彼女の世界に響き渡る
部屋が動いている。
いや、建物全体が動いているのかもしれない。
ぎしぎしと軋み続ける音を聞くと、そう思えた。
ユファレートがシーパルと共にこの部屋に閉じ込められてから、何時間が経過したか。
床にも壁にも天井にも無数の魔法陣が描かれており、それが少しずつユファレートたちの魔法の効果を減じさせている。
鉄格子の扉は、固く閉ざされている。
腕力では、開けられそうにない。
部屋の外には複数の敵が待ち構えていたようだが、シーパルによると今その気配はないらしい。
だからといって、安易に行動するのは危険だが。
敵のなんらかの能力により、ここに閉じ込められたと考えて間違いないだろう。
敵の手中に落ちたも同然だった。
動くのは、ルーアやあのカリフという男の魔力を感知した時。
それを、シーパルと話し合って決めた。
シーパルは、壁の魔法陣を短槍で削り取っている。
黙々と作業を続ける背中を眺めながら、ユファレートは気持ちを落ち着け考えた。
エスから、ティアが助け出されたという連絡は受けている。
もっとも慌てさせられる要因は、取り除かれたのだ。
だから、待つという選択ができている。
(……あのカリフって人たちは、わたしたちと戦おうとしていない)
魔法をほとんど封じた状態にしながら、戦闘を仕掛けてこない。
戦いを避けているとしか思えなかった。
警戒されている、ということでもあるだろう。
敵の立場になったつもりで、ユファレートは思考を続けた。
テラントやデリフィスは、魔法を使えない。
それは、本当ならば圧倒的に不利なことであるはずだ。
だが彼らは、ユファレートやシーパルと同等、時には同等以上の活躍をする。
遠くから強力な魔法を浴びるだけで、為す術もなく敗れてしまうという条件下で、彼らは生き延び、敵を倒してきた。
敵に魔法を使わせない、使われる前に倒す、使われる時は味方の魔法使いの援護が届く所まで退く、そういうことができているからだ。
莫大な経験により培われた判断力が、命を支えている。
それは、敵であり魔法が使えないナルバンにも言えるだろう。
そして、ユファレートにはまだ経験が足りない。
だから、考えた。
完成された彼らの判断力に、少しでも追い付けるように。
(……わたしたちは、警戒されている)
それでも戦闘になったら、カリフは、ナルバンは、どういった戦い方を選ぶか。
「……夜明けまで、あと一時間といったところですかね」
窓はない。だから、外の様子は窺えない。
それでも時間の変化がわかるのか、シーパルはそう言った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
カリフとナルバン、それに兵士たちの存在に、最初に気付いたのはテラントだった。
というよりも、カリフたちの頭上に浮かぶ無数の木材に、まず反応したのか。
大変な量である。
小さな砦くらいなら、楽に建てられそうだ。
思わずルーアは呻いていた。
「オースター、テラント、俺から離れるな」
もしあれだけの木材を上から落とされたら。
防げる自信は、まったくなかった。
だからといって、抵抗をやめる気にはならない。
大量の木材が、カリフたちの頭上から動く。
思ったよりも静かなものだった。
そして、思ったよりも速い。
あっという間にルーアたちの頭の上まで到達し、次々と降り注いでくる。
ティアの悲鳴。
テラントがそのティアの頭を掴み、伏せさせる。
ルーアは掌を、上空に翳した。
何秒支えられるかわからないが。
「フレン・フィールド!」
魔力の力場が、傘のように拡がる。
直後に、衝撃があった。
盾にした力場からではなく、足下からである。
周囲に打ち込まれた木材が、地面を揺るがしている。
(……俺たちを、直接狙っていない……?)
目眩ましが目的だろうか。
随分回りくどい真似をする。
それとも、なにか理由があるのか。
魔法道具の力によって木材を操り、だがそれになんらかの制限があるということかもしれない。
『ヴァトムの塔』は、ある一定の方角にしか放てないと世間では言われている。
強力な魔法道具には、往々にして制限が課せられているものだった。
足下が揺れる。
(……いや……浮いている……?)
砂が抜けていくような音が、どこかから聞こえた。
やがて、踏んでいるものが固い木の床に変わった。
周囲と頭上も、木の板で覆われている。
壁と天井がある。
(……建物の中?)
何百人も入れるくらいのスペースがある。
窓はない。扉が、遠くに一枚だけ見えた。
「……なにこれ?」
ティアが袖を掴み、不安そうに聞いてくる。
ルーアは、答えられなかった。
確かなことは、なにも言えない。
強制的に建物の中に転移させられたのではない。
おそらく、自分たちの周りに、床や壁、天井が造られた。
テラントは、床を蹴ったり壁を撫でたりしている。
造りを確かめているのだろう。
テラントに倣い、ルーアも壁に触れてみた。
普通に、木の板の感触である。
「さてさて、どういうつもりなんだか」
テラントが、胃の辺りを押さえる。
「……で、明らかに浮いてるよな、これ?」
「……ああ、浮いてるな」
胃の中の物が逆流してきそうな感じがある。
飛行の魔法で激しく高度を変えている時と、同じような感覚である。
微かな胸焼けを鎮めるために深呼吸をし、ルーアはテラントと顔を見合わせた。
殺しきれなかった足音だろう、木の床が軋む音を聞いたのだ。
テラントが、『カラドホルグ』を抜く。
息遣いも聞こえるような気がする。
ここに、忍び寄ってきている者がいる。それも複数。
カリフたちと考えて間違いないだろう。
「……お前らは、ここにいろ」
低く告げて、テラントが遠くに見える扉の方へと向かう。
素直に従い、ルーアは壁へと身を寄せた。
左肩を負傷した。
右腕にも、鈍痛がある。
体力も魔力も、かなり消耗している。
ティアは、武器を失っている。
ここは、テラントに頼るしかなかった。
テラントを盾に、ルーアが魔法で援護する。
それが、最善の戦い方になるだろう。
扉の前に、敵が集結しているのを感じる。
テラントが『カラドホルグ』から伸びた光の刃を、正眼に構える。
切っ先が向いているのは、木製の扉。
ティアの唾を呑み込む音が聞こえた。
開いた。
「ンなっ!?」
テラントが奇声を上げる。
開いたのは扉ではなく、床だった。
テラントを中心に、五十メートル四方の床が、いきなり割れたかのように開く。
突然足下の床が消失しては、いくら常人離れした身体能力を持つ者でも、どうしようもない。
夜の闇と砂だけが見える眼下へ、テラントは落ちていった。
咄嗟のことであり、舞台上で繰り広げられているコントを眺めるような気分で、落下していくテラントを見送ることしかできなかった。
「テラント!?」
穴へと駆け寄ろうとしたティアを、ルーアは襟首を掴んで止めた。
目測だが、地面まで軽く十メートルはあるように思える。
ティアが飛び降りて、無事に済む保証はない。
床が、再び閉ざされる。
「ガン・ウェイブ!」
テラントの安否を確かめるため、ルーアは衝撃波を床に叩き込んだ。
木の床が粉々に砕ける。
見えるのは、また木製の床。
下の階の天井を撃ち抜いた形になるのか。
「……なんだと?」
つい先程床が開いた時は、砂漠の光景が見えたはずだ。
(……こんな短時間で、建物の構造が変わっている?)
下は、軟らかい砂である。
テラントならば、最悪でも足腰を痛める程度の負傷で済ましてくれるだろう。
それよりも問題は、建物が浮いていることだった。
魔法が使えないテラントでは、自力でルーアたちと合流するのは不可能である。
今度こそ、扉が開いた。
そこから部屋に侵入してきたのは、やはりカリフとナルバン。
兵士たちも十数人いる。
ルーアは舌打ちした。
テラントが落下した時に、ティアを蹴り落としておくべきだったかもしれない。
これだけの人数を相手に、ティアを守りきれるとは思えない。
咄嗟の判断を誤ってしまったのだろうか。
(……まあ、いいか)
息を整えつつ、ルーアは口の中で呟いた。
見えない所で危険な眼に遭われるよりも、見える範囲、手が届く範囲にいてもらった方が、いいのかもしれない。
「……ルーア、剣貸して」
背負った剣の柄に手を伸ばすティアに、ルーアは苦笑した。
その額を押さえ、止める。
敵にはカリフとナルバンがいる。
ティアを前衛に立たせ、自分は後方から援護などという訳にはいかない。
「お前は、下がってろよ」
「でも、ルーア、怪我して……」
「それでも、お前よりは強いよ。お前に戦わせるよりはマシ」
ティアが、傷付いた表情をする。
「……あたし、やっぱり邪魔かな……?」
「……」
しばらく前に、聞いたような台詞だった。
(……いや、違うか)
あの時は、言ったのだ。
ルーアが、ティアに。
邪魔だからいらない、と。
「あたしじゃ、みんなの迷惑にしかならない? ……役に立てない……かな?」
「……」
一旦ティアから眼を切って、ルーアはカリフたちの位置を確認した。
体育館ほどはありそうな、広大な部屋である。
カリフたちは、兵士たちを前にした陣形で、じわじわと近付いてきていた。
だが、まだ遠い。
話す時間は、充分にある。
「……役に立ってるよ」
「……え?」
「そりゃあ、お前はそんなに強くないかもしれないけど、別にいいだろ、そんなの」
「……」
「戦闘なんて、色々あるなかの、ほんの一面だろ? 普通に生活する分には、戦闘技術なんていらない訳だし、むしろ余計なことと言うか」
「でも……」
「誰にだって得手不得手はあるだろ。俺なんか、戦闘以外に人並みにできることなんて、なんもねえよ。だからまあ、戦闘の時くらいは体張るさ」
剣の柄に伸ばしかけた手で、ルーアは後頭部を掻いた。
「お前もさ、まずは自分の得意なことをすればいいだろ。戦闘で役に立とうとか、無理に考えなくていいと思う」
「……あたしの得意なことって、なに?」
「……」
「あたしの得意なことって、なに?」
「……料理とか」
「……なるほど。そっか。それもそうだね」
「……え? あれ?」
冗談で言ったのだが。
納得されてしまった。
(……まあ、いいか)
うじうじ落ち込まれるよりは、ずっといい。
「……じゃあ、俺に任せて、お前はここで待ってろよ?」
「……わかった」
ティアの表情に、ルーアは安堵していた。
どうやら、本当に納得してくれたようだ。
これで、武器も持たずに前に出るような真似はしないだろう。
ティアを部屋の隅に追いやり、ルーアは前へと進んだ。
敵は、カリフにナルバン。
それに、数え間違いでなければ、兵士が十六人。
テラントがいれば、まだ活路は見えた。
一人では、わずかな望みも見えない。
負けたら、どうなるのか。
カリフの目的は、なんなのだろう。
ルーアの命なのだろうか。
イグニシャなどは、執拗にルーアのことを狙っていた。
ティアのことを狙っている可能性もある。
しばらく前まで、ティアは囚われの身だったのだ。
(……ここで負けたら、オースターがまた捕まる……?)
「……はっ」
冗談じゃねえ。
大勢の敵。
狙いは、ルーアかティアか。
守勢に回ったら、そのまま押し潰される。
敵の狙いを狂わせるためにも、ここは攻める。
集団を崩す常套手段、頭を潰す。
狙うはカリフ、そしてナルバン。
左腕は動かない。
剣を右手に、ルーアは敵の中に突っ込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ルーアが真っ直ぐに向かってくる。
見ていて気持ちよくなるくらい、迷いなく真っ直ぐ。
勝ち目などほとんどないと、理解していない訳ではないだろう。
それでも予想通り向かってきた。
勝機がくるまで耐えるよりも、自ら勝機を掴みにいく男だと思っていた。
シーパル・ヨゥロやユファレート・パーターとは正反対と言えた。
どちらが良い悪いではなく、それぞれの個性だといえた。
もっとも警戒していたテラント・エセンツは、戦場から排除できた。
『木と金の箱庭』の力により、床板を開き、砂漠へ落としてやったのだ。
人を傷付けることはできない魔法道具だ。
だから、死んではいない。
だが、魔法を使えないテラント・エセンツは、もう戦闘に参加することはできないはずだ。
ここは今、宙に浮いている。
兵士を払いのけつつ、ルーアが迫ってくる。
「ナルバン」
向かってこないならば、ティア・オースターを狙っていた。
真っ直ぐくるのならば、こちらの最大戦力をぶつけてやればいい。
カリフが合図を出した時にはすでに、ナルバンは踏み出していた。
唯一の懸念は、シーパル・ヨゥロとユファレート・パーターの二人。
クロイツが去ったため、遠慮無く『木と金の箱庭』の力を使える。
だが、クロイツの助力も受けられない。
『木と金の箱庭』の核と同化したカリフでも、クロイツの助け無しでは完全な遠距離制御はできない。
敵の魔法使いたちを閉じ込めた部屋は、完全な制御が可能な範囲、つまりこの建物に組み込まれた状態だった。
あの二人が部屋を脱出するのは、不可能だった。
そういう罠を張っている。
ただ、ルーアが二人の元へ向かうのは、不可能ではない。
それを阻むために、確実に潰す。
突っ込んでくるルーア。
突っ込ませたナルバン。
二人が、接触した。
◇◆◇◆◇◆◇◆
どうしようもなかった。
いきなり足下の床が消失したのだ。
為す術もなくテラントは落下し、そして砂の中に埋まった。
喚きながら、這い出る。
「くそっ!」
怪我はないようだ。
下が軟らかい砂でなければ、危険だっただろうが。
見上げる。
空に、巨大な建造物ができあがっていた。
「おお……ティア城すげえな……」
呟いて、テラントはかぶりを振った。
そんなことを言っている場合ではない。
建造物は、浮いている。
飛んでも跳ねても届きそうにない。
あそこに、ルーアとティア、そして敵がいるのに。
なんとか二人と合流できないか。
半ば無駄ではないかと諦めつつも、テラントは周囲を見渡した。
「テラント!」
遠くから、声がした。
デリフィスである。
ラクダの手綱を引いている。
ラクダに跨がっているのは、フニックと、フニックに抱えられている女だった。
かなりゆっくりとした歩みである。
待っていられず、テラントも三人の方へ向かった。
移動が遅い理由は、すぐに知れた。
暗くて遠目ではわからなかったが、フニックも女も血に塗れている。
女の方は、右腕が無いようだ。
布地で全身をくるむようにしているが、隻腕である父と暮らしていたテラントには、すぐにわかった。
「……カレンです」
疲弊しきった声で、フニックが言う。
ティアを助けることはできたが、テラント個人の力では、それが限界だった。
カレンのことを、忘れていた訳ではない。
気にはなっていたが、デリフィスが助け出してくれていたか。
「じゃあ、あとは……」
テラントは、顔を上に向けた。
ルーアとティアが、敵と共に上空に浮かぶ建物の中にいる。
「ルーアとティアは、あそこだ。なんとかして、あそこまで行かねえと」
「あの二人については、いい。放っておけ」
「……デリフィス?」
予想外の台詞に、テラントは眉をひそめた。
「お前、なにを……」
デリフィスが、視線を上げる。
その先に、建物と同じように浮かぶエスがいた。
どうにも薄く、背後が透けて見える。
存在感も、どこか薄い。
クロイツとのせめぎ合いで、余力がないということかもしれない。
「あそこには、シーパルとユファレートもいるということだ。ルーアたちのことは、二人に任せておけ」
エスが、姿を消す。
テラントは、小さく舌打ちした。
「……で、俺とお前は、ここであいつらの無事を祈れってか?」
「お前には、他に気にしなければならないことがある。聞け、テラント」
肩を強く掴み、鋭い視線を向けてくる。
「俺は、お前の妻マリィ・エセンツと会った」
「……」
デリフィスの一言は、一瞬テラントからすべてを奪った。
言葉も思考力も、呼吸さえも。
「お前の妻は、俺たちの届かない所でたった独り、巨大な敵と戦っている」
「……どこだ、そこは?」
「俺にも、よくわからん」
デリフィスは、また上に視線を向けた。
先程エスが浮いていた方向だ。
おそらくエスを問い詰め、だが曖昧な説明ではぐらかされたのだろう。
「今の俺たちでは、辿り着くこともできない場所なのだろう」
「……」
「どうする、テラント? 届かないからといって、お前は諦めるか?」
「……」
まず、腹が立った。
なぜマリィは、デリフィスには姿を見せるくせに、テラントの前には現れようとしないのか。
この世でマリィを最も必要としているのは、この自分だというのに。
言わなければならないことが、いくらでもある。
テラントは空を睨み付け、そして大声でエスを呼んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ルーアの魔力を感知してすぐに、ユファレートとシーパルは行動を開始した。
二人で、いくつもの魔法陣が描かれた壁の一角を破壊する。
「これはまあ、なんと言うか……」
シーパルが呻く。
この建物自体の力なのだろうが、部屋は浮いていた。
吹き抜けの中央に浮かんでいるような構図である。
他の部屋まで、軽く十メートル以上は離れているか。
瞬間移動の魔法を使用して、ぎりぎり届くかという距離。
今は、極端に魔力を弱体化されている。
「……でも、問題ないわよね?」
「ええ。問題ありませんね」
ユファレートが聞くと、シーパルは力強く頷いた。
そして、自分たちが閉じ込められていた部屋を見回す。
「それにしても、逆転の発想と言いますか……いや、途中までは僕でも思い付きそうですけど、やっぱりあなたは凄いですよ、ユファレート」
「……凄いのはわたしじゃないわ」
「え?」
シーパルが怪訝な顔をするのがわかる。
長く共に旅をしてきたからだろう、見なくても声の調子などで、どんな表情をしているのか感じられるようになっていた。
ティアのことなら、もっとわかる。
小さな感情の起伏から、どういったことを考えているかまで感じ取れる。
ティアも、ユファレートのことをよく理解してくれているだろう。
「凄いのは、お祖父様。そして、グリア・モート」
ドラウがどうクロイツと相対したか、粒さに聞いた。
グリア・モートとルーアの戦闘を、しっかり見届けた。
『世界最高の魔法使い』と称えられた、祖父ドラウ・パーター。
ユファレートの祖国ドニックを混乱の渦へと落とした、グリア・モート。
立場の違いはあったが、二人とも偉大な魔法使いだった。
「わたしは、二人の技術を応用しているに過ぎないから」
一から二を作る方が、零から一を生み出すよりも遥かに簡単だろう。
ユファレートも、既存の魔法を応用・改良することはできるが、新たな魔法技術の発想となると、なかなか難しい。
そういうところは自分もまだまだだと、ユファレートは思っていた。
「充分凄いと思いますけど……まあ、今は置いときますか」
「ええ」
ユファレートは頷いた。
「この先で、ルーアが戦っている。ティアも、きっと近くにいる」
エスからの情報だ。
クロイツにより情報操作をされている可能性もあるが、概ね間違いはないだろう。
「みんなの、力に」
「当然よ」
距離は十メートル以上離れている。
魔力を弱体化されている状況では、飛行や瞬間移動の魔法を使用するのは危険。
だがユファレートは、迷わず瞬間移動の魔法を発動させた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
大きく振り回した剣で仕留められたのは一人だけだったが、それでもルーアの勢いに兵士たちが怯む。
前が開く。
カリフ目掛けて突っ込もうとし、ルーアは危険を感じた。
開き過ぎている。
向こうからも突っ込んでくる。ナルバン。
大剣による、上段からの一撃。
右腕一本では受け切れない。
前進を止めたルーアの顔を、風圧が叩く。
剣の腹を、大剣の先が擦っていく。
ルーアもナルバンも、共に左肩を負傷した。
違いは、完治には程遠いだろうが、ナルバンには治療に当てる時間がかなりあったという点。
ルーアは今、左腕を上げられない。
接近戦では、負ける。
後退しながら、魔法を練り上げる。
「ファイアー・ウォール!」
炎の壁が吹き上がる。直後。
「リウ・デリート!」
カリフの声が響き、炎が掻き消される。
ナルバンや十数名の兵士が前にいる状態では、カリフも思い切った攻撃魔法は使えないだろう。
その分、魔法による支援に回っている。
わずかに焦げた床板を越え、ナルバンが向かってくる。
舌打ちする時間も惜しい。後退しながら無理矢理魔力を引き出し、ルーアは魔法を発動させた。
「ヴォルト・アクス!」
効果範囲は狭いが、威力だけなら上位電撃魔法にも劣らない。
眼の前の空間で、電撃が弾ける。
魔法を連発した分、本来の威力は出せないが、それでもまともに浴びる訳にはいかないはずだ。
ナルバンが、背負っていた盾を左手に構える。
確か、魔法に対してかなりの耐性があったはずだ。
盾に大きな体を隠すようにしながら、突進してくる。
ルーアは、ナルバンが装備を変えている間に更に後退していた。
笑いそうになるのを堪えながら、魔力を引き出していく。
感じ取ったのだ。
カリフも気付いたか、支援を忘れ他所を見ている。
「ル・ク・ウィスプ!」
ばら蒔いた光の弾丸はあっさり盾に遮られるが、ナルバンを倒す目的で放ったのではない。
ナルバンに続いていた兵士たちの足が止まる。
何人かは光弾に撃ち抜かれていた。
ナルバンが接近してくる。充分に引き付けてから、ルーアは飛行の魔法を使用した。
真っ直ぐ後ろに飛ぶ。
追撃を受けやすい逃げ方ではあるが、とにかく距離を稼ぎたい。
ナルバンとの間隔が二十メートル以上開いた所で、ルーアは飛行の魔法を解除した。
膝を付きそうになる。
強引な魔力の引き出し方を続けてきた。
魔法を連発した。
無理をしているのは承知している。
それでも、あと一撃分だけ堪えろ。
稼いだ距離、時間。
左腕を負傷し思うように振れないはずのナルバンでは、全力疾走をできないはずだ。
卒倒するのも覚悟で、高度な魔法を構成していく。
ナルバンが、盾を構え直す。
次の一撃を防ぎきれれば勝てる、そう思っているのだろう。
「……受けるな! かわせ、ナルバン!」
魔法の構成を読んだか、カリフが警告を飛ばす。
ナルバンが、身を翻す。
(お前らには……!)
剣を足下に突き立て、ルーアは右手を翳した。
闇が生まれる。
(助けを求めて叫ぶよりも、こっちだよな!)
「ギルズ・ダークネス!」
ルーアの意思に従い、闇は殺到してくる敵の中央に転移した。
拡がり、何人もの兵士を呑み込んでいく。
闇の中心から、腐敗と崩壊が進む。
ルーアは、両膝を付いていた。
息が上がっている。
疲労と腐敗臭に、口を被いたくなる。
兵士は、六人にまで減っていた。
後方にいたカリフは無事である。
防御など関係なく、触れた者は死ぬ。
そういう魔法である。
その分、消耗も激しい。
「……残念だったな」
壁際まで退避していたナルバンが、低い声音で言う。
当たりさえすれば、必ず殺せる魔法。
だが、外れた。
巨体のナルバンが、立ち上がれないルーアを見下ろしている。
「……そうでもねえよ」
ルーアは、にやりとした。
「覚悟しろよ、お前ら……」
膝を付いたまま、告げる。
「……集まれ!」
前に駆け出し、カリフが血相を変え叫ぶ。
やはり、魔法使いであるカリフは気付いていた。
完成された魔力の波動に。
カリフの様子に、兵士たちが慌てて集結する。
ルーアにとどめを刺せる好機を前に、ナルバンが微かに逡巡する様子を見せる。
「ナルバン!」
怒声に近いカリフの声量に、ナルバンは短く唸り後退した。
ルーアは、駆けよってきたティアの肩を掴み伏せさせた。
カリフが、巨大な魔力障壁を展開させる。
『悪魔憑き』として魔力が強化されている分を差し引いて考えても、かなりの実力である。
「お前らがこれから戦うのは、あのドラウ・パーターも超えることになる魔法使いたちだ」
ルーアの発言に合わせたようなタイミングで、壁が突き破られる。
広間に、光が満ちる。
濁流の如く荒れ狂い、壁や床を砕いていく。
光は、的確にカリフたちを襲った。
ルーアやティアが、その破壊の力に巻き込まれることはない。
ルーアが魔法を連発したのは、彼らへの合図。
救援を求め、必死で上げた悲鳴。
彼女ならば、ルーアの魔力の波動を確実に感知してくれると思っていた。
彼ならば、壁の向こうのルーアやティアの位置を、完璧に把握してくれると思っていた。
光の放出が終わっても、余韻で空気が震えている。
広間を塗り潰すかのような光量だった。
そのため、視界がはっきりしない。
ただ、足音は聞こえた。
心強い足音。
ルーアたちの窮地に現れた、二人の魔法使い。
ティアが、眼を輝かせる。
「ユファ! シーパル!」
「二人共、無事でなによりです」
戦闘の場の緊張感を忘れた訳ではないだろうが、シーパルの表情は穏やかだった。
「無事って訳でもないんだけどな」
ルーアは、負傷した左肩を押さえた。
「無事ですよ。彼らを倒した後で、僕がちゃんと治しますから」
ユファレートは、無言だった。
表情をほとんど変えず、ティアの頬に触れる。
そして、肩、腰、腿と軽く叩いていく。
怪我がないか確認しているだろう。
「……ユファ?」
また、ティアの頬に触れる。
そこで、ユファレートは表情を歪ませた。
「……ティア……良かった……」
ティアも、顔をくしゃくしゃにする。
なんだか、泣き出しそうな雰囲気である。
「さてと……」
ルーアは、剣を杖代わりにして立ち上がった。
「俺はもう、余り戦えねえからな……」
「いいですよ、別に」
「うん」
シーパルは短槍を、ユファレートは杖を手に。
三人で、ティアの前に並ぶ。
向かい合うのは、カリフとナルバン、兵士が六人。
シーパルとユファレートの強烈な一撃を、カリフは受けきっていた。
驚愕に値するだけのことではあるが、それだけ消耗もしたはずだ。
崩れ去ったはずの足場が再生している。
『悪魔憑き』としての能力なのか、なんらかの魔法道具の力なのか。
どちらにせよ、地の利はないと考えていい。
「……強いぞ」
「もちろん、わかっています」
シーパルが、腕を上げる。それが、戦闘再開の合図だった。
「フォトン・ブレイザー!」
光線が、空間を貫いていく。
兵士を跳ね退け、突き進んでいく。
シーパルの狙いは、兵士ではなくカリフだった。
ただ途中に、兵士がいただけのことだ。
強い。いや、それよりも早い。
威力も発動速度も申し分の無い一撃に、魔力障壁で受け止めたカリフは後方に倒れ込んでいる。
ナルバンが、前進し掛ける。
接近戦になれば、シーパルもユファレートも、そうは魔法を使えない。
カリフにとっては、それが援護になる。
だが、踏み出しかけた足を止めた。
いきなり、ユファレートが真横に駆け出したのである。
みんなと離れれば、それだけ連携は取れなくなる。
当然、それを見逃すナルバンではない。
ナルバンの指示で、兵士三人がユファレート目掛け突進する。
ナルバン自身も、ユファレートの方へ向かう。
ユファレートの意図は、わかる。
ルーアは、立っているのがやっとの状態だった。
ティアは、武器を失っている。
シーパルとユファレートは、純粋な魔法使い。
前衛を熟せる者がいないのである。
そんな状況では、陣形にこだわっても余り意味がない。
接近される前に決着を付ける。
そのために、横に移動した。
カリフやナルバンにとっては、ルーアやシーパルと正対した状態で、側面からユファレートに魔法攻撃をされるというのは脅威以外の何物でもない。
だからこそ、真っ先にユファレートを潰しにかかる。
ユファレートが、杖を振る。
兵士二人が炎の中に消える。
ユファレートに、怯えた様子はない。
だが、無謀すぎる。
残った兵士に接近されようとしていた。
その背後には、ナルバンもいる。
シーパルは魔法を連発し、カリフに叩き込んでいた。
魔力障壁越しではあるが、そのまま押し切りそうな勢いである。
ユファレートの援護をするつもりは、まったくないようだ。
抗議する暇はない。
舌打ちして、ルーアはユファレートの元へ向かおうとした。
だが、足が縺れる。
そして、背後から悲鳴が聞こえた。
兵士が二人、ティアを狙っている。
「野郎……!」
踵を返し、剣を振るう。
兵士の腕が飛び、脇の下の辺りから血が吹き出す。
体を支える両の足が震える。
それでもルーアは、続けて剣を振った。
兵士の首が折れ曲がる。
兵士二人を倒し、だが剣を振った反動でルーアは横転した。
床が鳴動しているのを感じる。
周囲にレンガが積み重なっていく。
あっという間に、ティアと一緒に閉じ込められた。
安宿の個室のような、狭苦しい空間である。
壁を叩くが、びくともしない。
魔法を使用するだけの余力はなかった。
壁を蹴り破る力も残っていない。
「くそっ!」
毒づき、ルーアは尻餅を付いた。
立っていられなくなったのだ。
(シーパル……ユファレート……!)
戦う力が残っていない。
あとは、二人を信じるしかないか。
「……ルーア、大丈夫だよ、ユファたちなら」
ティアに、腕を掴まれる。
「……そうだな」
あの二人ならきっと、前衛無しでも勝ってくれる。
壁の向こうから、魔法が炸裂する振動が伝わってきた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
あと一息だったはずだ。
ルーアを、体力も魔力も尽きる寸前まで追い込んだ。
ルーアもティア・オースターも、あと少しで捕らえられた。
二人を、クロイツの前に引き摺り出すことができたはず。
だが、あの魔法使いたちが現れた。
カリフは、歯噛みしながら逃走していた。
一撃一撃に充分な威力を持ったシーパル・ヨゥロの魔法が襲ってくる。
強い。
カリフは、これまでの戦闘で疲労していた。
額を魔法で撃ち抜かれ、脳を損傷してもいる。
正面から魔法の撃ち合いに応じることはできない。
シーパル・ヨゥロとユファレート・パーター。
最後の最後にカリフたちの前に立ちはだかったのが、その二人だった。
閉じ込め、後回しにした。軽視した訳ではない。
充分に警戒した。
だからこそ、戦闘を避けた。
二人とも、積極的に攻撃を仕掛けるような性格ではないと分析していたから。
魔力を弱体化させた状態にすればそう身動きは取らないはず、と予測していた。
二人を閉じ込めた部屋の周りには、仕掛けも施した。
いつかは突破されるだろうと思っていたが、余りにも到着が早い。
二人を侮っていたのだろうか。
いや、充分に警戒していた。
だからこそ、後回しにした。
後回しにしたつけが、今来ている。
攻撃的ではないと思っていた。
だが、この魔法の威力はなんだ。
こちらを倒そうという意思が、明確に込められている。
ルーアの危機に、奮い立ったか。
ティア・オースターの無事を知り、意気が上がったか。
認めるしかない。
クロイツからの指令を達成するための、最後の艱難。
それが、このシーパル・ヨゥロだと。
ナルバンも、ユファレート・パーター相手に苦戦することになるだろう。
しかし、それでもナルバンなら勝てると信じられる。
ザッファー人のナルバンは、元々『カラフト・テヌ・ディアン』、つまり『職業的に対魔法使い戦闘用の訓練を受けた魔法使いではない者』だった。
魔法使いとどう戦えばいいか、よく知っている。
ユファレート・パーターという優れた魔法使いが相手でも、必ず勝機を見付け出すはずだ。
もっと早い段階で、この二人の魔法使いを倒しておくべきだったのかもしれない。
後悔にも似た思考を頭から追い払い、カリフは『木と金の箱庭』の力を使用した。
床が盛り上がり、シーパル・ヨゥロとの間で壁になる。
シーパル・ヨゥロが、障害物を破壊するために魔法を放つのが感じられる。
構わない。
その間に、カリフは距離を稼げる。
シーパル・ヨゥロが道を開き、カリフを追って来る。
それも好都合だった。
ユファレート・パーターと引き離せる。
ナルバンは、ユファレート・パーターとどう戦うか。
シーパル・ヨゥロの足止めのために、『木と金の箱庭』の力を駆使する。
積み重なり障害物となるレンガや木材を、シーパル・ヨゥロは容易く破壊する。
それでも、繰り返せば逃亡のための時間を作れるはずだ。
稀に、光線などが飛んでくる。
かわしながら、カリフはナルバンの援護のための一手を打った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
木の板やレンガ、鉄の扉などが、次々と道を塞ぐ。
一つ一つを丹念に壊し、シーパルはカリフを追った。
距離が開いたようだ。
見えない場所のことでも、感覚的にシーパルにはわかる。
背後から何かが迫ってくるのを感じた。
咄嗟に振り返る。
何かが短槍を叩き折っていった。
長い縄のような何か。
黒く光っているのは、夜だからではないだろう。
黒い縄は、板の隙間に消えていった。
(……今のは?)
これまでの攻撃方法とは異なる。
いや、これまでは攻撃ですらなかった。
建物自体が動き、床や扉に行く手を遮られたが、直接的に危害を加えてくるようなことはなかった。
今の黒い縄は違う。
明確な攻撃だった。
(……建物を動かす力とは、別の能力?)
大量の木材を操作して建物を構築し、空に浮かしさえする。
カリフは『悪魔憑き』である。
だが、それにしても大き過ぎる力だとは思っていた。
そして、違和感があった。
大きな力だが、攻撃的ではない。
これまでに出会った『悪魔憑き』の能力は、いずれも戦闘向きのものであったように思える。
木材の操作は、『悪魔憑き』としての力ではないのかもしれない。
そして黒い縄こそが、『悪魔憑き』として得た能力なのではないか。
建物を構築したり浮かしたりしているのは、魔法道具の力かもしれない。
考えているうちに、また黒い縄が向かってきた。
力場を発生して弾く。
夜は、まだ明けない。
暗い廊下の隅に、黒い縄は消えていった。
カリフは、かなり遠くまで逃走したようだ。
感覚で捉えられない。
逆に言えば、距離がありすぎるために、シーパルが魔法を使っても、魔力の波動で正確な位置を掴まれにくい。
二度、攻撃を阻んだ。
それにより、カリフはシーパルの位置を知っただろう。
一旦移動して、仕切り直した方がいいかもしれない。
大量の魔力を放出する強力な魔法を乱発でもしない限りは、居場所がばれることもない。
テラントやデリフィスのように完全に足音を殺すなどはできないが、できるだけ静かにシーパルは移動を開始した。
派手な靴音が響いても、遠くにいるカリフに聞かれるとは思えないが。
板や扉による妨害もなくなっている。
やはりカリフも、シーパルの居場所を見失っている。
この広い建物のどこかにいるカリフを、どうやって見付けるか。
ユファレートと合流し、ナルバンを叩いた方がいいかもしれない。
先にルーアの治療をし、彼に戦線復帰をしてもらう手もある。
取り敢えずカリフが去っていった方に足を進めながら、シーパルは考えた。
不意に、足下の感じが変わった。
固いものを踏んでいる感触。
足を払われ、シーパルは転んだ。
体の上で、黒い縄が舞っている。
反射的に、シーパルは床を転がった。
衝撃。黒い縄が、シーパルの右足を強く叩く。
悲鳴を上げそうになる。
声を漏らす代わりに、シーパルは力場を発生させた。
頭部目掛けてしなる黒い縄を、受け止める。
弾き飛ばされたのは、シーパルの体の方だった。
転がる。
また、黒い縄が向かってくる。
「……フォトン・ブレイザー!」
右手を突き出し、シーパルは光線を放った。
じゅっと音を立て、黒い縄が光に包まれる。
床や壁が燃え上がり、煌々と辺りを照らす。
光の中で、蛇のようにのたうつ黒い縄を、シーパルは見た。
熱と炎に包まれ、だが黒い縄は燃えていない。
ぴんと張ったかと思うと、真っ直ぐに迫ってきた。
床に伏せるように身を低くしたシーパルの頭上を通り、壁を突き破る。
ぞっとしながら、シーパルは身を起こした。
右足を痛めたが、まだ立てる。
縄が、またシーパルを襲う。
力場の魔法で受け止め、あるいは勢いを逸らす。
何度も何度も黒い縄は力場にぶつかってくる。
防御を破壊し、シーパルの体を打ち砕こうとしている。
力場の修復に、シーパルの魔力は削られていった。
(攻撃が、正確すぎる……!)
こちらのことが、視えているのだろうか。
カリフではない別人の攻撃ではないような気がした。
新戦力ならば、もっと他に注ぎ込むタイミングがあったはずだ。
カリフには、視えている。
シーパルには、カリフがどこにいるのかわからないというのに。
黒い縄が振り下ろされる。
胸より高い位置、力場の上部を強化させ、受ける。
衝撃に、シーパルの体は震えた。
乱暴に空気が叩かれる音がする。
右から。もう一本。黒い縄。
右足を払われた。
鈍い音が響いた。
今度は、折れた。
力場を修復し、周囲に張り巡らせる。
二本の黒い縄が、叩き付けられる。
追い詰められ、だがシーパルは開き直った。
カリフを見付け出すことを考えていた。
反撃を考えていた。
そのために、守りが甘くなったのかもしれない。
しばらく、防御に徹する。
そして、反撃の機会を待つ。
防御の魔法ならば、ユファレートにも負けない。
いつまででも耐えてみせる。
足下が崩れた。
業を煮やしたか、黒い縄が床を叩いたのだ。
落下していく。
下の階の床に叩き付けられる前に、シーパルは飛行の魔法を発動させた。
片方の足が折れた状態では、受け身を取れない。
黒い縄が、正確に追ってくる。
飛行の魔法を解除し、力場を展開した。
黒い縄。力場を壊す。
飛行の魔法を使用した直後であり、本来の強度を出せなかった。
体に当たってはいない。
だが、力場を破壊された衝撃に、シーパルは弾き飛ばされた。
床を転がり、壁に激突し、右足の痛みに悲鳴を上げる。
それでも、力場の魔法は再展開した。
(……?)
攻撃が、こない。
約二十メートル四方の部屋であり、シーパルは角で座り込んでいる状態だった。
上の階の床、つまりこの階の天井を破った二本の黒い縄は、部屋の中央でうろうろしている。
(……これは、一体……?)
力場の魔法を維持したまま、観察する。
黒い縄が、動きを止めた。
一拍置いて、空気を貫きつつシーパルへと突き進んでくる。
力場と衝突する。
力場を砕こうとしている。
力場の強度を上げ押し返しながら、必死でシーパルは考えた。
シーパルを狙う正確な攻撃。
絶え間無く続くかと思われた。
しかし確かに、攻撃が途切れる時間があった。
間隙があった。
それは、束の間と言えるほどの短い時間ではない。
なぜだ。
なんの意味がある。
黒い縄による攻撃は続く。
耐える。
今はまだ、希望は見えない。
しかし、思考を止めることだけはしなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
兵士を盾に、ナルバンが突っ込んでくる。
ユファレートは、二人の敵に杖を向けた。
「ガン・ウェイブ!」
放った衝撃波が、兵士を無惨な姿に変える。
吹っ飛ぶ兵士を、ナルバンは盾で払い除けた。
普通にナルバンを狙っても、防がれるかかわされるかするような気がした。
そのため足止めを狙ったのだが、物ともしない。
ナルバンが手にするのは、耐魔の力がある盾である。
盾を振ったことにより、ナルバンの大きな体が見えるようになった。
今、魔法が当たれば、倒せる。
ユファレートは、杖を突き出しかけた。
ナルバンが、大剣の先を上げる。
夜の屋内だが、これまでに放った魔法の影響で、いくらか明るくなっていた。
厳ついナルバンの顔も見える。
大きな眼をしている。
見開いていた。
ユファレートを、睨み付けている。
このままだと、おそらく五分五分に近い賭けになる。
ユファレートの魔法がナルバンを倒すか、ナルバンの大剣がユファレートの体を貫くか。
「フォトン……!」
ナルバンの踏み出し。
床が軋む。
「フレン・フィールド!」
ユファレートは、魔法を切り替えていた。
力場が、大剣を受け止める。
照準を定める必要がない分、攻撃魔法よりも防御魔法の方が発動が早い。
賭けをしたら、負けるような気がしたのだ。
ナルバンの気迫に、押されたのかもしれない。
衝撃が伝わってきた。
ナルバンは、力場に何度も大剣を叩き付けてくる。
強度を落としたら、突き破られる。
どう考えても、魔法よりも剣の間合いである。
そして、剣を振り続けることと魔法を維持すること、どちらが消耗が激しいかというと、後者になるだろう。
自分が有利な間合いで、より勝率が上がる持久戦をナルバンは選んでいる。
力場の魔法を解除し、なにか攻撃魔法を発動させる。
瞬く間にできる自信が、ユファレートにはある。
だが、その瞬間をナルバンは狙っているような気がした。
間合いさえ開けば、とユファレートは思った。
絶対に勝てる。
戦闘開始時のナルバンたちとの距離が、近すぎた。
いや、部下たちを利用し、ナルバンが上手く接近戦に持ち込んだ。
魔法使いを相手に、魔法を使えない者は、大抵はまず横か後ろに動く。
ナルバンは前に出て、魔法使い有利な間合いをあっさりと潰してくれたのだ。
単純な速さや鋭さなら、テラントやデリフィスの方が上かもしれない。
だがこの男はきっと、あの二人よりも魔法使いとの戦闘に慣れている。
ナルバンの大剣に押された。
圧力に踏ん張りが利かず、ずるずると後退させられる。
重い大剣を、ナルバンは片手で細かく繰り出してくる。
力場の修復をし続けたが、いずれは魔法を維持できなくなる。
身長差と、右手一本で大剣を振っているためか、斬撃は上と左からが多い。
(……強度は保ったまま、力場を縮小させる)
そして、攻撃魔法を力場の脇から通す。
ナルバンからの圧力に堪えながら、複数の魔法の制御をしなくてはならない。
難しいことではあるが、できるはず。
ユファレートは、覚悟を決めた。
このまま根比べをしても、どうせ押し切られる。
振り下ろされる大剣を、力場の形状を変え、上から左に受け流した。
次、斬撃は左からくるはずだ。
力場を縮小し、その横からユファレートは杖を突き出した。
ほぼ同時に、ナルバンの左手も動いていた。
ユファレートが仕掛けるのを待っていた、と言わんばかりに。
盾に遮られ、これまではほとんど見えなかった左腕。
袖口から、なにかが出ている。
鎖か。
ユファレートに向かってくる。
手首の反しと指先だけで、ナルバンは鎖を操っていた。
鎖の先に、分銅のような物が付いている。
杖を弾かれた。
顔に衝撃。
ユファレートは、後方に倒れ込んでいた。
視界が揺れている。
ナルバンの姿を見失っていた。
足音だけ聞こえる。
斬られる。
ユファレートは、瞬間移動の魔法を発動させた。
高度な魔法にしては、飛行の魔法などに比べ早く発動できる。
だが、早めれば早めるだけ、転移できる距離は短くなる。
座標にもずれが出る。
座標は、定めなかった。
顔面に受けた衝撃のせいで、どこを向いているのかも把握できていない状態だったのだ。
重力に引っ張られ、床に叩き付けられる。
どうやら、転移先は空中だったようだ。
壁や床の座標に転移したら、それだけで死ねる。
今この状態で、斬り付けられる訳にはいかない。
暴発に近い形で、ユファレートは魔力を放出した。
床が陥没する。
制御なく垂れ流した魔力はユファレート自身の体も叩き、全身に痛みが走った。
ナルバンは、後退しただろう。
少なくとも、たたらを踏むくらいはしたはずだ。
魔力を、魔法に変える。
力場を周囲に張り巡らせる。
直後に横手から殴られたような衝撃があった。
ナルバンが、力場に大剣を突き立てている。
今度は、力尽くで破ろうとしている。
させじと力場の強度を上げながら、ユファレートは顔をしかめた。
右頬が痛い。
(……甘かった)
テラントやデリフィスとも渡り合った剣士を、接近戦でどうにかしようなどと考えたのが誤りだった。
最低限、ティアくらいの接近戦の技能と反射神経がなければ、まともに魔法で攻撃できない。
ナルバンの剣筋が変わった。
突きが多くなっている。
こちらを、突き飛ばそうとしている。
力場の魔法で防ぎながらも、ユファレートの足は浮いた。
床を転がることもある。
力場の魔法の解除だけはしなかった。
押される。
どこへ向かわされているかは、見当が付いた。
廊下を転がる。
ナルバンの突きが、重たくなった。
廊下から部屋へと、大きく突き飛ばされる。
そこで、ナルバンの攻撃は止まった。
勝利を確信したのだろう。
だからこそ、最後の抵抗を警戒した。
力場の強度が落ちていく。
自分の魔力が急速に弱まっていくのを、ユファレートは感じた。
(……やっぱりね)
「……追い込まれたな」
廊下の途中から聞こえる、ナルバンの太い声。
上から響いているように聞こえる。
部屋の床、いや、壁や天井にも描かれているのは、何千何万という数の魔法陣。
これらすべてが、少しずつ魔力を弱体化させる魔法陣だった。
シーパルと共に閉じ込められていた、あの部屋だった。
この部屋にいる間は、ほとんど魔法を使えない。
(……痛い)
床に座り込んだまま、ユファレートは右頬に触れた。
べっとりとした感触がある。
ナルバンが投げ付けてきた鎖と分銅が、かすっていったのだ。
顔の傷は鏡でも見なければ確認できないが、相当酷いことになっているだろう。
皮が裂け、頬の肉が削り取られている。
一生、傷痕が残るかもしれない。
(……関係ない)
ユファレートは、掌に付着した血をローブに擦り付けた。
(わたしは、舞台女優でもなんでもない……魔法使いなんだから……!)
魔法使いに、魔法を使うことに、顔の傷は関係ない。
ユファレートは、立ち上がった。
「……逆よ。追い込まれたのはわたしじゃない。……あなたよ」
「……?」
想定内のことだった。
カリフたちは、ユファレートとシーパルをこの部屋に閉じ込め、戦おうとしなかった。
それは、警戒してのことだろう。
それでも戦わなければならなくなったら、どうするか。
ユファレートは、カリフや、魔法を使えないナルバンの立場から考えた。
もし選べるのならば、確実にこの部屋で戦う。
建物を組み立て、浮かすような力を持つのだ。
戦闘の場の選択権は、敵にある。
ここに追い込まれるのは、わかっていた。
「わたしの懸念は、一つだけ。でも、それも外れた……」
木材などを操り、巨大な建造物さえ築く。
空へ浮かせさえする。
魔法ではない。
『悪魔憑き』や超能力者としての力でもない。
余りにも大き過ぎる力だ。
おそらくは、魔法道具。
そしてこれは道具であって、戦闘のための武器ではない。
持っているのは、戦闘に特化したようなナルバンではないだろう。
これもおそらくになるが、持ち主は、カリフ。
ユファレートの懸念は、この部屋が解体され、また組み直されることだった。
そうなれば、施した仕掛けが無駄になるかもしれない。
だが変化は、宙に浮いていたこの部屋に繋がる廊下ができていることだけ。
当然だった。
部屋を解体して再構築など、気軽にできることとは思えない。
相応の集中が必要になるはずだ。
カリフと戦っているのは、シーパルである。
ユファレートとナルバンの戦闘に頻繁にちょっかいを出すだけの余裕が、カリフにあるはずない。
部屋に閉じ込められてすぐ、ユファレートは疑問に感じたことがあった。
魔法陣による相手の弱体化は、自身の強化に比べ、遥かに難しい。
実戦になれば、不可能にも近い。
魔法陣は、触れなければ効果がないからだ。
弱体化の魔法陣を踏んだまま戦い続けてくれる敵など、普通はいない。
だが、この部屋の魔法陣はどうだ。
床だけでなく壁や天井の魔法陣まで、ユファレートたちの魔力を弱めている。
思い出したのは、祖父ドラウ・パーターの話だ。
クロイツと対峙した時、どうやってその巨大な力を逸らしてきたか。
ドラウは、触れていない、つまり本来ならば起動できないはずの魔法陣を利用することにより、クロイツを騙し攻撃を捌いた。
触れていない魔法陣。
直接触れていないだけだ。
間接的には、触れていた。
足下の魔法陣を介し、それと接触している別の魔法陣を起動させる。
それを延々と繰り返すことにより、ドラウは離れた場所の魔法陣の恩恵を受けていた。
この部屋も、同じなのだろう。
壁や天井、ユファレートが触れていない魔法陣も起動している。
そして、ユファレートが踏んでいる床の魔法陣と連結している。
手元にある鎖の操作だけで、その先にある分銅を操るように。
魔法陣一つ一つが繋がり合い、力を伝え起動している。
もう一つ思い出したのは、ルーアとグリア・モートの戦闘。
グリア・モートは、四本の『悪魔』の足で四つの簡易魔方陣を生成し、同時に使用していた。
一つの魔方陣に、複数の効果を持たせることはできる。
だが効果を重ねれば重ねるだけ、一つ一つの効力は落ちていく。
解消するには、魔法陣を大きくするしかない。
広い足場と、描くための時間が必要となる。
だから、グリア・モートのやり方は革新的と言えた。
ただし、それだけ難しいことでもある。
一つの頭で、四つのことを同時にこなしていたのだ。
例えるならば、片手で四本の剣を同時に振るようなものだろう。
不可能に近い。
だが、不可能ではない。
それは、グリア・モートが証明してくれた。
修練次第では可能なのだと。
この部屋を考案したのはクロイツだろうと、ユファレートは思っていた。
祖父と戦い、その技術を盗んだのだ。
ユファレートも、祖父から学んだ。
そして、グリア・モートを見て吸収した。
二人から得たものを、ユファレートの中で一つの形に昇華させた。
それを、今こそ見せる。
ナルバンが前進する。
すぐにその足が止まった。愕然としている。
ユファレートの足下に拡がる、事前に描いていた床一杯の大きさの魔法陣。
それと繋がる、左右、そして背後の壁に描かれた魔方陣。
四つの魔方陣が同時に蒼く輝き、絶望的な表情であるナルバンを照らす。
一つは制御力強化、一つは発動速度強化、二つは威力強化。
弱体化された分を補って余りある力が、ユファレートに宿る。
絶望したまま、ナルバンが前進を再開した。
彼には、称賛を送りたい。
逆の立場ならば、ユファレートは諦めていただろう。
できることといえば、泣いて命乞いをすることくらいか。
突き飛ばしてくれたお陰で、ナルバンとは距離がある。
ナルバンの剣がどれだけ鋭くても、どんな飛び道具を用いようと、絶対にユファレートの方が早い。
そして、これから使う魔法。
ナルバンは、魔法に耐性がある装備で身を固めている。
だが、絶対に防具ごとナルバンは消し飛ぶ。
そして、どれだけ優れた身体能力があっても関係ない。
絶対に逃げられない。
それだけ大規模な魔法。
ナルバンは強い。
だからこそ、手加減などできない。
杖の先で、光が膨れ上がっていく。
圧倒的に。ナルバンの前進を嘲笑うかのように。
感謝しなければならない。
祖父はもちろん、グリア・モートに。
そして、この部屋に閉じ込めてくれた者たちに。
ユファレートを追い込むだけの強さを見せてくれた、ナルバンにも。
これでユファレートは、成長できる。
これまで自分が限界だと思っていたところを、大きく超えることができる。
「ティルト・ヴ・レイド!」
回避不可、防御不可、そして絶対の破壊力。
光芒は、一瞬でナルバンを包み込んだ。
余りの負担に、脳が搾られているのではないのではないかというような頭痛を感じる。
光の向こうから、聞こえるはずもない断末魔が聞こえたような気がした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
揺れた。
この不可思議な建物中に、強烈な魔力が満ちている。
シーパルには、その魔力が誰のものであるか、すぐにわかった。
(……ユファレート)
ユファレートの渾身の一撃が炸裂している。
最後の一撃といっていいだろう。
ユファレートと対しているのは、ナルバン。
今の魔法を浴びて耐えられる訳がない。
外したのならば、ユファレートの負けだった。
戦う力など残せない。
それだけ全てを込めた一撃。
ユファレートは、勝ったのか負けたのか。どちらにせよ、最後の一撃。
勝ったに決まっている。
そして、絶対に生きている。
二本の黒い縄に、力場を破壊される。
座った姿勢のシーパルの顔の横を通り、背後の壁を破壊した。
足下の床にも突き刺さる。
(……外した?)
瞬間移動の魔法を使用して、部屋の角から離れた。
黒い縄は、追ってこない。
動きを止めている。
(……なんだろう?)
訝しく思う。
先程も、なぜか攻撃が途切れることがあった。
まるで、シーパルを見失ったかのように。
黒い縄が、動いた。
シーパル目掛けてではなく、板の間に吸い込まれるように消えていく。
「……?」
不思議に思いながら、治癒の魔法を発動させる。
骨が折れた右足に、癒しの力が染み込んでいく。
攻撃はこない。
なぜ、とシーパルは考え続けた。
これまでの正確な攻撃は、なんだったのだろうか。
攻撃が正確ということは、シーパルの位置を正確に掴めていたということだろう。
魔力を探知することにより、居場所を割り出していたのだろうか。
ユファレートの強烈無比な魔法により、シーパルの魔力を探知できなくなった。
有り得そうなことだが、魔力探知によりこちらの正確な居場所を突き止められるほど、近くにカリフはいない。
近くにはいない、つまり遠くにいるということが、シーパルには感覚的にわかる。
それに、シーパルが魔法を使っていない時にも、黒い縄は攻撃を仕掛けてきた。
音や熱で敵を探知しているのかもしれない。
なんらかの理由で、その力が上手く働かなくなったのか。
攻撃がこないまま、十分は経過した。
さすがに、自分の体は治しやすい。
なんとか歩ける程度まで、右足は回復した。
足を引きずり、シーパルは移動を開始した。
カリフが有利だというのは変わらない。
攻撃がこない今のうちに、この広大な建物のどこかにいるであろうカリフを見付けなければ。
(……時間……空間……封印……解放……)
以前教えられたヨゥロ族の真髄を呟きながら、感覚を拡げている。
カリフを見付け、ある程度まで近付く必要がある。
魔法の利点の一つは遠くの相手を攻撃できることだが、距離があればあるだけ同じ魔法使いには通用しにくくなる。
進む。カリフは見付からない。
壁が割れた。
二本の黒い縄が、再びシーパルを襲う。
力場の魔法で弾き、シーパルは右足の痛みに顔を歪めながら走った。
魔法だけに頼っていては、いずれは防ぎきれなくなる。
なんとなく人体の構造を思い浮かべながら、シーパルは力場の形状を変えていった。
小さな光弾などで攻撃する場合、シーパルは敵の頭部よりも体の中心を狙う。
頭蓋骨は丸みを帯びており、そのため衝撃が逸れやすく、致命傷を与えられないことがあるからだ。
力場を、自分の臍が中心となる球体の形にする。
黒い縄が叩いていくが、衝撃が背後に流れているのを感じる。
これなら、長時間耐えられる。
近くに仲間がいないからできる防御法だった。
黒い縄が、壁にめり込む。
レンガの中から脱け出そうと、蛇のようにもがく縄を尻目に、シーパルは瞬間移動の魔法を発動させた。
攻撃を受け続けているうちに、足場が脆くなっていたのだ。
転移後、できるだけ間を置かず力場を展開する。
「……?」
まただ。
黒い縄が翻り、力場と衝突する。
衝撃よりも、シーパルは別のことが気になっていた。
また、妙な間があった。
攻撃が逸れた隙を狙い、瞬間移動で場を離れる。
何度か繰り返した。
すぐに追撃がくる。
だが、稀に攻撃に間隔がある。
シーパルのことを、見失ったかのように。
なぜか。
(……時間……空間……)
歯を喰い縛り猛攻に堪え、シーパルは脳を働かせた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
いくつもの『窓』の前に、カリフはいた。
一枚の『窓』には、ナルバンとユファレート・パーターが映っている。
ナルバンは、上手く追い込んだようだ。
これで、シーパル・ヨゥロに集中できる。
カリフは、ナルバンの戦いを視界の中央と意識から外した。
光を感じたのは、その直後だった。
ナルバンとユファレート・パーターが映っていた『窓』からである。
宙に浮いているはずの建物が、地震に見舞われているかのように揺れる。
そして、『窓』に映るもの全てが消えた。
「くっ……」
カリフは、歯噛みした。
復旧には、しばらく掛かるだろう。
あと一歩というところまで、シーパル・ヨゥロを追い込んだというのに。
気を取り直し、カリフは『手』を引っ込めた。
『悪魔』の力を使うと、急速に疲労する。
『木と金の箱庭』の核を埋め込まれるまでは、なかったことだ。
副作用なのかもしれない。
それとも、『悪魔憑き』と魔法道具との同一化という二つの人体実験は、カリフという人間の耐えられる許容を遥かに超える負担なのだろうか。
息を整えながら、『窓』の復旧を待った。
十分は経過しただろう。
戻った。だが映っているのは、ユファレート・パーターだけである。
ナルバンがいない。
まさか、ユファレート・パーターの魔法に消し飛んだのか。
そんなことが。
必死で、嫌な思考を頭から払った。
ナルバンの生死は定かではないが、少なくともユファレート・パーターは疲れきっている。
まともに戦う力は残っていないだろう。
ならば、あとはシーパル・ヨゥロ。
『木と金の箱庭』を制御し、捜した。
見付けた。
一枚の『窓』に、ヨゥロ族の青年が映っている。
カリフは、そこへ自分の『悪魔』を向かわせた。
シーパル・ヨゥロが、力場の魔法で『悪魔』を受け止める。
瞬間移動の魔法で逃げることもある。
何度か見失った。
たいした問題ではない。
すぐに『窓』の力で見付けることができる。
魔力の消費は、かなりのものだろう。
このまま、遠距離から攻撃を続ければいい。
力場が砕けた。
倒れ込むシーパル・ヨゥロ。
魔力が尽きたか、魔法を使用することなく身を丸める。
頭部だけは守ろうという姿勢だが、関係ない。
カリフは容赦なく、『悪魔』を叩き付けていった。
『窓』から、鈍い音が響く。
何度も殴る。
シーパル・ヨゥロの両腕が折れたようだ。
無防備になった後頭部に『悪魔』を打ち込む。
うつ伏せの体勢であり、顔は見えない。
体を痙攣させている。
まだ生きているか。
とどめは確実に刺さなければ。
息を弾ませながら『悪魔』を操作し、何度もシーパル・ヨゥロの体を殴り付ける。
数分後、カリフは『悪魔』を止めた。
シーパル・ヨゥロは動かない。
死んだか。
これで、クロイツから受けた指令を達成できる。
背後の扉が開く音に、カリフは身を強張らせた。
そして、声。
「やっと見付けましたよ……」
『窓』に映っていたはずのシーパル・ヨゥロは、消えていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「……不思議だったんですよね。あなたは、ずっと遠くにいる。それにしては、攻撃が正確過ぎる。まるで、僕のことが見えているみたいに」
部屋の最奥に、カリフがいる。
シーパルに、背中を向けて。
「そして、たまに攻撃が途切れる。まるで、僕のことを見失ったみたいに」
シーパルは、一歩室内に足を踏み入れた。
カリフは、敵。
そして、敵を倒すための理想の距離というものがある。
シーパルの武器は、魔法。
距離があればあるだけ、威力を高めやすくなる。
だが同時に、距離があればあるだけ、同じ魔法使いには防がれやすい。
「あなたの攻撃から、逃げて、逃げて……そして、ふと思ったんです」
瞬間移動の魔法を、何度も使った。
攻撃が続く時と、攻撃が途切れる時があった。
どんな場合に攻撃が途切れるか。
逃げ回りながら、シーパルは考えた。
そして、それに気付いた。
ある条件下で、カリフの攻撃は途切れる。
それは、場所。
部屋の隅や壁際といった所。
死角になりやすい所。
「……思ったんです。あなたは、本当に見えているんじゃないか。本当に見失ってるんじゃないか、と」
カリフが顔を向けている壁には、枠のある四角の物が、いくつもあった。
枠の中に、様々なものが映っている。
部屋や廊下の、床や壁。
ユファレートを映し出している枠もある。
この巨大な建造物のあちこちを、カリフはここから見ていた。
シーパルのことも。
これも、魔法道具なのだろう。
建造物の中に組み込まれた、魔法道具。
枠の中の絵が、変わる。
カリフの背後、シーパルの姿を映す。
いくつもの魔法道具に映された、様々な角度から見る自分の姿に、シーパルは微かな戸惑いを覚えた。
自分のことをこんな風に見る機会など、今までなかった。
「見えていると仮定して……それで、どう戦うか決まりました」
「……幻影の魔法で、私の眼を欺いた」
背後を取られ黙していたカリフが、口を開いた。
「……そうです」
「質感を伴う幻影。私の手には、確かに人を殴る感触があった。人体の作りというものを、よくわかっているようだな、シーパル・ヨゥロ」
カリフの手首から先は、黒かった。
剣を、何度か手で受け止めている。
グローブになにか仕込んでいるのだと思っていたが、そういうことか。
カリフは『悪魔憑き』。
悪魔と同化したのは、両手ということだ。
シーパルを襲ったのは、指なのだろう。
伸びた指。
それが捻れ一つになり、黒い縄のようになっていた。
「私は、途中から幻影を攻撃していたのか。そして、本体のお前は、私の死角から死角へと移動し、私を探した。……いや、少しおかしいな」
「……」
「まったく映らないというのはおかしい。この『窓』に映る場所や映す角度を、私は自在に変えられる。ずっと映ることがないというのは、不自然だ」
「……魔法で、周囲の光を屈折させました」
それにより、自分の姿を他者から見えなくすることができる。
便利な魔法に思われるが、実は余り使いやすくない。
魔法の維持のために、集中し続ける必要がある。
走り回りながらでは使えない。
音や気配などを消せる訳ではないので、鋭い者が相手では、近付く前に気付かれる。
魔法を使い続けるということは、魔力を放出し続けているということである。
他の魔法使いには、自分の居場所を公言しているも同然となる。
だが、カリフは気付けなかった。
「……そうか。ユファレート・パーターの魔法か」
悟った様子のカリフに、シーパルは感心した。
背後を取られたカリフは、死に体である。
追い込まれた状態でありながら、カリフは正常に脳を働かせている。
ユファレートが放った強力な魔法により、建物内には彼女の魔力が充満していた。
シーパルが魔法を使い魔力を放出しても、それに紛れてしまう。
だから、カリフは察知できなかった。
「……ここを、どうやって見付けた?」
「僕には、わかるんですよ。壁の向こうになにがあるか、誰がどこにいるか、なんとなく。細かい説明はするつもりないですけど。どうせ理解してもらえないでしょうし」
それは、ヨゥロ族の特別な訓練を受けた者だけにある能力。
同じ訓練を受けた従兄弟のパウロが殺された今は、シーパルにだけある力。
説明しようとは思わなかった。
きちんと解説するつもりはない。
魔法を使えない者に、魔力を視る感覚を完璧に理解させることは不可能である。
魔法使いたちが共通して持っている認識である。
ヨゥロ族のこれも、同じだろう。
人が他の生物を、自分以外の他人を、男が女を、女が男を、完全に理解することはできないように。
シーパルのこの感覚を、シーパル以外の者が理解することはできない。
「……幻影の魔法を維持できる位置にあなたがいて、良かった」
「二つの異なる魔法を、完璧に制御したか。見事だ、シーパル・ヨゥロ。見事な魔法使いだ」
ただ意味もなく、会話を重ねているのではなかった。
口を動かしながらも、シーパルは慎重に前進していた。
シーパルにとっての理想の距離、理想の間合いへと。
カリフは、動かない。
背後を取った。
背中に剣を突き付けているようなものである。
いつでもその後ろ姿に魔法を撃ち込める。
背後に魔法を撃つことはできる。
魔法道具の力で、カリフは背後にいるシーパルのことが見えている。
それでも、肉眼で正面からカリフを見ているシーパルよりも、正確な攻撃ができるはずがない。
絶対的に有利な状況。
シーパルが油断しない限り、逆転されることはない。
そして、油断などする訳ない。
カリフはこちらを向かないまま攻撃してくるか。
それとも、振り返るか。
どちらにせよ、シーパルの方が早く正確な攻撃ができる。
より勝利を確実なものにするために、踏み込んでいく。
(……魔法でくる)
カリフの攻撃の選択肢は、大まかに分けて二つ。
魔法か、『悪魔』の『手』か。
間合い、状況、『悪魔』の『手』の攻撃速度、カリフの魔法使いとしての実力。
総合的に考えて、カリフは魔法を使うはずだ。
理想の距離まで、あと二歩。
ふと思った。
シーパルにとっての理想の距離は、カリフにとっても理想の距離なのではないか。
魔法使いカリフにとっての、理想の間合い。
それでも、止まらない。
シーパルは、魔法使いなのだから。
魔法で攻撃するしかないのだから。
理想の場所、十三歩の間合いへと。
踏み込む。
カリフが身を捩り、振り返ろうとした。
掌の先に炎を生み出しながら。
だが、どうしても遅れは出る。
「ル・ク・ウィスプ!」
発動速度重視で放った無数の光弾が、カリフの頬を、四肢を、胴体を次々撃ち抜いていく。
「ライトニング・ボール!」
手を休めるつもりはない。
『悪魔憑き』のしぶとさを、シーパルはよく知っている。
光球が、カリフの体の中央に穴を空ける。
カリフは、まだ死なない。
その魔力が、膨張していく。
シーパルもまた、自身の内より魔力を引き出していった。
必殺の一撃を、カリフに浴びせるために。
「ディグボルト・ストルファー!」
電撃が嵐のように荒れ狂い、カリフの体を連続して打っていく。
「……そんな」
シーパルは戦慄した。
全身を破壊されながら、カリフはまだ死なない。
術者が死にかけでありながら、炎は暴発することなく膨れ上がっていく。
死なないのではないか、と思った。
シーパルがいくら攻撃を叩き込んでも、カリフは倒せない。
背後を取った。
絶対的に有利だったはずだ。
カリフに勝ち目はない。
だが、相討ちになら持ち込めるのかもしれない。
カリフは、自分の命と引き替えに、シーパルを殺そうとしている。
一撃に、全てを込めて。
(……どうする?)
更に攻撃を重ねるか。
カリフに、通用するのか。
いっそ、背中を向けて逃げてしまおうか。
いや。
以前、言われたことがある。
六人の要だと。
シーパルが死ねば、他の五人も死ぬことになる。
だから、死ぬことは許されない。
六人を癒すのも守るのも、シーパルが中心になってやらなくてはならない。
その六人の中には、当然シーパルも含まれている。
カリフの執念。
シーパルの攻撃では、すぐには断ち切れないのかもしれない。
ならば、全てを込めた一撃を、まずは受け止める。
自分自身のことも守ってみせる。
膨張していく大火球。
壁や天井が溶けていく。
空気を奪い取っていく。
室内に気流が生まれ、脆くなった壁を剥がしていく。
怯まずシーパルは、手を組み合わせていった。
それは、魔法陣を描く作業に似ている。
いくつもの組んだ印が、魔力の流れを導いていく。
カリフが、シーパルを見ている。
死ぬ寸前でありながら、しっかりとシーパルを睨み付けている。
「ヴァル……」
全力の、そして最後の一撃がくる。
「……エクスプロード!」
十三歩の距離。
それは、敵を倒すための理想の間合い。
敵の攻撃を見切り防ぐことも可能な間合い。
シーパルは、魔法を発動させた。
「ザイン・アーラー!」
空間を歪曲させる盾が幾重にも重なり、シーパルの前に壁を作る。
擬似的に空間を分ける魔法。
シーパル個人で扱える防御魔法としては、最高のものとなる。
ザイアムの『ダインスレイフ』の一撃も、クロイツの破壊の魔法も受け止めたことがある魔法。
シーパルにとっての、全力の防御。
大火球が、魔法の壁と衝突して破裂する。
破壊の炎が、隔てられた向こうの空間を焼き崩していく。
防御魔法越しに、熱が伝わってくる。
とてつもない火力である。
肌が傷むのを、シーパルは感じた。
それでも、堪えてみせる。
頭上が崩れた。
この部屋の天井は、すでに消し飛んでいる。
更に上の階の天井や床が崩落したのだ。
シーパルとカリフの間に落ちてくる。
埃と炎が治まるのを待って、シーパルは瓦礫を越えていった。
カリフが倒れている。
まだ息はあるが、虫の息というやつだろう。
致命傷は負っていた。
執念で命を繋いでいただけだ。
「……道連れにすることも……できんか」
顔を上げることもできず、言ってくる。
「……他の人があなたを倒してくれるのなら、僕は、最悪負けてもいいんです。だけど、死ぬことだけはできない。やらなければならないことがあるので」
「そうか……」
「ユファレートは、きっと勝ちました。だから……」
「そうか……道連れなら、他にいるか……」
呟き。カリフの最後だった。
シーパルは、膝を付いた。
疲労のためでもあるが、足下が揺れているからだ。
床だけでなく、建物全体が揺れている。
(……崩れる)
カリフの死が引き金であるようだ。
この建物を形成していたのは、おそらく魔法道具だろう。
使用者の死が影響しているのか。
それとも、シーパルが連続して放った魔法により、故障したのか。
どちらにせよ、急いで脱出しなければ。
飛行の魔法を発動させようとした瞬間、シーパルは視界が暗くなるのを感じた。
意識を失おうとしている。
(まずい……)
やらなければならないことがある。
だから、死ぬ訳には。
「……シーパル!」
声が聞こえた。
失った意識の中に、確かに響き渡った。
意識を取り戻すと、ユファレートに抱えられた状態だった。
「大丈夫、シーパル!?」
ユファレートは、自分よりも体の大きいシーパルの重みに、表情を歪ませている。
頬に、深い傷ができている。
「……大丈夫……です。なんとか……」
ユファレートも疲労している。
飛行の魔法の制御に、かなり苦労しているようだ。
不安定な降下を続けている。
ゆっくりと、砂の地面が近付いてきていた。
遠くから、罵声のようなものが聞こえる。
ルーアに抱えられた、ティアのものである。
ティアが怖がるだけあって、ルーアの魔法による降下もかなり不安定だった。
みんな疲労している。
負傷した者もいる。
「……まだ、やるべきことが……みんなを……治さないと……」
「……そうね。わたしも手伝うから、当然」
「……ええ、お願いします」
テラントとデリフィスが、シーパルたちを見上げている。
フニックもいた。
一緒にいる女性が、カレンだろうか。
身を包んでいる布が血で染まっているのが気になった。
(……でも、生きてさえいてくれれば)
治療してみせる。
「あなたの、傷も……」
ユファレートの横顔に、シーパルは眼をやった。
「綺麗に……元通りに……」
「うん。お願いするわ」
夜は、まだ明けない。
一日で最も砂漠が冷え込む時間帯。
寒さに震える体力も、シーパルには残っていなかった。
ユファレートの体温だけが、シーパルの命を繋げていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
魔法使いが三人とも疲弊しきっている。
治療がなかなか進まない。
自分の負傷など、フニックはどうでもよかった。
先刻、マリアに処置してもらったためか、ほとんど痛まない。
ただ、カレンが気を失った。
しばらく意識を取り戻していない。
何度も何度も、フニックはカレンの名前を呼んだ。
シーパルは大丈夫だと言ってくれたが、心配で堪らなかった。
カレンの呼吸は弱々しい。
このまま目覚めないのではないか。
そう考えると、恐怖で震えた。
やっと取り返したのだ。
フニックの呼び掛けに、カレンは反応しない。
それでも、声を掛けることをやめようとは思わなかった。
意識を失っている者、眠っている者にも、声は届いていると聞いたことがある。
嘘か本当かは知らない。
フニックには、声を掛けることしかできなかった。
二人の時間を、また始められる。
もう気楽な行商人ではいられないかもしれないが。
なにせ、ラグマ王国執務官のジェイク・ギャメと繋がりができてしまった。
あの全身真っ白なエスという男の口振りだと、これからとてつもなく忙しくなるようだ。
それでも、一人じゃない。
何年掛かるとしても、必ず君の右腕は元通りにしてやる。
魔法は使えないけど、金なら集められるから。
いつか、必ず。
その時こそ、真にカレンを取り戻したと言えるのかもしれない。
意識のないカレンに語り続ける。
声は届いていると、ただ信じて。
◇◆◇◆◇◆◇◆
なにかが聞こえる。
声。
誰かが誰かを呼んでいる。
何度も何度も。
自分が何者であるか、彼女はぼんやりと思い出そうとした。
声は、響き続けている。
すごく懐かしく感じられた。
(……わたしは)
無理矢理、力を得た。
それは余りにも過ぎた力で、所持するだけでも彼女の存在を磨り減らしていった。
用いた瞬間、自分の存在の消滅は免れないだろうという彼女の予想は、確信に変わった。
受け入れたことだ。
だから、力に呑まれ消えてしまうことも、仕方がない。
もう、自分が誰であるかさえも思い出せない。
声は、まだ聞こえる。
しつこい、と彼女は思った。
彼女の方は、諦めたというのに。
最初は、剣を向けられた。
それから少しして、今度は想いを告げられた。
断ったはずなのに、何度も会いに来てくれた。
それで、彼女の方が折れてしまったのだ。
利用して、捨てた。
それなのに、彼は諦めてくれない。
(……マリアベル)
ようやく彼女は、それを思い出した。
自分の名前、マリアベル。
いや、違う。
呼んでいる。大きな声。
喉が駄目になるのではないか。
そんな心配をしてしまいそうになるくらい。
『マリィ!』
叫び。震える。
『死ぬな!』
叫びが、強く、激しく。
彼女の世界に響き渡る。
マリィ・エセンツの中に。
それで、彼女は眼を覚ました。
空の中に、彼女はいた。
彼女が創造した世界の、空に。
呆然と、彼女は自分の世界を見渡した。
側に、白い男が立っている。
空に立っている。
『……気分はどうかね?』
質問には答えず、彼女は両の掌で顔を覆った。
「……あの人の声が、聞こえたの」
『ああ。彼自身は無理だったが、声を連れてくることだけはできた』
「それで、あの人の声に反応して、わたしは目覚めた……?」
『そのようだ』
「なによ、それ……わたし、消滅するはずだったのに……。そんなの、まるで……」
『愛の力、といったところかな』
思わず彼女は吹き出していた。
「……あなたがそんなこと言うの……?」
『おかしいかね? 例えば植物状態の者が、例えば心肺停止した者が、家族や友人、恋人といった親しい者の言葉に反応することがある。蘇生することがある。そういった事例を、私はこれまでに何度も見てきた。奇跡というには、余りにもありふれた事象だよ』
しばらく顔を上げることができなかった。
七百年以上この世界を縛り続けている狂った力の中から、あの人は声だけで、彼女のことを救ってくれた。
『さて、目覚めた『魔女』マリアベルよ。君はこれからどうするかね?』
「決まってるわ……」
ザイアムとクロイツを、少しでも彼らから遠ざける。
そして、ストラーム・レイルとライア・ネクタスに近付ける。
ここは彼女の世界。
優先権も選択権も、彼女にある。
世界の有り様を変容させ、二人を押していく。
ザッファー王国へと。
『……制御か、制御しているに近い状態にあるな』
「……」
それは、彼女も感じていた。
意識を失う前よりも、力に振り回されていない。
『何により暴走を回避しているか、わかるかね?』
「……魔法使いとしての感覚」
魔力を知覚できる者として、魔法使いとして、彼女は力に触れていた。
『そう……そういうことだ。参考になる。やはり、ドラウ・パーターは間違えていなかった。ルーアを彼に会わすことができて、良かった』
「わたしの魔力の質が、彼に近いものだったら……」
『確かに惜しい。だが、仕方がないことだ』
「……礼を言っておくわ、エス」
『気にする必要はない。君はもうこの力を使えなくなるが、それでも君は素晴らしい魔法使いだ。ストラーム・レイルのように、レジィナ・ネクタスのように、シーパル・ヨゥロのように、ユファレート・パーターのように。失うには、それこそ惜しい』
ドラウ・パーターに死なれた。
駒不足を、エスは痛感しているのかもしれない。
彼の穴埋めを期待されるのは困るが。
なにしろ、夫に姿を見せることもできない女だ。
『さて、ザッファー王国だ。平原と騎馬、戦乱と混沌の国』
エスの声が、静かに響く。
世界に溶け込んでくるように、彼女には感じられた。