南下
大陸を南下していく。
ティアが連れ去られてから、すでに一月半が経過していた。
拉致したのはノエル、そして『百人部隊』隊長ウェイン・ローシュ。
彼らはホルン王国を南へと進み、ラグマ王国との国境にあるレボベル山脈を避け、船を利用してニウレ大河を上っていた。
情報は、逐一エスからもたらされている。
足止めは叶わなかったらしい。
先を行くウェイン・ローシュたちを止めるには、ホルン王国の軍隊に動いてもらわなくてはならないだろう。
表向きはリーザイ王国に仕えているエスに、そんな権限があるはずもない。
頼めはしないだろう。一人の女のために、何百という軍人を死なせてくれ、などと。
ウェイン・ローシュたちは、滞ることなくラグマ王国へ向かっているようだ。
協力者が多いのだろう。
ヴァトムの領主がリトイ・ハーリペットであることからもわかるように、ホルン王国は『コミュニティ』の影響が強い。
ラグマ王国も、それほど大差ないだろう。
ウェイン・ローシュたちからティアを取り返すのは、自分たちでやらなければならないということだ。
追うルーアたちの旅も、順調といえた。
エスがなんらかの手段で交渉しているのだろうが、行く先々の街や村で、替えの馬が準備され、馬車の御者が支度をしている。
去年の秋から冬に、ヴァトムの兵の協力の下ホルン王国を北上した時と、変わらぬ速度で南下できていた。
ルーアたちは、激しく揺れる馬車から放り出されないように、車体にしがみついていればいい。
エスが、話し掛けてきた。
御者の眼を気にしてか、姿を見せようとはしない。
声だけを聞かせてくる。
ルーア個人に話し掛けてくることもあれば、他の四人にも話を聞かせていることもある。
今回は、ルーアにだけ声を届けているようだった。
他の者にも話し掛けている時は、みんなの息遣いがすぐ近くから聞こえるような気がするのだ。
『ノエルたちは、ラグマ王国に入国したようだ』
(……そうか。それで?)
『推測になるが。南下を続けるだろう。ユガケの街までな』
(ユガケ……)
ラグマ王国の中部にある、なかなか発達した街である。
『砂漠の入り口』と呼ばれる街でもあり、その通称の通り、東にはザブレ砂漠が広がる。
『ユガケの街から、東へ。……ザイアムとクロイツが待っている。彼らと合流するつもりだろう』
(ザイアムか……)
ほとんど無意識のうちに、ルーアは胸に手を当てていた。
シーパルやユファレートの力を以てしても消しきれなかった、ザイアムの『ダインスレイフ』に貫かれた古傷がそこにある。
ザイアムのことを思い出す時に胸の傷痕を撫でるのが、癖になりつつあった。
(砂漠でなにをやっているんだ、あいつは?)
『……』
質問に答えずに話を変えようとしている気配を、ルーアは感じた。
いつものことだった。
答えたくない質問には、エスは絶対に答えない。
『ザブレ砂漠で待ち受けるは、ザイアム、クロイツ、ノエル、そしてウェイン・ローシュ以下『百人部隊』』
(豪華メンバーだな。これでソフィアもいれば、『コミュニティ』オールスターじゃねえか)
『他にも、兵士を連れてザイアムたちと合流しようとしている者たちがいるようだ』
(益々もって豪華絢爛)
『どこからどう分析しても、勝てる見込みはない』
(だろうな)
『……落ち着いているね』
(お前もだろ)
今のペースで旅が進んでも、ザブレ砂漠まではまだ一月半は掛かる。
四月が終わろうとしていた。
到着は、六月の中旬以降になるだろう。
先の決戦のために、今の自分を精神的に追い込んでも仕方ない。
それだけではないが。
エスは勝てる見込みはないと言ったが、それは戦闘をしても勝てないという意味だった。
勝利の条件が、戦闘に勝つことではないこともある。
(『百人部隊』には、連携をさせない。分断すれば、各個撃破も可能だろ。ノエルは、他の奴らがなんとかする。クロイツは、お前が牽制する。ザイアムとは戦いを避ける。その他大勢は、まあなんとかするさ。そして、オースターを取り返す)
今回の勝利の条件は、ザイアムやクロイツを倒すことではない。
ティアを助け出すことだった。
『見事なまでに楽観的だな』
(うるせえよ。そんなに上手くいく訳がないって、わかってはいる)
ザイアム、クロイツ、ノエル、ウェイン・ローシュ。
笑えるくらいに強敵が揃っている。
その上、『百人部隊』や他の戦闘員である。
総勢百五十か二百か、あるいはもっとか。
たった五人で戦って、勝てる訳がないのである。
だから、出し抜く。
そして、ティアを助ける。
難しいことではあるが、戦い勝利を目指すよりは望みがある。
『……間もなくレボベル山脈だが』
また、エスが話題を変える。
間もなくといっても、山脈に至るまでにまだ数日掛かるだろう。
ただその山嶺は、すでに霞んで見えるようになっていた。
秋にホルン王国を北上した時はヴァトムの街を通ったが、今回は立ち寄ることはない。
あの街は、西の海岸線沿いにある。
今は、東のニウレ大河沿いで馬車を走らせていた。
エスの指示である。
ヴァトムの街の東隣りには、『城塞都市』ジロがあった。
レボベル山脈を越えるための道の近くにジロの街はあるが、そこへ向かっているようではない。
『新たな道ができている』
思考を読んだかのように、まあ実際に読んだのだろうが、エスが言う。
(新しい道? ニウレ大河のことじゃないだろうな?)
船は嫌いだった。
なぜか激しく酔ってしまう。
それでも、必要となれば乗らない訳にもいかないが。
『水路ではない。悪路ではあるが……悪路以上の悪路ではあるが、道がある』
(……なんか、嫌な強調の仕方だな)
『だが、普通に山脈を越えるよりはずっと早い』
(……ふぅん)
時間は大切だった。
『コミュニティ』がなにを企みティアを攫ったのか知らないが、救出が早まれば早まるだけ、企みを潰せる可能性は上がる。
『レボベル山脈を越えれば、レボベルフアセテ地方だ』
(……ああ)
レボベル山脈を越えれば、山脈の裾野レボベルフアセテ地方。
そこでルーアたちは、ある事件に巻き込まれたことがある。
一つの決着があり、一つの挫折があった。
ルーアにとっては、自分の未熟さと無力さを痛感させられる出来事だった。
『再会と新たな出会いがあるだろう』
(……再会と、新たな出会い?)
聞き返したが、そこでエスの声は聞こえなくなった。
去っていくのを感じる。
他の者たちには気付かれないように、ルーアは舌打ちをした。
(再会と出会いだって……?)
新たな出会いは、どこにだってある。
だから、それについては追及しない。
だが、再会とは誰となのか。
レボベルフアセテ地方にいる知り合いたちの顔が、いくつか思い浮かぶ。
エスに思考を誘導されているような気がして、ルーアは顔をしかめた。
(……山脈を越えれば、レボベルフアセテ地方、か)
そこで出会った姉妹。
(……そうか。あれから一年経ったんだな……)
この時期、レボベル山脈の北では雨がほとんど降らない。
南からの雲を山嶺が遮るからだろう。
空は、よく晴れていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
フニックは忙しかった。
時間は、いくらあっても足りない。
決戦のために、金を稼がなくてはならない。
商人であるフニックが前に出ても、まともな戦力にはならないだろう。
前で戦う者たちが少しでも有利になれるよう尽力する。
それが、フニックの役割であるはずだ。
そのためには、やはり金である。
いくつかの噂を流し、広めた。
北東のザッファー王国では数年来の飢饉により、作物、特に麦が不足している。
今なら、とてつもない額で売り捌けるだろう。
ザッファー王国の商人たちは、ラグマ王国まで来て大量の麦を買っている。
やがて、砂漠を越えてこのユガケにも買い付けに現れるだろう。
噂を流すだけでなく、フニックはほぼ全財産を費やし、買えるだけ麦を買った。
噂に耳を澄ましていたであろう他の商人たちは、実際に麦を購入する者を見ることになる。
フニックの周囲の商人たちも麦を買い始め、やがてその市場の動きは、周囲の街まで影響を与えるようになった。
ユガケの街とその周囲で、麦の値段が高騰する。
外から見ている者には、異常に見えただろう。
内にいる者には、意外と見えないものだ。
内にありながら外から眺めている気分で噂を操っていたフニックには、よく見えていた。
値段が上がるだけ上がった時に、フニックは全ての麦を売却した。
それだけで、財産は三倍になった。
フニックの麦の売却をきっかけに、その値段が急落していく。
売るのが遅れた者は、大損をしただろう。
中には、フニックのことを恨んでいる者もいるはずだ。
騙される方が悪い、とは言わない。
だが、先を見通すことができないのは甘い、と思う。
国や地方によって異なるが、ラグマ王国の大半の地域では、市場操作は禁止されていない。
詐欺ではなく、これは商人の戦いの一種だった。
勝てば懐が温まり、負ければ損をする。
下手をすれば破産する。
フニックは勝ち、勝者がいる分敗者もいるというだけの話だった。
それでも、フニックのことを恨む者はいる。
余りに恨みが深い者には、商会を通じ謝罪し、多少の金を払った。
ただ恨まれるだけならば良いが、放っておけばフニックの暗殺さえ考え出す者も現れる。
儲けが少し減るが、命には代えられない。
カレンを助けるまでは、万が一などは起きてはならないのだ。
市場を混乱させる目的は、他にもあった。
ラグマ王国執務官ジェイク・ギャメが、近隣の街や村を視察している。
民の生活と暮らしを見るのが表向きの目的のようだが、付近の城塞や砦、川や山まで訪れ調べているのが、いかにもジェイク・ギャメらしかった。
城塞や砦を訪問するのは、戦争が起きた時のことなどを想定しているからだろう。
どれだけの民を収容できるか、各城塞や砦は連携が取れるのか、様々なことを考えているに違いない。
川や山を調べているのは、新たな産業を起こせないか考えているからだろう。
フニックは、直接ジェイク・ギャメのことを知らない。
だがその俊才ぶりは、ラグマ王国中に噂されている。
ジェイク・ギャメのこれまでの政治手腕からフニックが分析した限りでは、ラグマ王国が誇る若い執務官は、文官でありながら内政に軍事も結び付けて考えられる人物だった。
大抵の者は、別々に分けて考える。
少なくとも、どちらかに偏り考える。
だからこそ、国に仕える者は軍人と文官に分けられる。
両方を考え全体を見渡せるのは、才能だった。
貴重な人材であり、それができているのはジェイク・ギャメと、国王であるベルフ・ガーラック・ラグマだけであろう。
ジェイク・ギャメは、切れる。
当然、すぐ近くで起きた市場の混乱も見落とさない。
混乱の中心にいるフニックの存在にも、気付くだろう。
悪い印象を持たれるかもしれない。
それとも、たいした商人だとでも思うだろうか。
最初はどういう印象を持たれても構わなかった。
まずは、フニック・ファフという名前を、ジェイク・ギャメに記憶させることだ。
それからフニックは、できるだけ細かく市場の状況を記し、手紙としてジェイク・ギャメに送った。
フニックの名前を知った後ならば、かなりの確率でジェイク・ギャメは手紙に眼を通す。
豪放ではなく繊細な人物だろう。
精神ではなく、思考が繊細なのである。
きっと、細かければ細かいだけ、ジェイク・ギャメの興味を引く。
手紙には、他のことも書いた。
商人が儲け過ぎている。
いかにすればそれを政府の利益に変えることができるか。
いくつかの提案をフニックは考え、手紙に書き記した。
ラグマ政府は、国力を上げることに貪欲である。
先年、『ヒロンの霊薬』に関わる法案が打ち出されたのも、一時的に損はするが、将来的には国力が増すことになると計算したからだろう。
ジェイク・ギャメほどの人物ならば、フニックが考え出した提案はすでに大抵思い付いているに違いない。
だが、驚く。
商人が損をし国が得をする提案を、商人がするのだから。
そして、フニックへの興味を持つ。
手紙がもたらす結果がわかる前に、フニックは旅に出た。
北のレボベルフアセテ地方である。
女魔法使いマリア・エセノアは、かなり細かい情報を渡してくる。
情報源を話そうとはしないが、とにかく正確だった。
それによると、マリアが推薦した五人の旅人たちは、レボベルフアセテ地方を通るということだった。
いずれ、ユガケにも訪れる。
その時に雇えばいいとマリアは言ったが、それは商人ではない者の考え方だった。
カレンを助けなければならない。
そのためには、五人の旅人たちの協力が必要となる。
つまり、旅人たちとの契約は、フニックにとってはとてつもなく重要なことなのである。
重要な契約や商談のために、必要とあらば複数回相手と会い時間を掛けて話を煮詰めていくのは、商人としての常識だった。
特に今回だけは、絶対に契約しなければならない。
契約後の破談も、あってはならない。
レボベル山脈の麓では、良い岩塩が採れる。
まずはそれを利用して、五人を雇えないか。
本格的な契約を結ぶ前に、取り敢えずフニックのことを知ってもらいたい。
そして、雇い主として信頼できると認識させる。
荷台が空の馬車を走らせながら、考えに考えた。
五人と確実に契約を結ぶためには、とにかく考え、あらゆる想定をすることだ。
カレンが隣にいた時とは違い、独りの旅だった。
話し相手はいない。
だが、考える時間だけはいくらでもある。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ホルン王国とラグマ王国。
両国の関係は、決して良好とはいえない。
ラグマ王国は隙あらば他国へ攻め込もうという構えであり、ホルン王国はそれに対して不快感を示している。
だが、関係が悪くても国交が完全に途絶えるということはない。
両国の間にはレボベル山脈が横たわっているが、古くから海やニウレ大河を利用し、人々は行き来していた。
山脈を越える者も、全くいない訳ではない。
だが、レボベル山脈は気楽に足を踏み入れるには険し過ぎた。
ランディを追跡していた時と、『ヴァトムの塔』を巡る一件の後の二回、ルーアはレボベル山脈を越えているので、その困難さはよく知っていた。
去年のことは、よく覚えている。
体力で劣るティアやユファレートだけでなく、テラントやデリフィスでさえ辟易していた。
平気な顔をしていたのは、山の民であるヨゥロ族のシーパルくらいなものだった。
水路も、絶対に安全とはいえない。
冬の期間はニウレ大河は凍ることがある。
春から夏に掛けて、海は荒れることが多くなるらしい。
船を利用すれば、金も掛かる。
往来が難しい両国であるが、長い年月を費やし、新たな道が切り開かれた。
驚くべきは、その道は国や軍の協力をほとんど受けることなく、両国の民の手で造られたことだろう。
(まあ、だからこそこんな道なんだろうけどな……)
足下で木の板が軋むのを感じながら、いくらか皮肉気な感想を思い浮かべる。
国の協力を受けていない。
つまり、軍事目的ではないということである。
とても軍隊が通れるような道ではない。
道としては、お粗末といっていい。
そして、危険極まりない。
剥き出しの岩肌に、幾本もの杭が打たれていた。
その上に、板が敷かれている。
人が二人並ぶのも難しい狭さであり、それが延々と続き道となっていた。
眼下は急流の川であり、水面からは尖った岩がいくつも見えている。
板から足を踏み外したら、簡単に死ぬことができそうだった。
頭上から岩が転がり落ちてくることも、有り得なくはないだろう。
まともな道とは掛け離れているが、普通に山脈を越えるよりも、かなり日程を短縮できるようだ。
エスの計算によると、レボベルフアセテまで山越えをすれば一月以上必要となるが、この桟道を利用すれば十五日ほどで到達できるということだった。
一列になり、桟道を進む。
先頭は、山育ちであるシーパル。
そして、テラント、ユファレート、デリフィス、ルーアと続く。
誰かが落ちても助けに行けるように、魔法使い三人で魔法を使えないテラントとデリフィスを挟んだ形だった。
ユファレートが前後に注意を払わなくてはならない中央なのは、単純に彼女の魔法使いとしての実力が、ルーアよりも上だからである。
さすがに、緊張感のためかみんな口が重い。
それでも、数日あれば慣れてきた。
先頭のシーパルが落ち着いているのが大きい。
天候の変化や風の強さを計算しながら、進む速度を調整してくれる。
ルーアたちは、その指示に従えば良かった。
寝る場所も、シーパルが決めた。
適当な岩肌に穴を穿ち就寝場所を作る。
シーパルが選択した所ならば、寝ている間に穴が崩落したりすることもないだろうと思える。
桟道を進み一週間が経過したところで、岩肌に引かれているいびつな線を見つけた。
ホルン王国とラグマ王国の国境を表しているのだろう。
このいびつな国境線は、おそらくホルンの民とラグマの民の手により引かれた。
長年敵対してきた両国。
だがこの桟道は、きっと相当長い月日を掛けて、両国の民の手で造られた。
それを考えると、特別な意味があるようにも思える。
桟道を進むこと、十五日。
天候には恵まれた方だろう。
ちょうどエスの計算通りになるのか。
ルーアたち一行は、ラグマ王国レボベルフアセテ地方に到着した。