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エピローグ

目眩と同時に、投げ出された。

といっても、実際にどこかに放られたのではない。


ザイアムが立っているのは、原野だった。


三百六十度どこを見渡しても、平原が拡がっている。


「……ザッファー王国か?」


『魔女』の姿はない。

限界が訪れたのだろうか。

力に呑まれ消滅したか、どこかで強かに生存しているのか。


「そう、ザッファー王国だな。平原と騎馬、戦乱と混沌の国」


隣にいるクロイツは、なぜか上機嫌に見えた。


「と言っても、実際に平原が拡がるのは西部だけ。騎馬隊は、ラグマ王国の方が充実している」


「……割合の問題だろう」


確かにラグマ王国の軍の方が騎馬隊は充実しているかもしれないが、両国では軍事力に差がある。


騎馬隊が占める割合は、ザッファー王国の軍の方が上だろう。


遊牧民出身者、またはその血が混ざっている者が多いためか、巧みに馬を乗り熟なす兵が大勢いる。


「戦乱と混沌。だがそんなものは、どの国にもあるね」


「……」


面倒臭くなり、ザイアムはその場に座り込んだ。

立っているよりは楽だろう。

寝転がると、更に楽だ。


ただ、座ったまま、寝転がったままだと、尻や背中が痛くなる。


ザイアムの意思に反して、髪や爪は勝手に伸びる。


自分の体なのに、何一つ思う通りにいかない。

困ったものだと思う。


融通の利かない体だ。

実に面倒臭い。


「行こうか、ザイアム」


ザイアムは、クロイツの体を見上げた。


どこに行くつもりなのか、視線で問う。


『魔女』の生存確認や追跡だろうか。


どうでもいいが、自分の意思で進むのは面倒だ。


連れていくなら勝手に連れていけ、という心地である。


「ソフィアの所へ。早めに合流したい」


「ソフィアの……」


数ヶ月前から、ソフィアはこのザッファー王国に潜伏しているはずだ。


合流したいということは、そう遠くないうちに、ソフィアが『中身』を手中にできるということかもしれない。


「さあ、ザイアム」


クロイツの催促。

立って歩け、と言っているようだ。


「……魔法は?」


「試してみるかね? 瞬時にエスに感知されてしまうが。そしてストラーム・レイルに連絡がいき、彼が飛んで来る」


「……それは、面倒だな」


ザイアムは、溜息をついた。


「……では、どうする?」


「取り敢えずは、歩くことになる」


「……」


なんとなく、剣帯に触れてみる。


「……行きたくないな」


「ここに残るかね? ソフィアが激怒しそうだが」


「……それも面倒だ」


仕方ない。ザイアムは膝に手を付き、のろのろと立ち上がった。


「では、行こう」


クロイツが先を行く。


やや痩せた背中を眺めながら、ザイアムも足を単調に動かした。


「……どれくらい歩くことになる?」


「どうかな? 上手くエスの眼を欺いて誰かと連絡を取り、付近の街から馬車を調達できたとして……数日は歩くことになるかな?」


「……」


ザイアムは立ち止まった。


「そう嫌そうな顔をするな、ザイアム」


振り返りもせず、クロイツが言ってくる。


「もう帰りたい」


「……君は、もっと人生を楽しみたまえ。たまには、私と旅をするのもいいじゃないか」


「……」


「ああ、そうだ。退屈しのぎに、ちょっと話をしてあげよう」


「いや、べつに……」


「ネイト・ホルツマン」


構わずクロイツが、人名らしきものを口にする。


「知っていると思うが」


「……知らんな」


「君はもう少し……いや、いいか。とにかくそのネイト・ホルツマンだが、なかなかの魔法使いだよ」


実際に、なかなかの魔法使いなのだろう。


なにしろ、クロイツが認めているのだ。


「彼は、『コミュニティ』に所属していた。だが、裏切ってくれた。そして、まだソフィアに殺されていない」


「……」


なかなかどころではないのかもしれない。


ソフィアの役割は、組織に害である者を消していくこと。


裏切り者の粛清も、彼女の仕事になる。


『コミュニティ』最強である『死神』と呼ばれる女。


それに、まだ殺されていないのだ。


「……ただ裏切るだけなら、まだ良かったのだがね」


「……と言うと?」


「彼は、『中身』に細工をしてくれた」


「細工?」


クロイツが、肩を竦める。


「上手くソフィアが『中身』と接触してくれればいいが」


細工については、話してくれないようだ。


思わせ振りなことを言って、全てを話さなかったりする。


いつも通りといえばいつも通りか。


そして、隠していることが、たいしたことのない事実だったりするのだ。

質の悪い男である。


面倒なので、追及は控えた。


「……ああ。ちなみに、だが」


クロイツの肩越しからの視線。

眼は、笑っていた。


「ネイト・ホルツマンだが、実は『中身』の父親でね」


原野に、風が吹く。

そのたびに、膝ほどの高さの草が揺れる。


「さあ、旅を楽しもうじゃないか、ザイアム」


「雨が降ればいいのに、とふと思った」


雨嫌いのクロイツが、不快そうに顔を歪める。


雨が降れば、旅は滞るだろう。

歩き回る必要がなくなるかもしれない。


ザイアムの望みも虚しく、数日晴天が続いた。


相変わらず平原が拡がっている。

人と会うことはなかった。

クロイツが、慎重に避けているのかもしれない。


「……やれやれ。とうとう遭遇してしまったか」


立ち止まり、クロイツが言った。


「ザイアム、気付いているだろうが……」


地平線の少し手前に、誰かがいる。

おそらくは男。大きな男。


「ストラーム・レイルだよ」


どうするか。聞こうと思った時には、クロイツはいなくなっていた。


(……逃げた? 置いていかれた?)


二人で逃げれば、それだけ移動は遅くなる。


エスに捕捉されやすくなり、ストラーム・レイルを振りきれないだろうが。


クロイツは、自身を確実に逃がすために、ザイアムをここに置き去りにした。


飢えた野良犬の追跡を振り切るために、鼻先に肉を放り捨てるようなものだ。


(……まあ、いいがな。それにしてもこれは、面倒だ)


遠くに見えるストラーム・レイルらしき人影は、すでに剣を抜いているようだ。


ずしりとした感触を、右手に感じた。


いつの間に、『ダインスレイフ』を抜いたのか。


柄から伸びた管が、腕に突き刺さる。


ストラーム・レイルに見られているのを、強く意識した。


逃げ出したクロイツなど眼中になく、ザイアムだけに集中している。


(……面倒だ)


『ダインスレイフ』の剣身が、赤く染まった。


◇◆◇◆◇◆◇◆


ラグマの軍が、退いていく。

目的を達成した、ということだろう。


一度か二度はぶつかるのではないかと覚悟していたが、幸いにも睨み合うだけで終わってくれた。


イグニシャたちに続く犠牲を出すのは、避けられた。


部下たちを一所に纏め、ウェインはノエルを誘い、部隊から距離を取った。


部下たちとノエルを、余り一緒にしておきたくない。


セシルも、無言で付いてくる。

元々、面倒を見させるために、ウェインがノエルに付けた女だ。

今は、ウェインよりもノエルの部下というような立場にある。


「ノエル。クロイツから連絡があったぞ。ザッファー王国西部にいるそうだ。ザイアムと共にな」


「……いつの間に?」


「魔法でも使ったんだろ」


クロイツなら、一日で国境を越えても、誰も驚かない。


「……お前も、ザッファー王国に行くよな?」


「うん。そうなるかな」


ノエルは、ザイアムがいる所に行きたがる。


ザイアムがザッファー王国にいるのならば、当然ザッファー王国に行こうとする。


「ウェインは?」


「俺は……」


ウェインは、自分の部下たちを眺めた。


『百人部隊』。九十九人だった部下たちが、今回の犠牲で八十八人になってしまった。


人員の補充があるにしても、『百人部隊』が百人に戻るのは、当分先のことになるだろう。


部隊に加われるほど戦える能力者は、そうはいない。


イグニシャの代わりを務められる者は、もう現れることはないだろう。


能力者としてだけなら、イグニシャはウェインよりも遥かに上だった。


イグニシャは、戦死した。

直接殺したのはルーアだが、クロイツが殺したようなものだ。


「……しばらくは、クロイツの言いなりになりたくないな」


「ふぅん?」


部下たちは、適当に散らばらせる。


クロイツからの指示は、まずウェインにくる。

ウェインが頷かない限り、部下たちが危険な任務に駆り出されることもないだろう。


「君はどうする?」


ノエルに聞かれ、セシルは戸惑ったようだ。

小さな声で答える。


「あなたたちに、従います」


それは、組織にいる者として、模範的な解答かもしれないが。


ノエルは苦笑していた。

きっと、気に喰わない答えだったのだろう。


「そうじゃなくて」


どこか軽薄に、ひょいと肩を竦める。


「僕らとか組織の意思は関係なくさ……もしなんでもできて、どこにでも行けるんだとしたら、君はどうしたい?」


「……」


余り考えたことがなかったのだろう。


ノエルのような、逆らえば殺されるような者を上司に持つと、自分の意思が希薄になるのかもしれない。


しばらく経ってから、セシルは自分の意思を口にした。


「……久し振りに、故郷に帰ってみたい」


「ザッファー王国だっけ?」


「ええ。ザッファー王国東部の山岳地帯にある、名前もない小さな村。そこが、わたしの故郷」


「じゃあ、そこに行こう」


あっさりとノエルは言った。

セシルは、また戸惑っている。


「東部と西部の違いはあるけど、同じザッファー王国だし。その気になれば、すぐにザイアムの所に行けそうだし」


ザッファー王国がどれだけ大きいのか、わかっているのだろうか。


このラグマ王国ほどではないが、それなりの国土がある。


ノエルの脚力なら、数日で合流というのも、不可能ではないだろうが。


「ウェインも来るよね?」


「……俺も?」


なぜ。理由がない。


ただ、ノエルの誘いを断るのは危険だった。


それに、一緒にいても以前よりノエルのことを怖いとは思わなくなった。


自分とザイアムだけは、ノエルの機嫌を損ねても斬られることはないような気がする。


東部と西部ならば、クロイツとはそれなりの距離を保てる。


向こうから会いに来ない限り、顔を合わせることはないだろう。


(けどな……)


ノエルのやや幼い顔付きと、セシルの整った顔を見比べる。

二人の邪魔になるのではないか。


二人が恋仲ということはないだろう。


上司と部下であるが、そんな単純な関係でもない。


この二人の関係を端的に表すことは、不可能に思えた。


「……まあ、いいけどな」


ノエルから言ってきたのだ。

付いていくことに腹を立てたりはしないだろう、多分。


どうせ、やることもない。

それに、この過ごしにくい砂漠を離れる理由ができるというのは、悪いことではない。


決まった。

取り敢えずの目的地は、ザッファー王国東部となる。


部下たちは、適当に解散させた。

金に困っている者はいない。

みなそれぞれ、好きな場所で好きに過ごすことになるだろう。


激しい訓練を受け、厳しい任務を乗り越えてきた部下たちだ。


あのドラウ・パーターと戦い続けた者もいる。

骨休みは必要だった。


次に召集を掛けるのは、いつになるか。


今は夏。

せめて一年後、とウェインは考えていた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


ルーアたちは、カジガの村に戻っていた。


ティアを救出に向かう前に立ち寄った、砂漠の北にあるオアシスの村である。


ルーアたちはともかく、右腕を失ったカレンには休める場所が必要だった。


フニックはいない。

ラグマ王国執務官ジェイク・ギャメに呼び出され、村を離れていった。


他にも、カレンの入院の手配などで当分は忙しいだろう。


宿に宿泊ではなく、空き家を借りた。

払いはフニックである。


昼下がり。カレンは部屋で横になっている。


彼女には、シーパルが付いていた。

シーパルとユファレートが、交代で治療を続けている。


ユファレートの顔の傷が綺麗に治ったことについて、最も喜んだのはティアだった。


今日は、朝からユファレートにベタベタしている。


曰く。


『ここ三ヶ月のあたしには、ユファ成分が圧倒的に足りていなかった』


ということだった。


しばらくはティアの好きにさせようと、ユファレートは観念したらしい。


髪をアップにされたり団子にされたり三編みにされたりでかいリボンを付けられたりしているが、おとなしく魔導書を読んでいる。


「……おお、ユファレートのポニーテールやべえな」


ルーアが素直な感想を口にすると、ユファレートの髪で遊んでいたティアが、一瞬動きを止めた。


縛ったユファレートの黒髪をほどき、睨み付けてくる。


「……変態」


「……なんでだよ」


居間に、三人である。


シーパルは、別室でカレンの治療をしている。


傷の治療というよりも、体力の回復を目的としたものになるか。


テラントとデリフィスは、外で剣を合わせていた。


珍しくというよりも初めてかもしれない、今回無傷で終わったテラントは、力をもて余しているようだ。


ティアの腰には、『フラガラック』が戻っていた。


紛失したはずだが、宙を浮く建造物の中にあったらしい。

エスが回収していた。


外で嬉しそうに振り回し、訳のわからない光をずばずば出すティアを見るたび、余計なことをしてくれたなとなんとなく思ってしまう。


「……そう言えば、服はどうした?」


ティアはここ数日、『コミュニティ』から与えられたという、王宮の舞踏会で着るようなひらひらしたドレスを纏っていた。


昨日までは、それをおちょくるネタにしていたのだが。


今朝からは、以前と同じような旅装である。


「やっぱり旅をするには向かないから、古着屋さんに売ったの。結構いい生地みたいで、普段着それに寝巻きと交換できました。ブーツも新調できたし、旅費も獲得」


「……ふむ、つまりはだ」


ルーアは、一つ大きく頷いた。


「敵味方の垣根を越えて贈られた品を、金欲しさに売ったと」


「嫌な言い方しないで!」


金属が激しくぶつかり合う音がした。

テラントとデリフィスである。


虫に刺されたふりをして、ルーアは右腕を擦った。


左肩の怪我は治っている。

痛みもまったくない。


だが、右腕にはじわりといった感じで鈍く痛み続けている。

あの時から、ずっとだ。


「部屋に戻ってるわ」


休んでいたい。

疲れが抜けていない。

眠たいのに、なかなか眠れなかったりする。


自分が使っている部屋で、横になった。


暑苦しいのは、余り気にならなくなった。


砂漠の暑さに体が慣れてしまったのか、汗をかく量が減ったような気がする。


やはり疲れているのか、しばらくすると、うとうとし始めた。


夢を見たような気がする。

内容がはっきりしない夢だが、ザイアムがいてストラームがいた。


二人とも、ルーアにとっては師になる。


そして、父親のような存在といえるのかもしれない。


自分は、相応しいのだろうか。

あの二人に。


こんなにも生臭いのに。


(……生臭い?)


眼を覚ますと、辺りはすでに暗くなっているようだった。


開いた扉の向こうから、廊下に灯された明かりが部屋に入り込んでいる。


ティアに、顔を覗き込まれていた。


「……なんだよ」


「いや、寝顔は意外と可愛いなーって思って」


「……やめろ」


頬を引きつらせ、ルーアは身を起こした。


もう一度開かれた扉に眼をやり、嘆息する。


多分、鍵を掛け忘れたということはないだろう。

また、針金で抉じ開けたのか。


「……なにしに来た?」


「ルーア、晩御飯の時間になっても起きないんだもん。お腹減ったでしょ? 持ってきてあげたから……」


「いらん」


本当は空腹感があるが、ルーアは即座に拒否した。


できるだけ見ないようにしていたが、机の上にトレイが置かれている。


トレイの上には椀があり、椀の中は黒く濁った液体で満たされ、そこに白い塊が捩じ込まれている。


生臭い香りが漂う。

水が腐ったような臭いだ。


夢の中まで漂ってきたのは、これだろう。


「……腹減ってないから、下げてくれ」


嘘は、なぜかティアに見抜かれる。

顔を隠しながら、ルーアは言った。


「お腹減ってないの? 本当に?」


「……ああ」


「ん、わかった。けどまあ、それは置いといて……取り敢えず味見を」


「ああ、もう……なんで助けちゃったかなぁ……」


「そこから悩むの!?」


嘆きながら、ルーアは部屋を見回した。


「あっ! 今さりげなく窓の位置確認したでしょ!? また窓から放り捨てる気!? なんでよ!?」


「いやぁ……だって、ゴミ箱に捨てると臭いが部屋に充満するだろ」


「捨てる場所じゃなくて捨てるという行為にあたしは文句を言ってるの! なんでそんな酷いことするのよ!? 食材に関わってきた方々のことを、少しは考えたらどうなの!」


「……お前にだけは言われたくねえよ」


「そ、そんな低い声出さなくても……」


どうやら、本気でティアはビビったようだ。


「とにかく、せっかく作ったんだから……」


「……作るなよ」


「なんでよ!? あたしが得意なことは料理だって、ルーアが言ったんじゃない!」


「ああ、あれ冗談冗談」


「軽っ!」


確かに言った。

空飛ぶ建物の中でだ。

だが、もちろん冗談である。


「いいわよ! 百歩譲って、余り上手でないことは認めるわよ!」


一歩目から認めろ。


「上手になるために、頑張ってるんじゃない! 上達のために、他の人の意見や感想を必要としてるの!」


「いつも通りまずいかと」


「だから、まずいまずいじゃ参考にならないのよ! どこが悪いとか、どんな味だとか、そういうのを聞きたいの!」


「どんな味って言われてもな……」


辛いとか苦いとかだけではなく、とにかくまずいのだ。


いちいち意表を衝かれるまずさなのだ。


あらゆる角度から、まずさが襲い掛かってくる。


「……苦行みたいな味というか」


「食事は楽しいもの!」


「……なあ、もういいじゃねえか。料理が全然できない女が好きって男も、探せばいると思うぞ」


「あたしは上手になりたいの! て言うか、はっきり言ってあたしって、あと料理さえできるようになれば、女として割りと完璧だと思うのよね」


「……おお、すげえな……。冗談で言ってるのはわかるが、冗談でも言えるのがすごい。そんな胸か腹か背中かわからんような胸のくせに……ぐっ!?」


ティアのノーモーションからの腹パンに、ルーアはうずくまった。


いつの間にこんな技を。

というか、味方にぶっ放すな。


「あれ? 意外と効いた? 動けない? もしかして、チャンスだったりする?」


顔に、椀を近付けてくる。


「ま、待ってくれ。せめて、自分のタイミングでいかせてくれ」


今回は逃げられないような気がする。


無理矢理大量に口に捩じ込まれるよりも、一口目でさっさと気絶した方が賢いのかもしれない。


受け取った椀にたぷたぷに溜まったドス黒い液体と、ぶよぶよした感じの白い固体に、ルーアは心底からの溜息をついた。


「いつも通りの酷さで、なんか逆に安心した……」


ティアを助け出したのだと、これで確信を持てた。


「……食べる前に聞きたい」


「なに? なんでも聞いて」


「今回は、なにを作ろうとした……?」


「……さあ?」


また、なにを作ったかもわからないパターンか。


「……じゃあ、なにをしたらこんな物ができた?」


「……えっと……確か……パンをといだの」


「……パンを、とぐ?」


意味がわからず、ルーアはそのまま聞き返した。


「カジガパンってあるじゃない」


「ああ」


この辺りで生活する人々の、主食になるパンである。

見た目は、コッペパンに近いか。

少しぱさぱさしたパンである。


「それを、といだの」


「……だから、さっきからその『といだ』てのはなんだ?」


「……炊く前に、お米って研ぐよね」


「……ああ」


「あんな感じで」


「……ちょっと整理させてくれ」


「うん」


確かに、炊く前に米は研ぐのが一般的だろう。


研ぐことによりヌカ臭さがなくなるとか、余分なネトネト感がなくなりおいしくなるとか、ユファレート辺りから聞いたことがある。


だから、パンを研いだ訳か。


なるほど。わからん。


「なんでパンを研ぐ!?」


「間違えたのよ!」


「だから、なんでそんな間違え方ができるんだよ!?」


「わかんないわよ! お陰で手がベトベトよ! どうしてくれるのよ!」


「知るかっ!」


頭を抱えたい。

椀を持っていては、それもできないが。


「とにかく! 過程はいいのよ! 大事なのは結果!」


「……お前な。料理ほど過程が結果に直結するのも、そうはないと思うぞ」


「初耳だわ! いいから味見を!」


「あー……」


なぜパンをそのまま持ってこないのか。


「パンが、水でべちゃべちゃになったってことだよな。だったら、食べられなくもないはず……」


ぶつぶつと自分に言い聞かす。

ドス黒い液体については、考えないようにした。


「それにしても、もう少しなんとかならんのか……」


「いかんともしがたいわ」


「……」


何度か深呼吸して、ルーアは覚悟を決めた。


「神よっ!」


「祈るな!」


爪の中に入り込んでくる白い物体に嫌悪感を覚えながら、ルーアはそれを口に入れた。


いつも通り。

それでありながら予想外の角度からの一発。


なぜか使い古した革靴をくわえさせられている自分を想像しつつ、ルーアは気を失った。


◇◆◇◆◇◆◇◆


呻き声。そして白眼を剥いて倒れるルーアに、さすがにティアは驚いた。


「……おーい、ルーア、大丈夫?」


側に座り込み、ぺちぺち頬を叩く。

反応はないが、痙攣はしているので平気だろう。

大体いつもこんな感じである。


「お礼をしたかったんだけど……」


助けてくれた。

みんなに礼を言ったが、ルーアにだけは言いそびれていたのだ。


なにしろ最近のルーアは、調子が悪いのか部屋に閉じ籠り寝てばかりいる。


おいしい物を食べてもらい、元気になってもらおうと思ったのに。


今回は上手くいった予感がしたのに。


「……あ。もしかして、おいしすぎて気絶したとか」


ルーアは、びくんびくんと痙攣している。


それはない、と言っているかのようだった。


「……お礼に、ならない……わよね」


ルーアの頬をぺちぺち叩き続ける。


まだ、目覚める様子はない。


「……ルーアって、『ティア』さんのことが好きなんだっけ」


返事はない。狸寝入りではなさそうだ。


「……もしかしたら、あたしがその『ティア』さんかもしれないんだけど」


言って、照れてしまう。


「だから、まあ、お礼になる、かな……って……」


ルーアの横顔にかかった彼の赤い髪を、ティアは指でどかした。


深呼吸してから、いくらか日に焼けた頬に、顔を近付けていく。


唇が触れる直前で、背後から物音がした。

慌てて振り返る。


廊下から部屋を覗き込んでいるのは、ユファレート。

ぶんぶん手を振っている。


「いやっ……わたしは、そのっ、なにも、見てないので……」


こんなに嘘が下手なユファレートは、初めて見る。


「その……どうぞごゆっくり!」


ばたばたと廊下を駆け去っていく。

大声でみんなを呼ぶ声が聞こえた。


話がある、とか言っているようだ。


なにを言うつもりなのか。


「やめてーっ!」


はっと我に返り、ティアは叫び声を上げた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


砂漠の入り口となる街ユガケにある病院の一室を、彼女は訪れた。


隻腕となったカレンが、寝台にいる。


彼女の姿に、カレンは口を開いた。


「……あなたは」


救出に現れた者の一人として、カレンは彼女のことを覚えていた。

微笑んで頭を下げる。


なんとなく、彼女は狼狽した。


昔は魔法医として、多くの患者と向き合った。


しばらく放浪している間に、怪我人との会話の仕方を忘れてしまったのかもしれない。


それでも、できるだけカレンと言葉を交わした。


フニックの話題が多い。


今は、あちこちを駆け回っているようだ。

たまには、この病室にも現れるらしい。


旅人たちへの感謝の言葉を、たびたび口にするという。

まだ礼をし足りないようだ。


デリフィスに追加報酬を払う約束をしたのに、払いそびれたことも気にしている、ということだ。


ラグマの夏。今は六月。七月、八月になれば、もっと暑くなる。


「マリアさん。わたし、助けられて良かった。化け物でも、人に愛されていいみたいです」


「……そうね。きっと、そう……」


助けて良かった。そして。


(わたしはきっと、この言葉が聞きたかった……)


空が少し黄色い。

東からの風が、砂漠の砂を運んでいるのだろう。


だが、窓を開けていても、今のところ砂が入ってくることはないようだ。


交易が盛んなユガケの街は、今日も賑わっている。


客を呼び込むための商人たちの活気溢れる声が、病室の中まで響いてきた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


ストラーム・レイルが向かってくる。


笑ってしまいそうになるほど、ただただ真っ直ぐに。


ザイアムは、『ダインスレイフ』を両手に持ち、体の後ろに回した。

全身を捻り、渾身の力で振る。


剣撃が、刃から解き放たれた。

大地を捲り上げ破壊しながら、斬撃が突き進む。


(さて……)


ルーアのおそらくは全力で放った魔法を、この一撃で弾き飛ばしたことがある。


その師であるストラーム・レイルは、どうなのか。


斬撃と、なにかがぶつかった。

大気と大地が震える。

天と地を結ぶような柱が立って見えた。


柱を突き破る姿。ストラーム・レイル。


さすがに、弟子ほど軟弱ではないか。


『ダインスレイフ』から力場を発生させた。


ストラーム・レイルの剣を持たない左手が、輝いて見えた。


走る速度をほとんど落とすことなく、力場を突破する。


力場を砕いたのではなく、すり抜けたように見えた。


実際は、自分の体が通るだけの穴を空け、そこを走り抜けたということだろう。


その手際が余りに良すぎたため、すり抜けて見えたのだ。


迫ってくる。


ザイアムは、動かなかった。

最強と言われている男が向かってくるのならば、堂々と迎え打ってやろうというつもりになっていた。


見えてきた。

ストラーム・レイルの表情。

白髪。

無精髭も白い。

大きな体。

太い手足。


接近された。

速い。


走る速度は変わっていない。

だから、予測できるタイミングで懐に飛び込んできたことになる。

それでも驚いた。

速すぎる。


踏み出し。

息吹きさえも聞こえる。


斬撃。


考えることもなく、体が反応していた。


ストラーム・レイルの魔力を帯びて輝く刃が、『ダインスレイフ』の赤い刃を撫でていく。


派手さとは裏腹の余りに軽い斬撃に、また驚かされる。

葉を斬った程度の手応えもない。


軽い斬撃に、虚を衝かれた形になったのかもしれない。


ストラーム・レイルを見失っていた。


魔法か、馬鹿げた身体能力か。

視界の中央にいた巨大な老人が、いなくなっていた。


(……私の身長は、二メートルだぞ、ストラーム・レイル)


見失った。だが、視覚以外の別の感覚で、ザイアムはその姿を捉えていた。


『ダインスレイフ』を振り上げる。


(それを、頭上から襲うか!)


ストラーム・レイルが降ってくる。

輝く刃を先にして。


ストラーム・レイルの全体重が乗った一撃を、『ダインスレイフ』で受け止める。


今度は、重い。

大木さえ薙ぎ倒しそうな衝撃が、ザイアムの体を叩く。


足下に亀裂が走る。

足首まで地面に埋まる。


ストラーム・レイルの雄叫び。

ザイアムも、呼応するかのように雄叫びを上げていた。


振り払う。


全身が痺れるように痛む。

その痛みを、心地好いとさえ思える。


着地したストラーム・レイルに斬撃を叩き込もうと、ザイアムは『ダインスレイフ』を構え直した。


ストラーム・レイルが、掌を向けている。

光が、大気を焦がし唸っている。


『ダインスレイフ』の剣身が、更に赤く輝く。


発生した力場が、光を弾き散らした。

鼓膜が破れそうな轟音が響く。


反撃したかった。

だがすでにストラーム・レイルは、ザイアムから距離を取っていた。

斬撃を飛ばしても、たやすく防がれてしまうだろう。


地面から両足を引き抜き、改めて構える。


大きなストラーム・レイルと、対峙した。


どう評価されるだろう、ふと思った。


端から見ている者がもし居たら、どちらをより評価するか。


如何なる反撃も許さないような、怒涛の攻撃を繰り出し続けたストラーム・レイルか。


それを、一歩たりとも動くことなく全て捌いたザイアムか。


互いに無傷。互い以外の者がもし居たら、絶対に無傷では済まないようなぶつかり合い。


本気を出した。ストラーム・レイルも、そうだっただろう。


全力だった。ストラーム・レイルも、そうだっただろう。


互いに本気で、全力で、真剣だった。

だが、もっと上があるような気がする。

ザイアムにも、ストラーム・レイルにも。


『ダインスレイフ』の赤い剣身を、ストラーム・レイルの姿と重ねる。


世界最強と称されている英雄。

ルーアの師であり上司である老人。

ルーアにとっては父親のような存在でもあろう男。


「……はっきりさせようか、ストラーム・レイル」


「……なにをだ?」


返事があったことに、ザイアムは驚いた。


一人言のつもりだったし、距離があるため聞こえることはないだろうと思っていた。


なにを、だろう。

なにがはっきりするのだろう。

どちらが世界最強に相応しいか、だろうか。

馬鹿馬鹿しい。


(……あるいは……)


ストラーム・レイルが、前に駆け出す。


『ダインスレイフ』が、唸りを上げる。


斬撃。魔法。

押し合い、共に弾ける。


神が戯れているかのように、地面が揺れる。


前に出よう。

先程は、ストラーム・レイルだけが前進した。

今度は、ザイアムも前に出る。

より激しい激突が予想される。


ストラーム・レイルの姿が迫る。

先程の倍の速度で。

ザイアムも、前に出ているからだ。


吠える。それだけ、『ダインスレイフ』も応える。


心から溢れている感情は、恐怖か、歓喜か。

それとも、畏怖か。


ストラーム・レイルは、なにを感じているか。


『ダインスレイフ』と強靭な魔力を帯びた剣が、赤い剣身と光輝く刃が、ザイアムとストラーム・レイルが。


大陸東部に位置する平原と騎馬の国で、互いを砕くようにぶつかり合った。

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