金の力
『コミュニティ』の基地らしき建物が、崩れていく。
何事かと思いながら、デリフィスは空を仰いだ。
基地の天井や柱、壁や床がばらばらになり、宙を移動している。
ある一定の方角を目指しているようだ。
まるで、砂漠の空に道ができているかのようにも見える。
(ティアは?)
基地のすべてが分解した訳ではなく、まだ建物の体は成している。
あの中に残っているのか、それとも基地の一部と共に空を飛んでいるのか。
「デリフィスさん!」
声と駆け寄ってくる者たちに、デリフィスは振り返った。
雇い主であるフニックと、フードを目深に被った女である。
顔がはっきり見えないので断言できないが、おそらくは見知らぬ女。
他にも協力者がいるというようなことをフニックは言っていた。
名前を教えようとはしなかったが、この女のことなのだろう。
フニックはデリフィスたちの後方にいたはずだが、こちらが敵にてこずる間に進んだのか。
もしかしたら、女は魔法使いであり、魔法の力で移動したのかもしれない。
空をのろのろと動く建物の一部だった無数の物体を、フニックは驚愕の眼差しで眺めていた。
「これは一体……? カレンは……彼女は、まだ中にいるのでしょうか?」
「わかりません」
「カレンさんは」
女が、デリフィスとフニックの会話を割るように、するりと発言する。
穏やかな風のような、涼し気な声である。
「まだ、中にいるみたい。ティアさんは……」
女は、デリフィスの方を見ようとしない。
避けられているような感じがいた。
見知らぬ他人から避けられることは、ある。
剣が怖いのだろうと、デリフィスは解釈していた。
傭兵と積極的に関わりたがる一般人など、そうはいるものではない。
「ティアは?」
「もう、救助されたようね」
「……」
デリフィスの視線に、女が肩を竦める。
「エスがそう言っているわ」
エスのおかしな力を知っている。
そして、その恩恵を受けているということだ。
エスの知人がフニックの護衛をしているとは、前々から聞いていた。
「そうか。ティアは助かったか……」
「ええ。あとはカレンさん。彼女は、現在クロイツからほとんど関心を持たれていない。いつ床と一緒に空を浮遊することになるか、わからないわ」
フニックが、顔色を変える。
「急ぎましょう」
意外なことに、基地に敵の姿はなかった。
少なくとも、見える範囲には誰も。
だが、どこかに誰かがいる。
垂れ流しの存在感とでも表現すればいいのか、当人たちは意識していないかもしれないが、強い圧力を感じる。
建物内部を進むと、消えかけの蝋燭の火のような力無さで、エスがふっと現れる。
口を動かしながら、廊下の先の階段を指している。
デリフィスにエスの声は聞こえなかったが、女は何度か頷き返事をしている。
エスの声が聞こえているのか。
会話が成り立っているようだ。
エスの姿が消え、女が先頭で駆け出す。
敵地である。
先頭に立つのが自分の役割だとデリフィスは思ったが、我慢した。
道を知らない。それに、今のところ敵の姿は見えない。
圧力は、依然としてある。
油断したら、喰われるような気がする。
女の先導に従い、廊下を進み階段を上がる。
しばらく走った後、ある部屋の前で女は立ち止まった。
扉はない。
元々なかった訳でも、壊れてしまった訳でもなく、綺麗に外された後のようだ。
今頃、上空に浮いているのかもしれない。
役割を失った蝶番が、虚しくぶら下がっていた。
部屋の中に、床に伏せた女。
「カレン!?」
フニックが部屋に駆け込もうとするが、デリフィスは腕で止めた。
フニックの女、カレン。
もしかしたら、もう人間とは呼べないのかもしれない。
『悪魔憑き』の実験体にされた女。
右腕が、倍以上に膨れ上がっていた。
指先から二の腕の途中まで、刀剣のような鋭い刃が、不規則にいくつも生えている。
それがのたうち、床に傷を付けている。
涙を流しているカレンの体を、振り回している。
無数の『悪魔』の刃に恐れることなくカレンの側に立っているのは、エス。
静かな眼差しで、カレンを眺めている。
エスのその眼を、これまでに何度か見たことがある。
実験動物を観察する眼。
「彼女に、事情は説明してある。彼女は、理解し、納得してくれたよ。それからだ、彼女の右腕に埋め込まれた『悪魔』が暴れだしたのは。私たちの会話を理解し、自身の危機を察知し、彼女の肉体を奪おうとしているな」
女、デリフィス、フニックへと、順番に視線を送る。
「あとは、君たちの仕事だ」
エスが姿を消す。
カレンの右腕が跳ねる。
その刃を、デリフィスは剣で受け止めた。
カレンの右腕を、デリフィスは上手く防いでくれたと、フニックは思った。
カレンの肌を傷付けぬよう、『悪魔』の刃だけを剣身で受けている。
マリアの胸の前、手と手の間に光が生まれ、それがいくつもの輝く縄になる。
「ルーン・バインド!」
室内に、マリアの高らかな声が響いた。
光の縄が次々とカレンの右腕に絡み付き、その動きを封じる。
「……これで、しばらくは動けないはずよ」
デリフィスが剣を下げ、だがまったく油断する様子は見せず、マリアに視線を送る。
なにかを問い掛けているかのようである。
「……ええ、そうよ。本来この魔法には、そこまでの拘束力はない。でも今のわたしになら、それこそ彼女を永続的に押さえ込むことも可能なの」
マリアの解説を、フニックは半分以上聞いていなかった。
カレンを抱きしめる。
エスは、説明はすでにしたと告げた。
それでも、フニックの口から言わなければならないことがある。
「すまない。すまない、カレン。こんな方法でしか、俺には君を救えない……」
「救う……?」
デリフィスが、ぽつりと呟く。
「救いがあるのか?」
「あるわ」
断言する、マリアの声。
「通常の『悪魔憑き』と違って、彼女は『悪魔』と、魔力で繋がっていない。クロイツに、無理矢理『悪魔』の一部を埋め込まれただけなの」
「……それで?」
「……新たなる『悪魔憑き』の完成とか言う者もいるみたいだけど……とんでもない。実験は、失敗よ。魔力は、肉体と『悪魔』を結合させるものであり、同時に、『悪魔』の力を制御するものでもあるの」
「魔力のないカレンさんでは……」
「そう、制御できていない。放っておけば、『悪魔』の侵食はどんどん進む。脳や心臓に達すれば、死ぬことになる」
「……救いがあると、言っていたな?」
「……あるわ。すごく単純な方法。ほんと、笑っちゃうくらいにね」
カレンの右腕は、魔力の縄により束縛され、まったく動かない。
フニックは、振り返りデリフィスの顔を見つめた。
偶然とはいえ、この場に彼がいて良かったと思う。
フニックは傭兵ではなく商人だが、各地で多くの者を見てきた。
このデリフィスは、生粋の傭兵だろう。
金さえきちんと払えば、きっちりと仕事をする、そういう類いの男だ。
「……デリフィスさん。あなたのその剣で、カレンの右腕を斬り落としてください」
「……」
デリフィスは無言でフニックの顔を見つめ、次いでなにかを求めるように、マリアに視線を向けた。
「……カレンさんには、魔力がない。だから、『悪魔』との結び付きがとても弱いの。『悪魔』に侵食された部位だけ取り除けば、彼女は人間に戻れる」
「……あんたの魔法で消し飛ばすのは、駄目なのか?」
「……おそらく魔法よりも、鋭利な刃物を用いた方が、傷口を塞ぎやすいわ」
「……」
デリフィスが、本当に深く深く溜息をつく。
こんな役割か、と呟くのが聞こえた。
「……フニックさん」
「……なんでしょうか?」
「終わったら、追加報酬を要求します。法外な額を要求するつもりはありませんが」
「……払います」
「剣をこちらに」
言われるがまま、デリフィスは剣をマリアに向けた。
剣身に、光が宿る。
消毒の意味があるのかもしれない。
続いて、マリアはカレンの側に、円形の魔法陣を描いていった。
「可能な限り、痛みを和らげる。だけど、それでも辛いわ。耐えてね」
涙を流しながら、カレンが頷く。
「他の魔法を使いながらでは、治癒の魔法の効果が落ちるのではないか?」
デリフィスの質問に、マリアが暗い表情をする。
どんな初歩的な魔法でも、他の魔法との同時使用では、本来の効果を発揮させるのは難しくなる。
フニックにそれを説明したのは、ユファレートという黒髪の女魔法使いだった。
魔法については博士級の知識を持っているのではないか、と思わせるような女性である。
おそらく、デリフィスの指摘は正しいのだろう。
「……マリア、この魔法の縄を、消してくれ」
「……でも」
「カレンの右腕は、俺が押さえるから」
「……」
フニックは、魔力の縄ごとカレンの右腕を抱きしめた。
「……大丈夫。絶対に、離さない」
「……わかったわ」
マリアは、息を吐きながら頷いたようだ。
「デリフィスさん」
「ああ」
デリフィスが、剣を振り上げる。
カレンの右腕。二の腕の半ばまで、刃が生えている。
「……始めるわよ」
「ああ。いつでも大丈夫だ」
床の魔法陣が輝く。
魔力の縄が消失する。
フニックの体を、激痛が襲った。
刃が、『悪魔』が、自由を得るために暴れ、フニックの肌を破り、肉に喰い込んでくる。
フニックは、歯を喰いしばった。
この程度の痛みで。
カレンの右腕を、離さなかった。
デリフィスの手元を、狂わせる訳にはいかない。
以前、驚き、痛みに耐え兼ね離してしまったことがある。
そして、イグニシャという男にカレンは連れていかれた。
もう、あんな想いはしたくない。
今度こそ、絶対に離さない。
デリフィスが、剣を真っ直ぐに振り下ろす。
カレンの口から、殺しきれなかった悲鳴が漏れる。
即座にマリアが治癒の魔法を発動させる。
デリフィスに蹴り飛ばされた。
フニックの腕の中から、カレンの右腕だったものが転がり出す。
デリフィスが、剣でそれを押さえ込む。
フニックは、カレンを抱きしめた。
カレンは、泣いている。
カレンの顔を、自分の胸に押し付ける。
「カレン……カレン……すまない、痛い思いをさせて。こんな方法しかなくて」
感情が高ぶっているのを、フニックは自覚した。
自分の中で、伝えるべき言葉が支離滅裂になっていくのを感じる。
それでもフニックは、口を動かし言葉を吐き続けた。
「……すごい魔法使いと、知り合いになったんだ。彼女は、教えてくれたよ。失った手足を取り戻す魔法が、あるんだそうだ。時間と金さえあれば、取り戻せる」
カレンが震えている。
フニックの腕の中で、震えている。
「だから、お前の時間をくれ。金は、必ず俺がなんとかするから」
フニックの体も、同じように震えた。
「金だ。金は力なんだ、カレン。俺には、金を稼ぐ知識がある。金さえあれば、なんだってできる。約束する。両親と、商売の神キアエーラに誓って、お前の右腕を取り戻す。だからカレン、待っていてくれ……」
両親と、商売の神キアエーラへの誓い。
それは、ラグマ王国の商人たちの間で、契約を結ぶ際に使われている、在り来りな台詞。
商人であるフニックにとっては、絶対の約束を意味する言葉。
カレンを抱きしめ、いつの間にかフニックは泣いていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
マリアと呼ばれた女の魔法により、急速な勢いでフニックとカレンの傷は塞がっていった。
異常な早さである。
シーパルやユファレートが治癒の魔法を使うところを何度か見てきたが、それと比べても異常過ぎる。
この女は、なにか特別な力を使っている、とデリフィスは思った。
治療を終えたのか、女魔法使いは立ち上がり、軽く手を振った。
それだけで、デリフィスの剣により床に押し潰されていた『悪魔』は、消滅した。
ゆらりとエスが現れる。
普段よりも、どこか薄い。
「そろそろ、クロイツを押さえるのも限界なのだが」
「わかっているわ」
フニックの肩に、手を置く。
ローブの下から覗く眼差しは、慈愛に満ちていた。
「落ち着いたら、ホルン王国ヴァトムの街で暮らす、ワッツという魔法医を訪ねて。わたしの名前を出せば、彼はきっと気付いてくれる。必ず、あなたの力になってくれるわ」
「ヴァトムの魔法医……ワッツ……」
復唱するかのように、フニックが呟く。
ワッツ。懐かしい名前である。
少しだけだが、デリフィスは関わったことがあった。
優れた魔法医であり、『放浪する医師団』に所属していた過去がある。
後で聞いたことだが、テラントのことを知っていた。
『放浪する医師団』の一員だったことがある、テラントの妻のことも。
デリフィスは、眼の上を押さえた。
傷口がまた開いたか、血が垂れてきている。
(……なぜ、気付かなかった?)
この女魔法使いのことが、どこかで引っ掛かっていた。
会ったことがあるような気がしていた。
マリアという名前。
金色の髪。
優れた魔法使い。
デリフィスたちの旅を、いや、テラントの旅を陰から支えてきた。
デリフィスも、ホルン王国北部ロウズの村の戦いで、その魔法に助けられた。
女魔法使いが、戸口へと向かう。
部屋の外へ出ようとしている。
「どこへ行く?」
「……彼らの、所へ」
戦うつもりか、この女は。
死ぬつもりなのかもしれない。
「俺も行こう」
「それは認められないな、デリフィス・デュラム」
エスの声に、デリフィスは苛立った。
無理矢理遮られた気分だった。
「『コミュニティ』の巨人たちが今おとなしいのも、ノエルやウェイン・ローシュが遠ざけられたのも、彼女を警戒しているからだ。彼女が向かえば、彼らは君たちの追跡を後回しにする。今のうちに君は……」
「知るか。お前の意見など、聞いていない」
戦いたい時に、戦いたいように戦う。
剣を振りたい時に、剣を振る。
指図など、されたくない。
「では誰が、血を失ったフニック・ファフや右腕を失ったカレンを守るのかね?」
「……」
女魔法使いが振り返る。
微笑みを浮かべている。
「あなたは傭兵よね、デリフィスさん? 雇い主に従い、カレンさんを助け出した。最後まで、雇い主とカレンさんを守って。二人を、お願い」
「……」
エスも女魔法使いも、正論を口にしている。
それでも、エスだけの言葉だったら反発していただろうが。
デリフィスの沈黙を肯定と取ったか、女魔法使いはまた廊下へと顔を向けた。
敵の元へ向かおうとしている。一人で。
「……一つだけ、要求する」
「……なに?」
「この戦いが終わったら、テラントの元へ帰ってやれ」
「……」
後ろ姿だ。
当然、女魔法使いの表情は見えない。
唇を噛んでいるのではないかと、デリフィスは思った。
「……できない」
「なぜだ?」
「……わたしに、そんな資格はないから」
「妻だろう? あんた以上に資格がある奴などいない」
息を吐く音が聞こえた。
肺の震えが伝わってくるような吐息だった。
「……わたしのせいであの人は、地位も名誉も、ラグマの将軍としての輝かしい未来も捨てたの」
「そんなものは、テラント・エセンツという男にとって、捨てられる程度の価値しかなかった」
「……わたしは、彼を利用したの」
「……それで?」
「騙して……切り捨てて……」
「……それで?」
「それ……で……」
テラントから、おおよその事情は聞いている。
話で聞いただけだったが、賢い女なのだろうと思っていた。
だが、とんだ買い被りだった。
思ったよりも、ずっと馬鹿な女だ。
妻のくせに、テラントという男のことをわかっていない。
「その程度の些細な女の我が儘など、テラント・エセンツなら笑って許す」
「……」
「戻ってやれ。あいつが泣いて喜ぶ顔を、見てみたい」
「……戻れない。だけど……」
女魔法使いは、振り返らない。
「……ありがとう。これでわたしは、相手が誰でも、戦える」
振り返らないまま、去っていった。
エスの姿もない。
一緒に行ってしまったのかもしれないし、まだその辺に漂っているのかもしれない。
翻意させることはできなかった。
当然かもしれない。
ちょっと知っているだけの、他人である。
よく知りもしない他人の強い決心を変えられるほど、弁が立つ男ではない。
翻意させられるとしたら、それはただ一人だけだろう。
フニックと、痛みで気を失いかけているカレンを、無理矢理立たせた。
二人の時間を、知らない。
フニックと長い付き合いがある訳ではない。
カレンに至っては、知り合ったばかりである。
二人の涙に、デリフィスの心が動くことはなかった。
それでも、この二人が懸命だったことくらいはわかる。
二人のために女魔法使いが稼ぐ時間を、無駄にしてはならない。
二人のために、女魔法使いは戦う。
あの女は、大切な者と一緒に居られない二人を、自分と重ねてしまったのだろう、とデリフィスは思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
慌てて進む必要はない。
こちらから向かう限り、彼らは待ち続けてくれるだろう。
マリアベル。彼女を作り出した組織が彼女に最初に与えたのは、その名前だった。
そして彼女は、より相応しい存在として、当時候補であったレヴィスト・ヴィールという少年を、『器』の座から追いやった。
程なくして、更により相応しい存在であるハウザードが現れ、彼女も『器』の座を失うことになるが。
これから先、どうなるのか。
十代だった頃のマリアベルは、考えた。
先に『器』でなくなった少年は、別のやり方で化け物にされた。
組織は、やがては彼女のことも、なにかの実験に使いだすだろう。
彼女は、組織を抜け出した。
難しいことではなかった。
彼女は、組織でも有数の力を備えていたのだから。
『魔女』マリアベル。組織の者たちから、彼女はそんなふうに呼ばれていた。
魔法使いである。
特に、幻影を見せる魔法を得意としていた。
魔法を使い、欺き騙す。
それが、『魔女』マリアベル。
組織の追っ手をかわすために、名前を変えた。
マリィ。安易な偽名だとは思う。
逆にその安易さが、追っ手を惑わすことになるかもしれない。
得意としているのは、幻影の魔法だけではなかった。
治療のための魔法にも、彼女は自信があった。
通りすがりの村で住人の傷を癒したのは、ただの気紛れである。
深い傷だったが、村人は一命を取り留めた。
村人やその家族が、涙を流す。そして、笑顔になる。
その時の表情が忘れられなくて、彼女は逃亡者でありながら、魔法医のようなことをして回った。
『放浪する医師団』という団体に所属するようになった。
『魔女』とまで呼ばれた女だ。
『医者』として活動すれば、意表を衝くことになるのではないか。
元いた組織では、命は弄ばれるものだった。
今は違う。
命を、救うことができる。
『魔女』マリアベルだったはずの女が、いつの間にか『聖女』マリィと呼ばれるようになった。
その男と出会ったのは、ラグマ王国の西、ズターエ王国との国境近くでのことだった。
剣を向けられた。
様々な、そして複雑な感情も向けられた。
その男の近くでしばらく過ごすうちに、変化が起きた。
変わったのは、おそらく男の方だ。
向けてくる感情が、単純なものになった。
単純で、真っ直ぐで、力強い。
これまでに、好意を向けてくる男は何人もいた。
だが、他のどの男たちの感情よりも、鮮烈に彼女の心に残った。
再会は、まったくの偶然だった。
彼女は、自分の中の感情に戸惑った。
気持ちがまとまらない。
怯えているかのようだった。
だが、違う。
喜んでいるのだろう。
それから、何度も男は会いにきた。
それが、嬉しくてたまらなかった。
男は、戦場へ行く。
胸が痛んだが、止めることはできなかった。
男は、軍人なのだから。
男が向けてくる感情は、変わらない。
いや、ますます強くなっているのではないだろうか。
彼女も、男のことを大切に想うようになった。
もしかしたら、自分自身よりも。
ようやく彼女は、自身の中にある感情がなんであるのか気付いた。
それは、生まれた組織から逃げ回る日々を過ごしてきた彼女にとって、初めて芽生えた感情だった。
その感情に気付き、それから一年後、彼女は男と暮らすことになった。
マリィ・エセンツ。姓というものを、初めて持つことになった。
『魔女』でも『聖女』でもない。
夫の側にいる時だけは、ただの女でいられる。
それが、心から幸せだった。
しかし、長くは続かなかった。
組織が差し向けた、新たなる追っ手。
それが何者か知った時、彼女は絶望へと叩き落とされた。
『最悪の殺し屋』と呼ばれる男。
戦って勝てる保障など、どこにもない。
勝ったとしても、泥沼である。
延々と続く組織との争いに、夫を巻き込むことになる。
愛してくれた。それに応えたくて、妻になった。
自分の立場を考えずに、なんて安易な選択をしたのだろう。
その選択により、夫は地獄に落とされることになる。
自分のせいで。
限られた時間で悩み抜き、彼女は決断した。
すべてを無かったことにすることはできないが、それに近い状態にならできる。
追っ手は、『最悪の殺し屋』。誰よりも人殺しが上手い男。
『魔女』マリアベルを殺してしまっても、不思議に思う者はいないだろう。
殺されたことにすれば、しばらくは組織の眼もごまかせる。
死んだことにすれば、夫も諦めてくれるだろう。
夫には、地位も名誉もある。
輝かしい未来がある。
なにも知らない夫を、わざわざ組織は狙わないだろう。
実行した。上手く騙せたと思う。
だが、夫はなにもかもを捨て、組織と関わる道を選んでしまった。
妻となり、夫のことを理解したつもりだった。
だが、なにもわかっていなかった。
彼女は、また安易な選択をしてしまった。
逃げ回る日々が、再開された。
今度は、夫のことも考えなくてはならない。
彼女が気にするまでもなく、夫は自身と仲間たちの力で、大概の事態を乗り越えていったが。
だが、今回は駄目だ。
ザブレ砂漠に待つ、ザイアムとクロイツ。
彼らだけは、どうしようもない。
夫たちと関わるべきである者を、彼女は見出だした。
そして、彼女はその者と接触した。
マリア・エセノアと名乗り。
安易な偽名だと思う。
逆にその安易さが、追っ手を惑わすことになるかもしれない。
もしかしたら。
その安易さにより、夫が彼女のことに気付いてくれるのではないかと、どこかで期待していたのかもしれない。
崩壊していく『コミュニティ』の基地を進む。
扉のない、広間の中央。
待ち構える二人。ザイアム、クロイツ。
今はルーアと名乗る少年の『中身』を知り、理解した。
ハウザードが、瘴気で『器』を磨いたことも知っている。
この砂漠の瘴気が、彼女の存在を磨く。
瘴気を利用し取り込めば、疑似的な『ルインクロード』を作り出せる。
何度も使える力ではない。
彼女にはルーアのような、死んだ『コミュニティ』のボスと同質の、『ルインクロード』に馴染みやすい魔力はない。
ハウザードのような、強靭な『器』ではない。
今回一度きりしか使えない力。
使用した結果どうなるかも、見当はついている。
彼女が使える、最大の力。
それでも、倒すことはできない。
『最初の魔法使い』のために製造された兵器、『ダインスレイフ』に認められたザイアム。
そして、無尽蔵に近い魔力を持つクロイツ。
勝てない。だが、この砂漠から遠ざけることはできる。
自身の存在と、引き換えならば。
(あいつが泣いて喜ぶ顔を、見てみたい、か……)
戻ったら、本当に泣いて喜んでくれるのだろうか。
また、笑った顔を見れるのだろうか。
いや、笑顔や喜ぶ姿でなくてもいい。
怒った顔でもいいから。
(もう一度、見たかったな……)
超然と構える二人。
対抗できる力は、これしかない。
『ルインクロード』を発動させ、そして彼女は、自身も含めた三人の存在を、この世界から切り離した。
◇◆◇◆◇◆◇◆
会話をするつもりは、まったくなかったようだ。
クロイツの前に現れた『魔女』は、いきなりその力を奮った。
クロイツとザイアムのことを、この世界から引き剥がす。
自分たちの足下から世界が落ちていく、という感覚だった。
空を浮いているかのようだった。
だが、違うのだろう。
眼下に、これまでいた世界が見えているだけに過ぎない。
『魔女』が創造した新しい空間に、閉じ込められた。
ザイアムが、『ダインスレイフ』を抜く。
『魔女』が、姿を消す。
やはり、まともに戦う気はないか。
正面からザイアムに挑んでくれば、その力を消し飛ばせたものを。
ザイアムは『ダインスレイフ』を肩に担ぎ、その姿勢が疲れると気付いたかすぐに腕を降ろし、クロイツに眼を向けてきた。
「ここは?」
「彼女が創造した世界、空間」
「脱出は?」
「難しいな。信じられるかね? 彼女は、瞬間瞬間で空間を書き換えている。構成を読み取り解除を試みても、その時には別の空間に様変わりしているよ」
「そうか。それがどれだけ凄いことなのか、よくわからんがな」
歩き回り出す。
ザイアムに倣い、クロイツも足下を踏み締めてみた。
視覚的には空を浮いているが、床を踏んでいるような感覚がある。
「……動いているな」
「そうだね。空間ごと移動させられている」
「どこへ?」
「北東。ザッファー王国だな。彼女の目的が、わかるかね?」
「……ストラーム・レイル。ライア・ネクタスか」
「そう。彼女は我々を、彼らに押し付ける気だよ」
「……どうする?」
「さあ、どうしようか? まあ一応、彼女を捜してみるか。空間の書き換えと維持のために、彼女もここにいるはずだ」
おそらく、見付け出すのは困難だろう。
長年に渡り、クロイツの眼を欺いてきた女だ。
「……お前の今回の目的は、あの女なのだろう?」
「そうだよ、ザイアム。もし彼女がストラーム・レイルと力を合わせたらと考えると、空恐ろしいものがある」
「このまま力を使い続けたら?」
「彼女は、消滅する」
『魔女』には、ルーアのような魔力の性質も、ハウザードのような肉体もない。
使い続ければ、やがては朽ち果て、この世から消滅するだろう。
「彼女は自身の存在と引き換えに、私たちを戦場から遠ざけているよ」
ウェインを基地から離しておいて良かったと、クロイツは思った。
ウェインのことを直接目撃したら、『魔女』はその正体に気付くかもしれない。
あるいはクロイツやザイアムのことを放り出してまで、ウェインの破壊を試みるかもしれない。
ノエルがいれば、また違う展開が考えられた。
あの男は、化け物さえも斬れる存在である。
『魔女』が力を奮う前に、斬ることができるかもしれない。
いかに『魔女』でも、胴体から首を切り離されては、力を使うことはできない。
空間の中を移動する『魔女』の存在を見付け、クロイツは魔力を糸のように飛ばした。
捉える前に、消し飛ばされる。
『魔女』の創造した空間に魔力を流し込み、開放を試みる。
わずかに空いた穴も、瞬時に塞がれた。
そして、また世界は書き換えられる。
(……これは手強い)
要領良く力を使うエスとは違う。
消滅を覚悟した、後先考えていない力の放出の仕方。
鬼気迫るものがある。
果たして、ザイアムの前に引きずり出すことができるか。
自分の出番はまだだと思っているのか、ザイアムは悠然と腕組みをしていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
死角なくすべてを見渡せる訳ではないが、『木と金の箱庭』で創造した建物の内部とその周囲について、カリフにはかなりの部分まで把握できた。
基地から、誰もいなくなった。
クロイツやザイアムまで、どこかへ行ってしまったのだ。
だがこれで、『木と金の箱庭』の力を、全開で使用できる。
基地を分解し、木材や金属部品を頭上に集めていく。
膨大な量である。
すべてを集めるのに、数時間は要するだろう。
今からだと、明け方近くまでかかってしまうかもしれない。
しかし、集めさえすれば、ルーアを捕らえるのは難しくない。
問題は、捕らえた後になるか。
あの男は、シーパル・ヨゥロやユファレート・パーターとは違い、堅実な脱出手段を捜そうとはしないだろう。
自分が消耗していることを自覚している。
長時間拘束されるのは不利と悟り、おそらくすぐに行動を起こす。
テラント・エセンツと合流したというのも大きい。
戦闘を恐れず、大胆な行動を取れるようになったはずだ。
(……やはり、もう一度ぶつかる必要が出てくるか)
捕らえ、打ちのめす。
それで、おとなしくなるだろう。
「ナルバン、お前は、特に誰が危険だと思う?」
「テラント・エセンツ」
ナルバンは、即答した。
ルーアは消耗している。
シーパル・ヨゥロとユファレート・パーターは、魔法をいくらか封じられている。
デリフィス・デュラムは基地を脱出したばかりであり、負傷者二人を抱えている状態であることを確認できている。
戦闘に参加するのは難しいだろう。
ティア・オースターは、武器を失った。
ならば、やはり警戒するべきは、テラント・エセンツ。
「……そうだな。ではまず、あの男に退場してもらうか」
戦わない。戦闘の場に立たせもしない。
蚊帳の外から、仲間が敗れ連れ去られるところを見学してもらう。
建造のための木材などが、空中に集められている。
空を埋め尽くすほどだ。
いつ戦闘に突入しても、問題ない。
残りは、進みながら収集すればいいだろう。
ルーアたちの位置は大体わかっているが、念のため斥候として四方に兵士を放ち、カリフはナルバンと移動を開始した。