッセイを読んでくださってる方は、脳内で以下の設問にお答えくだされば幸いです。
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《問1》
以下の日本語に対応する英単語を答えてください。
・自由
《問2》
以下に挙げた小説の中で、あなたはどこまで面白く読むことができますか?
①いわゆる『非テンプレ』小説、あるいは逆に『テンプレ』小説
②改行がやたら多い小説
③文章がギッチリつまった小説
④段落・三点リーダーの数など、小説作法が守られていない小説
⑤一人称文章と三人称文章が混在している小説
⑥やたら視点変更が多い小説
⑦内容に起伏がない小説
⑧多少の誤字・脱字がある小説
⑨説明不足の小説
⑩よく読むと設定矛盾がある小説
⑪誤字・脱字が頻出する小説
⑫キャラクターの言動・思考が理解できない小説
⑬読めない漢字が当たり前のように使われている小説
⑭使われている日本語がおかしい小説
⑮言葉づかいや設定が難解な小説
⑯根本的な設定矛盾が起きている小説
⑰評判が最悪な小説
⑱ランキング外で評判にもならない小説
⑲あなたが読めない言語で書かれた小説
⑳白紙
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《問1》について。
大抵の方はフリー(free)、あるいはちゃんと名詞形でフリーダム (freedom)を挙げるのではないかと思います。
だけどもうひとつ存在します。
リバティ (liberty)です。
リベラル(liberal)を挙げる人もいるかもしれませんが、意味がかなり限定的になっていますので、ここでは無視します。
日本語では同じ『自由』と訳しますが、ふたつの単語の違いを正確に説明できる人は、なかなかいません。
語源から違います。年代によっても使われ方が違います。
フリーダムは、マイナスされない、存在している自由。
リバティは、マイナス状態からプラスする、勝ち取る必要のある自由。
主観的・客観的という問題もあるのですが、これくらいに考えておけば間違いはないんじゃないだろうか、というのが個人的見解です。
《問2》については、『自由』をどう捉えているかです。
《問1》で挙げたように、『自由』には大きく二種類存在します。
ひとつは束縛からの解放。リバティの意味合いです。人種・宗教・思想などの相違により、不当に迫害を受けた際に叫ぶ、憲法に定めらた『自由』です。マイナスからゼロにする自由と呼べるでしょうか。
もうひとつは、日常的な使い方をする『自由』です。
先に対応してフリーダムになってしまうのでしょうが、異なるものと自分は考えています。
例えば、学校の授業や仕事がダルいから。
親や誰かの言葉がウザったいから。
自分の思い通りにならないから。
『自由』を求める。
これは自己中・無法・無責任のニュアンスに近い意味です。
東洋だと、『自由』という単語そのものは古くから存在するようですが、特に中世では『楽』を使う場合が多いのです。学生の頃、習いましたよね? 織田信長が座という同業者組合制度を廃止して、自由取引できる場、楽市・楽座を作ったと。苦労せずとも生活できる土地を楽土・楽園と呼びますよね。
仏教用語としては、『自らに由る』――自己責任、自律、自立の意味に近くなります。
一方、西洋式の『自由』は、『制限の不在』を意味する場合が多いです。
日本で『自由』という言葉が一般的に使われるようになったのは、近代になってから。諸説あるようですが、福沢諭吉が英語を和訳した際に使ったとされるのが通説です。
ただでさえ難しい言葉が、ここで東洋式の『自由』と西洋式の『自由』が混同されることになっています。
ただし、無責任やわがままと、自由は明確に違います。
福沢諭吉先生自ら説明してますし、日本国憲法だって証明してます。
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第十二条(自由権)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条(個人の尊重)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(出典:電子政府の総合窓口e-Gov)
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『公共の福祉のために』『公共の福祉に反しない限り』
ざっくばらんに言い切ってしまえば、個人よりも公共が上位なのです。誰かがどんなに『自由』を訴えたところで、社会や多人数のためにならない内容なら、単なるわがままと見なされて無視ないし排除されるってことです。
意識せずに勘違いしている人、結構いると思います。
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第二一条(表現の自由・言論の自由)
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(出典:電子政府の総合窓口e-Gov)
(追記:御衣黄 様より)
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同時にこれも記載されているので。
あくまで自由は、他人に迷惑をかけない範囲内でのこと。それ以上は『自分勝手』と呼ばれ、それも超えると『犯罪』と呼ばれる行為になります。
小説の事柄だけに絞ると。
自分は『小説の書き方は自由』という言葉は、真実であり、同時に間違いと考えています。
まず念頭に置く必要があるのが、『小説を書く』という行為そのものが、物語やキャラクターや世界に束縛を与え、自由を奪う行為であることです。
書式を定める。
世界やキャラクターに名前を与える。
物理法則を定める。
キャラクターに口調や外見設定を与える。
本当に『小説の書き方が自由』なら、これらを途中で理由も説明もなく気分で変えてしまっても、なんの問題ないですよね?
『このキャラはこういう性格』と定めて、真逆の行動をしたところで、文句を言われる筋合いはないですよね?
それどころか、作家にしかわからない謎言語の暗号文で書いても、問題ないですよね?
白紙を『小説』と言い張っても問題ありませんよね?
《問2》で挙げたことは、全て許容できなければいけないですよね?
だって『小説の書き方は自由』なんですから。
しかし実際には、許されません。そんなことをしたら、読み物として全く機能しません。《問2》で挙げた内容は、誰もがどこかで線引きして、許容範囲を定めているはずです。
だから『小説の書き方は自由』という意見は、間違いとなってしまいます。
ならばなぜ『小説の書き方は自由』と言われるのか?
それは小説に書く際に大事な、発想のみに与えられるものです。
人間成長していろいろ経験し、常識に縛られると、思想や発想が不自由になっていきます。
なので常識の殻を打ち破るために、『小説の書き方は自由』という言葉は存在します。
例えば、現実には犯罪は許されません。
しかしフィクションの世界ならば、犯罪を行うことが推奨され、賛美の対象になる、弱肉強食の世界も許されるのです。
そこから先に自由は許されません。『弱肉強食』というルールが存在するため、作者の気まぐれで変えてはなりません。現代日本人にはごく普通の人権観を持つキャラクターは、意思を貫くために様々な困難に打ち勝つか、強者によって倒されなければなりません。(その世界にとって)異質な法治国家が存在するならば、設立と維持を設定し、読者に納得させなければなりません。
なおかつ作者は『読者に楽しんで読んでもらえる作品を作る』という、絶対的な束縛を自ら作ることになります。放棄はできますが、同時にその作品を擁護する権利も捨てているわけですから、いかなる批難をされても反論は許されません。
小説で許されている自由なんて、製作過程全体では1割もありません。
ですが残り9割を作るために、その1割が自由でなければならない、という風に捉えています。
小説を書こうと思っても、なかなか自分の思うままになりません。
強固な殻を打ち破りたいから『小説の書き方は自由であるべき』と考えます。
だからこそ、無責任を助長させるような『小説の書き方は自由』という意見が、自分には受け入れられないのです。
『小説の書き方は自由』とおっしゃる方は、どういう意味で『自由』だと思っておられるのでしょうか?