記憶の蓋
ザイアムが、外に出た。
ぼんやりと寝惚けたザイアムではない。
少しだけ本気のザイアム。
中庭の中央で、抜き身の『ダインスレイフ』を構える。
空気が張り詰めていくのを、ノエルは感じた。
中庭に配置されていた者たちは、その姿を眼にし固唾を呑んでいる。
虚空を睨み、ザイアムは動かない。
『ダインスレイフ』の剣先も、微動だにしない。
誰か敵でもイメージしているのだろうか。
数分が経過した。
たった数分が、途方もなく長い時間に思われた。
不意に、ザイアムが動いた。
地を揺るがすような踏み出し。
全ての挙動が連動し、究極とも思える一つの斬撃を生み出す。
『ダインスレイフ』を構えるザイアムに、近付く者などいない。
皆が、遠巻きに眺めているだけだった。
それなのに、遠く離れたザイアムの剣の一振りに、何人かが後退りをする。
腰を抜かしかけている者もいる。
空気が剣で叩かれる衝撃が、ノエルの肌に伝わってきた。
これが、ザイアムだった。
非の打ち所のない、究極の剣士。
力と技が完璧に組み合わさった、美しいまでの剣筋。
息をつくザイアムは、汗で濡れていた。
どれだけの集中をして、剣を振ったのか。
このザイアムに、敵う者などいない。
ソフィアだろうとクロイツだろうと、ストラーム・レイルだろうと。
ザイアムがいる限り、この基地からティア・オースターが奪還されることはないだろう。
鞘に『ダインスレイフ』が収められる音が響いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
(……頭痛い……気持ち悪い……)
寝台の上で体を丸めるようにして、ティアは頭を抱えた。
なにかが、体に染み込んでくる。
数日前に、ネックレス型の魔法道具に損傷が出てから感じ続けていることだった。
砂漠には、瘴気が満ちているという。
魔法道具には、それから身を守る効果があったはずだ。
体に染み入ってきているのは、瘴気なのだろうか。
鎖が壊れたネックレスを握り締める。
それで、不快感はいくらかましになったような気がした。
ただ、頭痛は治まらない。
魔法道具を交換してもらえばいいのかもしれないが、余り他人と関わり合いたくなかった。
ネックレスが壊れたのは、『百人部隊』隊員の男に無理矢理押し倒された時だ。
また、あんなことがあるかもしれない。
セシルがいれば頼めただろうが、彼女は負傷してから姿を見せていない。
空気が震えたような気がした。
ティアは、窓から外に眼をやった。
ザイアムが、深紅の大剣を手に構えている。
巨大な肉体。逞しい手足。無造作に長く伸ばした黒い髪。
(相変わらずよねー……)
頭痛で朦朧とした眼差しで、彼を見つめる。
昔と、少しも変わらないような気がする。
剣を構える姿は、圧巻だった。
見る者に畏怖を与える。
見慣れていなければ、息を詰まらせていただろう。
(……あれ?)
さっきから、なにかおかしい。
(……相変わらず? ……昔? ……見慣れて?)
以前から、知ってはいる。
ロウズの村にあるティアの家、オースター孤児院を襲う『コミュニティ』の部隊の中に、あの大男はいたのだ。
ルーアは、殺されそうになった。
知ってはいる。
だが、昔というほど昔ではない。
ザイアムが、赤い大剣を振り下ろす。
今度は、本当に空気が震えた。
窓越しに、圧力を感じた。
瞬きしながら、大男を見つめる。
「……ザイアム」
彼の名前を呟く。
切なさを感じさせる響きがあり、ティアはぞっとした。
口が、妙にその名前を言い慣れている。
小さな家の小さな庭で、大きな剣を振るザイアム。
軒先から彼の鍛練を見つめるティア。
その情景が思い浮かび、ティアは戸惑った。
これは、いつの出来事だ。
眩暈がする。
剣を振るザイアム。
(……あなたは、誰……?)
頭が痛い。
(……あたしは、なに……?)
隣に、男の子が座っていた。
長い赤毛の少年。
いつもこうして、二人で並んでザイアムを見ていた。
少年が、こちらに顔を向けた。
どこか拗ねたような顔付き。
少年の唇が動く。
名前を、口にする。
『ティア』。
◇◆◇◆◇◆◇◆
包囲の突破は、簡単だった。
ユファレートと二人で飛行の魔法を発動させ、兵士たちの頭上を越える。
追ってくる者はいない。
矢の一本さえも飛んでくることはなかった。
「これから、どうするの?」
ユファレートは、暑さのためか息を切らせていた。
北国育ちのユファレートは、弱冷気の魔法で周囲の空気を冷やし南国の熱気を防ぐことが多いが、魔力の消耗を抑えるためか、現在は使用していないようだ。
その代わり、体力は消耗するかもしれない。
砂漠を照り付ける太陽は、容赦がない。
「そうだな……みんなと合流したいとこだけど……」
ルーアは、辺りを見回した。
視界に入るのは、黄色い砂ばかり。
敵の姿は見えないが、味方の姿も見当たらない。
一応、太陽の位置で方角くらいはわかる。
夜になっても、月や星を見ればわかるだろう。
進むことも戻ることもできる。
戻ること、つまり戦術的に意味のない撤退は、却下だった。
進むにしても、二人だけでザイアムたちが待つ敵の基地に乗り込むのは、自殺行為だろう。
だから、まずはテラントやデリフィス、シーパルと合流したい。
「……こういう時こそ、エスなんだけどな」
クロイツとせめぎ合っているのか、姿を見せない。
「……そうだな。こういう事態のための、私だ」
不意に聞こえてきた声に、ユファレートがびくりと体を震わせる。
ルーアも、内心では驚いていた。
突如現れるエスに、完全に慣れるということが、いつまで経ってもできない。
それに微かに苛立ちながら、声がした背後に振り返る。
ぼんやりと浮かぶエス。
どこか薄く、背後の砂漠が透けて見えた。
「……調子良さそうだな」
「……クロイツに、主導権を握られた」
ルーアの皮肉に、力無く言葉を吐き出す。
「だが、一手だけ出し抜いた」
「……どう出し抜いた?」
「君たち二人についてのダミー情報を掴ませた。クロイツは、そのダミー情報を部下に知らせ、カリフはそれを元に作戦を組み上げている」
「……俺たちの居場所を、勘違いしているってことか?」
「そうだ」
ユファレートと顔を見合わせる。
それは、基地に不意打ちができるということだった。
だが、不意打ちに成功しても、通用するとは思えない。
ザイアムやクロイツ、この二人は、やはり強力すぎる。
「攻撃すべきは、基地ではない」
思考を読んだか、エスが言う。
「ナルバンという者を狙うべきだ」
ナルバン。確か、カリフの部隊の副官だとかいう者である。
「ナルバンは、少数の兵士を連れ、テラント・エセンツとデリフィス・デュラムに襲撃を掛けようとしている。ここから、そう遠くはない。そしてナルバンは、ダミー情報により、君たちが近くにいることに気付いていない」
「……俺たち四人で、攻撃できるな」
「そういうことだ」
エスが、大きく頷く。
「クロイツを出し抜くなど、そうできることではない。チャンスは一度きりだ。確実に、ナルバンを仕留めろ。それで、カリフの部隊の脅威は半減する。勝機は増す。基地を攻略するための、足掛かりになる」
「……了解」
「案内しよう」
エスが、先に歩き出す。
薄くぼやけた背中を見ながら、ユファレートと並んで付いていった。
「……あの、エスさん。シーパルは?」
「今のところは無事だ、ユファレート・パーター。だが、ここからは少し遠い」
「……まずは、テラントやデリフィスと合流ですね」
「そうだ」
そして、四人でナルバンを倒す。
シーパルと、なんとか上手く合流する。
その後、ティアの救出に向かう。
太陽は、傾き始めていた。
夜になると極端に冷え込むが、今はまだまだ暑い。
水分の補給だけは、怠らないようにした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ザイアムがいた。ルーアがいた。
二人とも、ややぎこちないが、たまには笑う。
三人で暮らしていた。
まるで、家族のように。
(……違う。これ、あたしの記憶じゃない……)
意味もなく手枷を鳴らし、また頭を抱える。
そのルーアは、十代前半に見えた。
ルーアとは、同い年である。
当然、ティアも十代前半となる。
すでにオースター孤児院で生活していた。
(……これって、もしかして……『ティア』さんの記憶なんじゃ……)
ルーアは、昔『ティア』と暮らしていたはずだ。
今、脳裏に浮かぶルーアは幼い。
これは、『ティア』の記憶であり、『ティア』の記憶の中のルーアとザイアムなのではないか。
(……でも、なんでそれをあたしが見てるの?)
オースター孤児院で聞いた、ザイアムの言葉。それを思い出す。
『良かったな。弟が、生きて戻ってきて』
(違う! だって、あたしは……)
幼い頃、物心ついてすぐ、両親を失った。
オースター孤児院を運営するリンダとは遠縁であり、それでティアは引き取られることになった。
オースター孤児院で、育ってきたのだ。
(……あれ?)
ぞっとする。
父と母がなぜ死んだか、思い出せない。
事故死だったか、病死だったか。
(……なんで……なんでよ!?)
必死で、オースター孤児院での記憶を辿る。
ロウズの村の小学校に通った。
その道筋を、はっきり覚えている。
ほぼ毎日、幼い弟や妹たちの送り迎えをしていたのだから。
だけど、自分が小学生として小学校に通っていたことを、思い出せない。
どの靴箱やロッカーを使っていたか、どこの教室で授業を受けていたか、担任は誰だったか。
思い出せない。
代わりに、脳の中を占めていく記憶がある。
ザイアム、そしてルーアと過ごした、三人の時間。
(これじゃまるで、あたしが……『ティア』みたいな……)
オースター孤児院で過ごした思い出は、夢幻だったというのか。
そんなはずはない。
それに、ルーアは言った。
『ティア』は死んだと。
(あたしは、なんなの……?)
問う。
大男の姿が、頭に浮かんだ。
「……ザイアム」
顔を上げる。
全身が汗で濡れていた。
あの大男なら、なにか知っているはずだ。
記憶の中のザイアムは、『ティア』やルーアと暮らしていた。
(ザイアムなら……)
聞き出そう。
彼の言葉を、受け入れられないかもしれない。
だが、聞かなくては。
中庭に、大男の姿はなかった。
建物の中に戻ったのだろうか。
ティアは、寝台を降りた。
足枷がありまともに歩けないが。
よろけながら、ティアは扉へと向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
フニックは、ゆっくりと砂漠を進んでいた。
旅人たちは、ずっと先にいるはずだ。
フニックが向かう必要はないのかもしれない。
旅人たちと契約し、カレンの救出に行かせた時点で、フニックは役割を終えたのかもしれない。
それでも、フニックはカレンの元に向かいたかった。
絆がある、と思っている。
カレンと旅をし、二人で生きている間に出来上がった絆だ。
それを、余人に語る気はなかった。
カレンを金で買ったのは事実であるし、最初は売るつもりだったのは確かなのだから。
例えば物語に登場する英雄のように、悪人の手から颯爽とカレンを救うような出会いだったのなら、周りの者たちに堂々と語っていたのかもしれない。
金でカレンを買ったことを、卑しいと言う者もいるだろう。
買って良かったのだ、とフニックは思っていた。
そして、気高き英雄ではなく、商人で良かった。
商人として金を稼いできたから、カレンを買うことができた。
フニックが金を出さなければ、誰か他の者がカレンを買い、そしてどこぞの貴族に売り付けていただろう。
カレンは貴族の慰み者となり、年を経たところで捨てられることになっていた。
貴族なら、『コミュニティ』に連れていかれた時点で見捨てるだろう。
妾のような存在の女のために、動く訳がない。
フニックというただ一人の男だからこそ、カレンというただ一人の女のために動くことができる。
商人であり金があるからこそ、救出のために人を雇える。
カレンとの絆を、理解できる者は少ないかもしれない。
理解されなくてもいい。
カレンさえわかってくれれば、それでいい。
広い広い砂漠に、フニックは一人ではなかった。
女魔法使いマリア・エセノアが、同道している。
この女だけは、フニックとカレンの間にある絆を、信じてくれているのかもしれない。
出会った時から、マリアはフニックに協力的だった。
「そんなに急ぐことはないわ」
「しかし……」
フニックはラクダに跨がっていた。
マリアは、徒歩である。
のんびりといっていいペースで、歩いていた。
砂漠の旅は、滞る。
平原で馬を走らせれば、一日に何十キロも進むことができるが、砂漠ではそうもいかない。
足場が悪いし、砂嵐が一日中吹き荒れることもある。
一日に二、三キロ程度しか進めない場合がある。
「慌てなくていいわ。基地はもう、わたしの長距離転移の範囲にあるから」
「長距離転移……」
「その名の通り、長距離を移動する魔法よ。長距離転移を使用して、カレンさんの元に向かう」
「……そんな魔法があるなら、すぐにカレンの所へ行って、連れて帰ることも……」
「それは無理よ」
あっさりと、マリアは否定した。
「転移先にね、予め魔法陣で印を付けておく必要があるの。あなたの側から離れていた数週間の間に、わたしは先に基地に向かったのだけど、ニキロ離れた所までしか近付けなかったわ」
「……そこまでは、すぐに行けるってことかい?」
「ええ」
マリアは、南の空を気にしているようだった。
少し、風が出ている。
「長距離転移で、基地の近くまで行く。そこから、基地に侵入して、カレンさんの元へ向かう」
「俺は……」
フニックは、安定しないラクダの上で、自身の胸を撫でた。
「俺も、連れていってもらえないだろうか? 役立たずだとわかってはいるが」
「……長距離転移は、使用者のみに効果がある魔法」
「……そうか」
「でもね、ある女の子が、七百年間誰もできなかった、長距離転移の術式の中に他者を組み込むということをやってのけた。彼女がそれを使用するところを見せてくれたお陰で、わたしもあと一人くらいは、連れていくことができるようになった」
「……じゃあ」
「あなたも、連れていくつもりよ。カレンさんに選択させる時、彼女の側にはあなたがいなければならない」
「ああ……」
風が、肌を撫でていった。
砂漠では、強い風がちょっと吹くだけで、全身が砂塗れになる。
「……そうか。最初から俺を連れていってくれるつもりだったんだな。だから、今も俺の側にいる」
「それだけじゃないの。あなたの側は、隠れるのに都合がいい」
「……そうなのか?」
「クロイツ」
何気ない様子で、マリアがそれを口にする。
どこかで聞いたことがあるような気がした。
「『コミュニティ』の、指揮を執っている者の名前よ」
(……ああ)
その説明で、思い出した。
あのイグニシャが、カレンを連れていった日に、その名前を口にしていた。
「クロイツは、今もあなたのことを視ている。だけど、こうも思っている。戦闘が始まってしまったため、フニック・ファフという男に、もう出番はない」
「……そうだろうね」
フニックには、戦う力がない。
商人にできるのは、戦闘前の準備くらいなものだった。
一旦戦闘が始まってしまえば、あとは眺めているしかない。
「だからこそ、いいのよ」
「……?」
「あなたは、視られているけど、意識されていない。それは、わたしにとってとても都合がいいこと」
「……よくわからないな」
マリアは、フードの下でくすりと笑ったようだった。
「かくれんぼの極意、知ってる?」
「……え?」
「わたしは、ずっと隠れてきたから。クロイツから、『コミュニティ』から。だから、知っている。最良の隠れ方はね、なにかに身を潜めることでも、相手の視界から外れることでもないの。相手の視界の中にあっても、意識されない。それが理想よ」
「……」
「クロイツという男は、天才」
マリアが、遠くに眼をやる。
南の空ではなく、東、基地がある方角。
「だから、世界中を同時に視ている。側で戦闘が起きていても、世界の情勢を意識している。でもそのせいで、近くの些細なことを見落とすの」
風で、マリアが被るフードが外れた。
初めて眼にする、顕わとなったマリアの素顔。
二十代半ばだろう。はっとするような美人である。
「あなたは、視られている。だけど、意識されていない。わたしが隠れるには、都合がいい」
フードを被り直しながら、マリアは続けた。
フニックは、前方に視線を移した。
先を進む旅人たち。
戦闘がすでに始まっているらしい。
「……彼らは、勝ってくれるかな?」
フニックは、話を変えた。
隠してあったマリアの素顔を見てしまったのである。
マリアに気にした様子はないが、フニックはなにか気まずく感じていた。
ごまかすために、話題を変えたのである。
「……彼らだけなら、勝てない。ジェイク・ギャメが軍を動かしてくれたけど、それでも無理。だけど、わたしがいる」
「……君なら、勝てる?」
「勝てない。だけど、あの二人を喰い止めるくらいならできる。ここでなら……」
「……ここでなら?」
「わたしは、『器』だから……」
「……」
『器』という言葉がなにを指しているのか、フニックにはわからなかった。
マリアは魔法使いである。
なにかの魔法のことだろうか。
「大丈夫よ。あなたは、わたしが守る。カレンさんを、助け出してみせる。旅人たちの、誰も死なせない。この身に変えてもね……」
「……」
戦えない、そして魔法を使えないフニックには、わからない。
だがこの魔法使いは、なにかとてつもない決意をしていないか。
マリアが、また南の空模様を気にし始めた。
「……荒れるわね」
「……そうなのかい?」
「気付いてなかった? 砂嵐が起きる前、必ずといっていいほど、南方から湿った空気が流れてくるの」
マリアは、微かに溜息をついたようだった。
「……地の利を持つカリフやナルバンが、見落とすかしら? エスが……でも彼は、クロイツに力を封じられているし……」
ぶつぶつと呟く。
南の地平に、黒い影のようなものが見えた。
それが、渦を巻いている。
マリアの予告通り、砂漠を嵐が包もうとしていた。