プロローグ
ラグマ王国の中央西よりに位置する街、ユガケ。
南西には王都ロデンゼラーがあり、北東には観光地として有名なロミア湖があるこの街に、立ち寄る旅人や行商人は多い。
いくつもの街道や水路が交差する地であり、ラグマ王国の交通の要といえるだろう。
道は、どの方向にも伸びている。唯一、東を除いて。
ザブレ砂漠。ラグマ王国の中央部、ユガケの東にある、生命の乏しい不毛の地。
もっとも、立ち寄ったことのあるフニック・ファフにとっては、砂漠よりも荒れ地としての印象が強い。
フニックは、行商人だった。
両親は故郷で雑貨を扱う店を構えており、フニックが生まれるまでは行商人だったらしい。
二人を見て育ったフニックは、自分が商人になることに、なんの疑問も持たなかった。
ユガケの街には、よく訪れた。
多くの道が交差し、多くの人々が立ち寄るこの街では、当然多くの流通がある。
人々は財布の紐を緩ませ、金を置いていく。
行商人であるフニックは、『砂漠の入り口』とも呼ばれることもあるこの街が、割と好きだった。
なにか、体に血が通っているというような気分になる。
様々な商品がある。
王都ロデンゼラーから送られた物や、諸外国から流れてきた物。
真っ当な物や、余り公にできない物。
(そして、公にできない物の極めつけが、これだろうな……)
フニックは腕組みをし、次々と紹介される商品を眺めていた。
ここは、今回の競売の主催者が借り受けた、とある会社の巨大な倉庫の一角。
扱われている商品とは、人間である。
人の売買は、ラグマ王国では禁止されていない。
いずれは禁じられることになるだろう。
だが少なくとも今は、道徳的にはともかく、法的にはなんの問題もない。
子供や若い女などは、貴族や金持ちなどに高値で売れる。
表向きは使用人として、彼らは雇われる。
奴隷などとは、やや趣が異なる。
雇い主である貴族や金持ちから、彼らはかなりの報酬を受け取るのだから。
ラグマ王国では、権力者が妾を取ることは当然のこととされていた。
彼らが世間から蔑む眼で見られることもない。
商品が紹介され、競売に参加した者たちが手を挙げていく。
会場である倉庫には熱気が篭っていたが、フニックは冷静だった。
冷静に商品を鑑定していく。
悪くはない商品が続くが、興味が湧くほどの物はない。
最後の商品の紹介だと、主催者の声が響いた。
会場全体がどよめく。
連れてこられたのは、着飾られた二十歳ほどの女だった。
その女が、どういった経緯で主催者の商品となったかは知らないが。
ラグマ人に多い、金の頭髪。
透き通るような肌。
通った鼻筋に、俯き加減であってもわかる、蠱惑的な瞳の輝き。
美しい、と素直にフニックは思った。
すぐに手を挙げる者が現れた。
最初にしては、かなりの額が叫ばれる。
次々と手が挙がり、値が跳ね上がっていく。
売る相手さえ間違わなければ、かなりの金になる。誰もが、そう思っただろう。
そして、フニックには売る相手として、いくつかのコネがあった。
損をすることはない。
フニックは手を挙げ、倍となる金額を口にした。
どよめき。だが、まだ手を挙げる者がいる。
その女の価値を、みなが理解していた。
値が上がっていく。
フニックは、また手を挙げた。
そして、その値を口にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
女は、カレンという名前だった。
大金をはたいて買った女である。
売る相手は、慎重に選ばなければならない。
フニックが聞いても、カレンは自分のことを語りたがらなかった。
元々、口数が少ない女のようだ。
一人の旅だった。それが、二人の旅になった。
この女を、売らなくてはならない。
そうしなければ、大赤字だった。
時間が経過すればするだけ、儲けは減る。
なにしろこの商品は、人間だ。
食費や宿泊費などを必要とする。
売らなくてはならない。
だが、なかなか売る相手を決められなかった。
二人の旅を、二年以上続けた。
一緒にいるうちに、カレンは商売のコツというものを覚えていった。
それでも、特別に役に立つということはない。
いつの間にか、売る気が失せていた。
もしかしから、最初から売るつもりがなかったのかもしれない。
男と女の関係になったのは、成り行きだった。
なにしろ、二年間毎日一緒にいる。
金は力だ。
それも、絶大な力だ。
恋人さえも手に入る。
カレンは、金で買われたことをどう思っているのだろう。
しばしばそれが気になったが、聞いて気持ちを確かめることはできなかった。
フニックは、カレンとの将来を本気で考えるようになった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ユガケ。『砂漠の入り口』と呼ばれる街。
そして、フニックがカレンを買った街。
男が現れたのは、フニックがよく宿泊に利用する宿で、寛いでいる時だった。
イグニシャ・フラウと、その男は名乗った。
痩身であり、特に指が細い。
女の指のような細さだった。
眼も細い。
そして、見下すような冷たい光がある。
人に命令することに慣れた眼だと、フニックは思った。
カレンは、部屋の隅で青い顔をして震えている。
そのカレンを冷たく一瞥してから、イグニシャという男は告げた。
「彼女を、返してもらおうか」
口調もまた冷たい。
「……返せ、とは?」
「彼女、カレンは、組織の者であるからだ」
「……組織?」
「『コミュニティ』という。当然、知っているだろうが」
「『コミュニティ』。あの『コミュニティ』ですか」
一大組織である。
その影響力は大きく、国を動かすことさえある。
フニックも、多額の献金を行っていた。
『コミュニティ』の力は、市場にまで及ぶ。
上手く利用すれば、他の商人たちよりも一歩前に出ることができた。
『コミュニティ』と関わりを持つことで、商売敵からの刺客を防ぐことにもなる。
イグニシャが、微笑を浮かべる。
「『コミュニティ』の要求を断ることがどれだけ愚かなことか、わかるだろう? さあ、彼女を返してもらおうか」
フニックは、部屋の隅に眼をやった。
カレンが震えている。
哀れに思えるほど、震えている。
『コミュニティ』に所属していたことなど、聞いたこともなかった。
カレンは、自分の過去を話したがらない。
隠し事があったとしても、カレンはフニックの物だった。
大金を払って手に入れた、フニックの財産の一つである。
「お断りします」
きっぱり告げる。
イグニシャの顔が変わった。
微笑から、はっきりとした笑みへ。
「商人風情が……」
その瞳に、暖炉の火が映ったような気がした。
「穏便に済ませてやろうと思ったが」
瞬間、光が弾けるのを感じ、フニックは床に叩き付けられていた。
カレンの悲鳴。
焦げ臭い。
産毛が焼ける程度に、体中のあちこちが火傷をしているようだ。
(暖炉の火が、爆発した……?)
思ったが、まさかそんな訳がない。
魔法かなにかだろうか。
顔を上げ、なんとか眼の焦点を合わせる。
イグニシャの腕の中に、カレンはいた。
「待て……」
立ち上がり、手を伸ばす。
カレンは俯き、かぶりを振った。
構わず、その右腕を掴む。
「この女は、人間ではなく化け物だよ。それでもお前は、その手を掴んでいられるか、フニック・ファフ?」
囁くように、イグニシャが小声で言う。
離す訳がない。
カレンは化け物ではなく、フニックの女だった。
フニックの物なのである。
「クロイツ」
イグニシャが呟く。
人の名前のように思えた。
呪文のようにも聞こえる。
痛みがあり、フニックは悲鳴を上げた。
刃が、掌を突き破っている。
カレンから手を離し、床にうずくまる。
カレンを掴んでいた右手が、ずたずたに切り裂かれていた。
「なっ……!? なんだ、それは……?」
「見ないで……」
カレンが、涙を流しながら懇願する。
右手の指先から肘までの間に、長短様々な細い刃が生えている。
「言っただろう? 化け物だと」
イグニシャの声。
それが合図であるかのように、光が、いや炎だろうか、弾けた。
床に倒される。
意識が薄れていく。
「殺さないでおいてやる。お前は、『コミュニティ』に多額の寄付をしてくれたからな。これからも、納め続けろ。それで、この女は死なない」
意識が薄れていく中、それを聞いた。
去っていく足音。
俺は商人だ。
俺には、金を稼ぐための知識がある。
金は力だ。
絶大な力だ。
この力で、取り戻してみせる。
意識を失う前に、フニックは自分に言い聞かせた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
金は力。
金で、腕の立つ者を集めた。
現在二十五人。魔法使いだという者もいる。
もちろん、こんな戦力では『コミュニティ』とは争えない。
相手は、何万もの人数で構成されているという組織なのだ。
もっともっと人を集めなければ。
集団を収めるために、屋敷を借りた。
二十五人を集め面通しをし、その日は解散とした。
それぞれに準備が必要だろう。
みなが去った中、魔法使いだけが屋敷に残った。
集まったのはならず者ばかりだったが、唯一の女である。
フードで顔を隠し、ゆったりとしたローブで身を包んでいるが、それでも肩幅や声で女だとわかる。
「なんだい?」
なにか話でもあるのだろう。
そんな雰囲気を、女魔法使いは出していた。
フードから覗く髪の色は、金。
微かに見える魅力的な唇が動いた。
「……あなたは、どこまで本気なの?」
「……どういうことだい?」
「本気で、『コミュニティ』と戦うつもり? 彼らの力で、『コミュニティ』から彼女を取り戻せるとでも?」
「……今の段階では、無理だろうね。だが、もっとたくさん雇って……」
「無理よ」
静かに遮られる。
「あんな連中じゃ何百人集めても、彼、イグニシャ・フラウには敵わない」
「! 奴を知っているのか?」
「『百人部隊』。知っているかしら?」
「……『百人部隊』?」
「特殊能力者だけで構成された、『コミュニティ』でも最も戦闘に特化した部隊よ。彼は、その副隊長」
「……」
「その能力は、発火能力、そして、透視能力。他にも、複数の能力を持っているかもしれないわね」
「発火能力……」
宿での出来事を、フニックは思い出していた。
唐突に弾ける炎。
あれは、あの男の能力なのか。
「彼は、座標を選び、どこでも自由に炎を発生させられる。どこに身を隠そうとも、彼には見える。防具も障害物も無意味よ。唯一、かわすしか防御手段はない。あなたが雇った人たちの中に、瞬時に発生する炎をかわすなんて芸当をできる人がいるかしら?」
「それは……」
「近付くこともできずに、消し炭にされるだけよ」
「……」
凶悪な能力者。
街のチンピラやならず者に、どうにかできる存在ではないだろう。
「だったら、もっと……戦える者を……」
戦闘の達人を。
雇うだけの金はあるのだ。
女魔法使いは、呟くフニックをじっと見つめている。
フードで表情は見えないのに、それがわかった。
「……本気なの?」
また、問われた。
「彼女、カレンは……化け物」
睨み付ける。
動じる様子もなく、女魔法使いは続けた。
「事実よ。彼女の右手には、『悪魔』が埋め込まれている。『悪魔憑き』という、『コミュニティ』の呪法……いえ、実験かしらね。もう、人間じゃないの」
「カレンは、人間だ。仮に化け物だとしても、俺には関係ない」
「本気……?」
三度目。
この女魔法使いは、知りたいのだろう。
フニックにその意志があるか。決意があるのか。
「本気で、化け物である彼女のために、『コミュニティ』と戦えるの? 化け物である彼女を、愛せるの?」
「本気だ。カレンは、俺が買った。その所有権は、『コミュニティ』ではなく俺にある」
「そう」
女魔法使いは、溜息をついたようだった。
細い肩が揺れる。
「あなたが本気だと言うのなら、わたしもちゃんと協力するわ」
「……当たり前だろ。そのために、君を雇ったんだ」
「わたしの言う通りにしなさい」
「……」
訝しく思い、フニックは眉を潜めた。
雇い主は自分で、女魔法使いは雇われた身である。
それなのに言う通りにしろとは立場が逆転しているではないか。
「彼女を助けるためよ。私はあなたよりも、『コミュニティ』のことをずっと……ずっとよく知っているわ」
「君は……」
何者だ、と聞きそうになった。
名前なら、雇うことが決まった時に確認している。
マリア・エセノア。確か、女魔法使いはそう名乗った。
「まず、『コミュニティ』と戦うためにあなたが雇った者たちを、全員解雇しなさい。わたしを除いてね」
「……なぜ?」
「あなたやカレンのために、本気で『コミュニティ』と戦うつもりの者なんていないわ。すぐに裏切る者が出てくる。すでにあなたの情報を、『コミュニティ』に売ることを考えている者もいるかもしれないわね」
「……」
確かに、金で雇っただけの関係でしかない。
利がないと悟ると、容易くフニックを見捨てるだろう。
「彼らをもう一度集めて……そうね、お酒でも振る舞いなさい。それで、彼らは全員忘れるわ。あなたのことも、カレンのことも……『コミュニティ』のことも」
「忘れる? そんなことが……」
「いいえ。忘れるわ」
マリア・エセノアは断言した。
魔法使いである。魔法で、記憶の操作でもするということだろうか。
不気味な迫力を、フニックはマリアから感じていた。
「……わかった。君の言う通りにしよう。彼らを集合させ、たらふく酒を飲ませる。それでいいかな?」
「ええ」
マリアが頷く。
顔が見えないかと思ったが、フードに隠されたままだった。
「それで、次にどうすればいい?」
「数週間後、この街を五人の旅人が通り掛かるわ。彼らを雇って」
「旅人を? たった五人か?」
「彼ら五人全員が、イグニシャ・フラウに、『コミュニティ』に対抗できる力を持っている数少ない存在よ。漠然と五百人を雇うよりも、ずっと戦力になるわ」
「じゃあ、その旅人たちの力を借りれば……」
「少しは、カレンを助け出せる可能性が出るわね」
「そうか……」
相手は『コミュニティ』。
それでも、わずかに光が見えた。
「それで、その五人とは?」
「……彼らのことを話す前に、約束して」
「約束?」
「彼らを、絶対に裏切らないこと」
「それは……」
裏切りも騙しも、商人たちの世界ではそれほど珍しいことではない。
フニックも、金を騙し取られたことがある。
「彼らが、裏切らないのなら……」
「彼らは、あなたを裏切ったり見捨てたりしない」
マリアを見つめる。
確信を持って、この女は断言した。
「彼らも、大切な人を『コミュニティ』に奪われたから。そして、奪い返そうとしている。あなたと同じ。あなたの気持ちを、彼らは理解できる。だから、あなたのことを裏切らない」
「……」
優れた人材であり、裏切らない。
雇う側からしてみれば、実にありがたい存在だった。
「わかった、約束する。その五人を裏切るような真似はしない」
約束だけなら、簡単に口にできる。
実際に決めるのは、五人の旅人と会い、直接この眼で見極めてからである。
マリアは、横を向いた。
「彼らもまた、無謀な戦いに挑もうとしている。協力者が必要なの。あなたは資金面で、彼らの力になれる」
遠くに語りかけているような口調だった。
「……君では駄目なのかい?」
魔法使いである。
一般人よりも、ずっと力を持っているということだった。
「……わたしでは駄目。あの人の……彼らの負担にしかならない」
「……」
五人の旅人とマリアは、どういった関係なのか。
無関係ということはないだろう。
この様子からして、少なくとも誰か一人とは知人以上の関係であるはずだ。
「それで、五人の名前は?」
マリアが、一人ずつ名前を口にしていく。
最後の一人の名前を聞き、フニックは眼を見開いた。
「……テラント・エセンツだって?」
ラグマで最も優れていると評価されていた将軍である。
元将軍というべきか。
何年か前に、軍からは離れている。
『若き常勝将軍』とまで呼ばれていた男が、今は旅人か。
「それと、政府関係者と繋がりを持ちなさい。相手は、そうね……ジェイク・ギャメがいいわ」
「なっ……」
ラグマ王国執務官ジェイク・ギャメ。
民政と外交を司る一人であり、まだ若いが政府の大物だった。
文官だが、最近では軍の指揮を執るようにもなった。
戦争もできる文官である。
「どうやって、繋がりを持てと……?」
「さあ? コネは商人であるあなたの方が持ってるでしょ? それくらい、自分でなんとかして」
「……」
「ジェイク・ギャメも、旅人たちとは顔見知りだわ。上手く接触すれば、力を借りることができる」
「待ってくれ! ジェイク・ギャメだぞ? その力を借りるということは……」
「ええ。国の力を借りるに近いわね」
あっさりと言うマリアに、フニックは絶句した。
「わからない? あなたが戦おうとしている『コミュニティ』という組織は、国に動いてもらわなくてはならないほど巨大ということよ」
「……」
途方もない話である。
だがこの女は、『コミュニティ』のことをよく知っていると口にした。
「……君は、マリア・エセノアだったね」
確認のために聞くと、女魔法使いから微かな戸惑いを感じた。
おやと思いながら、続けて聞く。
「マリア、と呼べばいいかな?」
言いながら、なんとなく気付く。
まったくの勘違いかもしれないが。
マリア・エセノアという名前は、きっと偽名なのだ。
「……ええ。それで構わないわ、フニックさん」
握手を交わす。
冷たい手だった。
「それでは、わたしも一旦失礼します」
「ああ」
頷き、だが部屋を去ろうとする背中に、フニックは声を掛けた。
「なぜ君は、俺に協力してくれるんだい?」
巨大な敵だ。
フニックに雇われる金だけでは、釣り合わない。
「……確かめたいの」
それは小声で、フニックの耳になんとか届いたという感じだった。
「化け物に、人に愛される資格があるのか……」
マリアは振り返らず、そしてそのまま部屋を出て行った。
ただ微かな足音だけを残して。